第26話 小雪の説教
「はい、準備できたわよ」
「ありがとう……小雪さん」
二階のバルコニーで、小雪は美麗の
「でも、珍しいわね。美麗からお願いしてくるなんて。初めてじゃないかしら?」
「……な、なんか小雪さんと話したかったから」
「悩みごと?」
「それは分かんない。なんか……分かんない」
折りたたみ椅子に座る二人。美麗は言葉にできないような表情で首を横に振る。特徴的なピンクの触覚が揺れた。
「そっか。なら今日は美麗が整理できるまで天体観測を続けることにしましょう?」
「ごめんね小雪さん。明日も仕事なのに」
「そんなことは気にしなくていいわよ。わたしの朝は早いわけじゃないから。……それよりも観察しないの? 望遠鏡空いてるわよ」
「あ、うん。する」
このバルコニーで星を観察する方法は三つ。天体望遠鏡に双眼鏡、肉眼だ。
天体望遠鏡での観察が好きな美麗を知っている小雪は飽きが来るまで先を譲るのである。
そして天体望遠鏡の使用方法を一通り教えてもらっている美麗は一人で観察することができるようになっている。
「……あっ、わたしネックピロー持ってくるわね。うっかりで忘れちゃったわ」
「ならアタシが持ってくるよ? 小雪さんはアタシのわがままに付き合ってくれてるんだし」
「いいえ、わたしも星を見たかったからおあいこよ。少し待っててね」
「じゃあ分かった……」
ネックピローとは首に巻くことのできるクッションのことである。双眼鏡を使う場合などにはこのアイテムが必要になる。空を見上げ続ければ首が痛くなる。その防止策だ。
小雪はバルコニーから部屋に戻り、一つのネックピローを首に巻き、美麗の分をわきに挟む。
そして両手を空けた後に蒼太が準備したタッパに詰めた煮物、ポットに入ったスープを持ってバルコニーに戻った。
無言で望遠鏡を覗き込んでいる美麗。その隣に腰を下ろした小雪は驚かせないように小声で話しかけた。
「美麗、お腹は空いてないの?」
「す、空いてるけど……いらない」
「どうして?」
「…………」
食べたくない理由があるから食べない。だが、美麗はそれを口には出さなかった。望遠鏡から目を離して翡翠の瞳を小雪に移す。
「予想だけれど……ソウタさんが作る料理だから?」
「……うん、そう。
「そのレベル……なのね。でも、今のままだと食費を捨てるようなものよ。そのお金は美麗のおばあちゃんが出してくれているものでしょう?」
「そ、それは分かってるけど怖いだもん……。外食ならまだしも、家庭料理を男が作ってそれ食べるって……」
「虫を入れられたりはしないわよ。それを強制的に食べさせられることもね」
「わ、分からないじゃんそんなの……」
そんな時である。
『きゅるるる』と、美麗のお腹の虫が可愛らしく鳴る。
外は静寂に包まれている。その音は小雪の耳にまで当然届く。
「そこまで
「えっ?」
そんな遅すぎる発言に毒気を抜かれる美麗である。
「もしわたしが作っていない程で食べてくれたら……ソウタさんの料理がこれから食べられるようになるって思ったのよ」
「じ、じゃあこれ……小雪さんが作ったの?」
その問いに『コクリ』と首を下に振る小雪。
「な、なら食べる。食べたい」
「ふふっ、もぅ……立派な手のひら返しね。とっても美味しいからかきこまないようにね?」
「うんっ」
微笑みながら煮物と割り箸を渡す小雪。スープポットは美麗の足元に置く。
お腹が空いていた美麗はすぐにタッパのふたを開け、煮物に匂いを鼻腔に入れる。
「やっば、めっちゃ美味しそうな匂い……」
「琴葉が負けを認めたくらいなのよ? 美味しくないわけがないわ」
「琴葉さんが!? 小雪さんどんだけ練習したの?」
「さて、どれだけ練習したんでしょうね。わたしは」
「煮物料理は難しいって聞くから、相当な時間かかってると思うんだけど……」
料理にはノータッチの美麗だが、煮物が難しい料理であることは知っている。
割り箸を半分に割り、タッパに入った煮物を掴む。最初に口に入れたのは里芋だった。
「っ!? な、なにこれ!? めっちゃ美味しいじゃん!」
「ふふっ、ありがとう。それじゃあわたしは双眼鏡を覗いているからゆっくり食べてね。足元に置いてあるのはスープだから」
「うんっ、いっぱい食べる!」
その瞬間、小雪が口角を上げたことなど暗い場では気づかない。
美麗はネックピローをつけることも忘れ、肉眼で星を見ながら美味しそうにご飯を食べ続けていた。
****
「あー、小雪さんめっちゃ美味しかった! スープがあったかすぎてちょっと舌やけどしたけど」
「全部食べたかしら?」
小雪は双眼鏡を覗きながら美麗を見ることなく返事をする。計画を悟らせないように自然体で……。ひよりとは大違いの対応である。
「うん! こんなに美味しいの残すわけないもん」
