第202話◇料理
妹が満面の笑みを浮かべている。
それを向けられているのは他でもないヤクモ自身だ。
愛らしい顔が象る微笑みは、無窮の愛情と全幅の信頼が込められたと分かるもので。
そんな笑顔で何かを頼まれた日には、家族としても一人の男としてもそれを叶えずにはいられないだろう。
そんな破壊力を誇る会心の一撃はヤクモをしかと捉え、直撃した。
ヤクモの鋼の精神を以ってしても、耐えきることは出来ない。
が、ヤクモの身体がその願いの成就を拒んでいた。
「はい、兄さん。あーん、してください。ほら、あーん」
食卓越しに、妹が兄に食べ物を食べさせようとしているのだ。
そこに乗っているのが食べ物と呼べるものであれば、ヤクモとて僅かばかりの羞恥心を押し殺して応じることも出来た。
冷や汗が額を伝う。
「兄さん? どうしたんですか? 妹の手料理ですよ?」
「あ、あぁ。そうだね……でもごめん、まだ心の準備が」
「そんな緊張しなくても大丈夫ですよ。兄さんが望むならいくらでもおかわり作りますからね」
無邪気にも、悪戯っぽくも見える唇の歪み。
ヤクモはここに至るまでの展開を思い返す。
簡単だ。モカがいない。兄妹が自分達で料理することになった。
アサヒは自分は料理が苦手なので辞退したのだが、ヤクモが強引に誘った。挑戦することが大事で、もし失敗しても自分が責任を持ってそれを食べるから食料を粗末にすることもない、と。
アサヒは躊躇を見せたものの最終的には頷いてくれた。
結果。
ヤクモの想定は甘かったと言わざるを得ない。
百戦錬磨などとは思わないが、これでも妹と共に幾つもの死線をくぐり抜けたきた自負があるが、こと妹に関してヤクモのガードは緩くなるらしい。彼女の苦手度合いを甘く見ていた。
元は卵だったのだ。
それは控えめに言って――炭の塊だった。
「くっ……」
ヤクモの表情が険しさを増す。
箸でなく匙で掬っている時点で察しがつくというものだが、挟むことが出来ないのだ。試みたところで砂城のごとく崩れてしまい、とてもではないが箸が適しているとは言えない。
果たしてこれを手料理と呼んでいいものだろうか。
いや、とヤクモは首を
自分が促し、妹は挑戦したのだ。
結果を受け止め、約束を履行せねば。
炭化したかつて卵だったナニカを凝視する。もはや在りし日の姿を思い出すことも困難な程に変わり果てたそれを見て、ヤクモは視線を逸してしまいそうになる。
だが逃げるわけにはいかない。
魔人の侵入を拒む人類領域の壁が如く不動を貫いていた唇を開門し、口腔内にそれを受け入れる意志を示す。
「ふふふ、子供の頃はよくやりましたよね。懐かしいです」
アサヒの腕が動く。
真っ黒の炭が匙に乗ってこちらに迫る。
回避は選択不能。
ヤクモは既に覚悟を決めていた。
だが、予想した苦味が舌先に触れることは無かった。
アサヒが寸前で止めたからだ。
「なーんちゃ――」
ばくっと。
ヤクモは匙を咥える。
「ぅぇっ? 兄さん!?」
なるほどアサヒは本気では無かったのだろう。少し考えれば分かった筈なのだ。兄思いのアサヒが、約束したとはいえここまでの失敗作を兄に食べさせるわけがない。
その程度のことも見抜けず抵抗を見せてしまった自分が恥ずかしいというのもあるし、約束は約束だというのもある。
だが、ヤクモを突き動かしたのは妹の表情だ。
匙を止めた後の一瞬、悲しげに目を伏せたのを見逃すヤクモではない。
上手く作れず落ち込んだ妹の前で、それを食べることを躊躇うなど自分はなんと酷いことをしたのだろう。
「なっ、吐き出してください! そんなの食べたらお腹壊しちゃいますから!」
ヤクモはしゃくしゃくざりざり音を鳴らしながら咀嚼を続け、コップの水と共に呑み込む。
「ぁああ」
慌てる妹から匙をすっと受け取り、皿を持ち上げて残りも掻き込む。
口いっぱいに砂でも含んだような食感だが、構うものか。
ヤクモは一息に完食。
ぽかんとする妹の前で両手を合わせる。
「ごちそうさま」
「あ、え、お粗末様でした……? じゃ、なくて! 大丈夫なんですか兄さん!?」
アサヒの瞳には心配の色。
「ちょっと焦げちゃってたね」
「ちょっとというレベルでは……。別に無理して食べなくてよかったんですよ……。冗談のつもりだったのに」
「食べたかったから食べただけだよ」
ヤクモの言葉にアサヒは戸惑うように、だがどこか嬉しそうに唇の形を変えた。
しかしそれもすぐに曇る。
「わたしに料理は向いてないんです。お役に立てなくてごめんなさいですが、次からは兄さんにお任せしてもいいでしょうか?」
落ち込んだ様子の妹に、ヤクモは首を横に振る。
「いや、
アサヒはびっくりしたようにこちらを見た。
「えー……? いやぁ、どうでしょう」
弱々しい笑み。
「アサヒがやりたくないなら仕方ないけど……」
ヤクモは考える。アサヒはしたくないのであればそう言う。向いていないという言葉を選んだ時点で、そうではないのだ。
だから彼女の苦手意識を上回る何かをあげることが出来れば……。
「僕は……アサヒの手料理が食べたいけどな」
ぴく、とアサヒの耳が揺れる。
「そ、そうなんですか?」
そわそわし出す。
「そりゃあ、もちろん。壁の外にいた時はどうしても戦ってばかりで出来なかったけれど、よかったら一緒に料理も上手くなろう」
「ま、また炭を作り出してしまうかもしれませんよ?」
「そうならないように頑張るんだ。もしそうなっても、ちゃんと食べるし」
さっきのヤクモを思い出したのか、アサヒが溢れるように笑う。
「失敗出来ませんね。兄さんの健康が掛かってますから」
アサヒはバッと立ち上がり、決意を示すように拳を突き上げる。
「兄さんがそこまで言うなら、アサヒちゃん頑張ります!」
「その意気だ」
ヤクモも控えめに拳を握った。
「上達した暁には毎朝愛妻弁当を作ります! それにわたし達が料理を習得すればモカを置いておく理由もなくなり、兄妹水入らずのすい~とたいむが手に入る! 頑張るしかないですよこれは!」
「……えぇと」
やる気を出してくれたのはいいのだが、調子を取り戻して暴走している。
「はっ……まさか兄さんもそれが狙いで? そうならそうと最初から言ってくださいよ~」
先程までの翳りが嘘のように、彼女の表情は晴れやか。
ならばいいかと、ヤクモも笑った。
コンコン、と。
誰かが訪ねたきたのは、そんな時だ。
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