「それはよかったわ。……これでもうソウタさんの料理は食べられるってことだものね、美麗?」
双眼鏡を折りたたみ、片手で持った小雪はニンマリと顔を緩やかにする。
「えっ? ど、どう言うことそれ。食べられるってなに?」
「……まだ分からない? その料理を作ったのはわたしじゃなくてソウタさんよ。そもそもわたしの腕では琴葉に負けを認めさせることなんてできないもの」
「…………は? な、何言ってるわけ小雪さんは。小雪さんが作ったんでしょこれ」
目を点にしながら確認を取ってくる美麗に、小雪は冷静な態度で向かい合う。
「美麗はどんな勘違いをしているの? わたしは料理を作っただなんて一言も言ってないわ」
「勘違いじゃないって! 小雪さん言ったじゃん! 『わたしが手間をかけたものでも食べられない?』って! それ聞いたから食べたんだしっ」
「手間はかけたもの。
「ちょ、う、ウソでしょ!? じ、じゃあなんで頷いたわけ!? 『小雪さんが作ったの』って聞いた時に頷いたじゃん!」
「わたしは頷いたつもりはないわよ? ただ目の前に羽虫が通ったから避けただけだもの」
予想外の発言が次々と飛び交うバルコニー。
小雪が作った料理だと思ったからこそ完食した美麗なのだ。興奮を露わにしてしまうのも仕方がないだろう。
「そ、そんなのズルイって! 騙す気満々じゃん!」
「そんなことないわよ。言い方は悪くなるけれど全部美麗の勘違いが招いた結果でしょう?」
「……っ!!」
「それに、わたしが作っていたなら『とっても美味しいからかきこまないように』を『とっても美味しく作れたから』と言うはずじゃない」
「な、なにそれ……。なにそれっ!」
美麗は安心しきっていたのだ。小雪という存在に警戒心がなかったからこそ、引っかかりをなにも覚えなかったのだ。
「ソウタさんの料理を食べれないって言ってたけれど、一度食べたのに次に食べられないって道理はないわよね。『こんなに美味しいの残すわけないもん』の言質も取っていることだし」
「ホ、ホントありえない……。なんで小雪さんまでアイツの味方するわけ……」
一番信頼のあった小雪からこの攻撃を受けた美麗なのだ。恨めしい、そんな眼光を向けていた。
「わたしはソウタさんの味方をしたわけじゃないわ。美麗の味方だからこうしたのよ」
「そんなのウソじゃん!」
「本当にそう思っているの? もしそうならわたしは傷つくわ……」
「っ、そ、それはごめん……」
この寮でずっと支えてくれた小雪には頭の上がらない美麗なのだ。言いすぎたとすぐに反省を口に出す。
「美麗、わたしはソウタさんにもその素直さを見せてほしいのよ」
「む、無理」
「だから美麗のペースでゆっくり進みましょう? ソウタさんが怖いなら常にわたしが隣にいるようにするわ。ソウタさんにしてほしいことがあれば、文句があればわたしから伝えることもできる」
「……」
「だからソウタさんにも素直になって、その気持ちをわたしに教えてほしい。ソウタさんはそれくらいで怒るような男性じゃないわ。今日だってずっと美麗を心配していたくらいなのだから」
「…………」
美麗の頭にゆっくり手を乗せた小雪は、安心させるように優しく撫でて大人げの笑顔を浮かべた。
「それと、これはわたしから美麗に説教」
「——いたっ!」
撫でていた手をグーの形に変えた小雪は、ぽつんとげんこつを美麗に当てた。そして言葉を続ける。
「美麗、ご飯だけは絶対に食べなさい」
「っ!?」
途端、変わる小雪の声色。それは美麗が硬直してしまうほどの真剣さを含んでいた。
「ご飯を食べられない辛さを一番に知っているのは美麗、あなたでしょう? それなのに今の恵まれた環境をどうして壊そうとするのよ。お馬鹿としかいいようがないわ」
「ご、ごめん……」
美麗の過去を知っている小雪。その過去が影響してご飯を食べられなかったことも理解している。苦手な異性がいきなり管理人になってしまった時の美麗の感情ももちろん。
だがしかし、改善策はいろいろあるのだ。
「ソウタさんの料理がどうしても食べられないなら、美麗、あなたが自分で作ればいい話でしょう? キッチンは共同スペースでもあるのだから」
蒼太がいるから食べない。なんて一択の行動を取ることこそが小雪が見逃せないこと。
「ソウタさんが怖いのなら、いつでもわたしが間に入ってあげるから。朝ごはんでも、いつでも。だからご飯だけは絶対に食べること。これだけは絶対に約束、いいわね?」
「……分かった。次からそうする……」
「約束してくれてありがとう、美麗」
折りたたみの椅子から立ち上がった小雪は、美麗に一歩近づき優しく抱きしめた。
「げんこつをしてごめんなさい」
そんな謝りと共に、再び頭を優しく撫でる小雪だった。
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