第154話◇愛憎
ツキヒは母が嫌いだった。
とても、綺麗な黒い髪と、黒い瞳。浮かべる笑みは柔和で、所作の一つ一つが洗練されていた。
たおやかというのは、こういう女性の為にある言葉なのだと思う程に、母は美しかったのだ。
ある時、父と母は魔人と遭遇したという。
《班》で討伐にあたったが、父は危うく魔人に斬られて死ぬところだった。
その時、母は父を庇ったのだ。武器化を解くように父に進言し、人間に戻ることで代わりに刃を受けた。
それによって父は命を繋ぎ、五体満足で帰還した。
母の右目から頬に掛けて、裂傷が残っていた。
本来ならば、それは名誉の負傷と呼ばれるべきものの筈なのに。
母が、ヤマト民族だから。
みなその傷を嘲笑った。
ツキヒは嫌だった。母が笑われるなんて嫌だった。
家族での食事にも、自分達だけ呼ばれない。
ヤマト民族だから。
ツキヒは嫌だった。そんな扱いは嫌だった。
でも、自分が怒ると、母はいつも申し訳なさそうに笑うのだ。
ツキヒは母が嫌いだった。
自分は母のことが好きだから怒っているのに、何故か自分に謝るから。
ツキヒは姉が嫌いだった。
雪のような白い髪と、母と同じ瞳。控えめで優しく、楚々たる風情の可憐な女の子。
姉のアサヒは無能だった。魔法が無かった。その上ヤマト民族。
きょうだいは姉を嗤った。
家の中で姿を見ようものなら髪を引っ張り、泥に突き飛ばし、水を掛けて踏みつけにすることもあった。
ツキヒは嫌だった。
姉が傷つけられるのは嫌だった。
だからいつも、きょうだいを追い払う。遣い手が見つからずとも二桁の魔法を搭載する《|偽紅鏡(グリマー)》、その価値は幼い彼らにも分かるようだった。傷つけて武器としての性能を落としてしまえば、父にどんな罰を与えられるか。
そういう姑息な計算が出来るだけの知性を持ったきょうだい達は、ツキヒが現れるといつも逃げるようにその場を去る。
ツキヒは姉が嫌いだった。
『……えへへ、いつもごめんね、ツキヒ。わたしのほうがお姉ちゃんなのに』
自分は姉が大好きだから助けただけなのに、いつも謝るから。
母も姉も嫌いだ。
言わないとダメなのに。むかつくことはむかつくって。嫌なことは嫌だって。
今なら分かる。
言っても変わらないのだ。言葉だけで変わるようなものばかりではない。変えられないことの方が多い。
父に言っても何も変わらない。
誰に訴えかけても無駄。
母も姉も、だから諦めていた。けれど、ツキヒに諦めろとは言わなかった。
大切なものは失って初めて気づく、なんて陳腐な言葉がある。
ツキヒは尊大で、生意気で、天才だった。
他の奴らと自分は明確に違った。
だからそのように振る舞った。母にも姉にもきょうだいにも。
嫌いなものには悪意を向け、好きなものには我儘に振る舞った。
傍目にはその違いが分からなかっただろう。
事実、アサヒは自分が妹に嫌われていると思い込んでいるようだった。でも訂正はしなかった。姉はずっと自分に優しかったから。姉の優しさに甘えたのだ。
母が死んだ。
ツキヒはボロボロ泣いたが、姉は泣かなかった。
夜、誰も見ていない時になってから泣いていた。
でも、次の日になるといつもみたいに柔らかく笑うのだ。自分に優しい姉は、何も変わらない。
そういうふうに、頑張っている。
ツキヒはだが、それが気に食わなかった。
自分は姉より上なのだ。いつも姉を救けるのは自分。自分の方が上。
だから、自分も他人に涙は見せないことにした。
『これ以上貴様らを此処に置いておくことは出来ない』
父からの突然の宣告。
当時はただ絶望したが、今になれば分からなくもない。
そもそも、何故父はヤマト民族なぞを自身の《|偽紅鏡(グリマー)》にしたのか。母は特別優秀な武器ではなかったし、五色大家当主が夜鴉を主兵装とすることが反感を買わないわけがない。
そして、姉妹の存在。
母は父を一度も悪く言わなかった。なにより、命がけで庇ったのだ。
母は馬鹿だが、愚か者ではない。非情な男に盲目的に従う人間ではない。
信じがたいが、冷徹な父はそれでも、母を愛したのだ。そして母もそれに応えた。
家格や法によって、両親が結ばれることは出来ない。
ヤマト民族を武器にし、瞳が潰れたあとも使い続け、秘密裏に娘を二人設ける。
家格のことしか考えない人間であれば、そんなことをするわけがない。
母が死んだことで、父は娘達を庇う理由を失ってしまった。
大事な武器の士気にかかわるから、魔力税を負担する。
そんな理屈も、もう使えない。
なにより、娘二人が無能なのが痛かった。
そして、姉による父の説得の日が来て、姉だけが捨てられることになった。
ツキヒは母が嫌いだ。
ツキヒは姉が嫌いだ。
だが、一番嫌いなのは自分だ。
母の死よりも、姉の残留よりも、自分が捨てられることの恐怖が勝ってしまうような臆病者。
自分は特別だとか思っていながら、無能な姉にさえ出来ることが出来ない最低な人間。
二人がいなくなった後になって、ようやくツキヒは気付いた。
グラヴェルと出逢い、ルナとなった後。
誰もがルナを畏怖の視線で見るようになった。オブシディアン家秘蔵の《|偽紅鏡(グリマー)》。
二桁の魔法を操り、遣い手すら支配下に置く戦士。
畏怖の視線。畏怖の視線。遠巻きに眺めている者。ご機嫌窺いのゴマすり。恐れを誤魔化す為に侮蔑の視線を寄越す者。そもそも目を合わせない者。
家の中でも、それは変わらない。
自分に近づく者も、離れる者も、真意は同じだ。
ルナの力が凄まじいから。媚を売ることでその力を利用しようと考えるか、巻き込まれたくないと考えるかの違い。
ルナは、そうしてようやく母と姉が特別だったと気付いた。
ルナは性格が悪い。ほんと、最低だ。だから、人間的に好ましいと感じる者はいないだろう。
でも、母も姉も自分に優しかった。
ルナは天才だ。だから、みんな怯えている。
でも、母も姉も自分に怯えてなどいなかった。
ルナは、自分が特別だからそういった振る舞いが許されると考えていて。
事実、黙認はされていたが。
感情が。
みなの感情が、とにかく不愉快で。
母と姉は違ったのにと考えてしまい。
そして分かってしまったのだ。
あぁ、二人は自分が天才だから甘やかしたわけじゃあないんだな、と。
性格も振る舞いも最悪な者に、才能や家格・実績以外の何を理由に優しく出来るのか。
答えに至って、ルナは最低の気分になった。
ツキヒがツキヒだから。
娘で、妹だから。
――じゃあ、もうダメじゃん。
自分が自分であるというだけで無条件に愛してくれる者、というのがいたとして。
ツキヒはたった二人しかいなかったそれらを、失ってしまったのだ。
姉を見つけた時、もしかしたらと思った。
けど、隣にいたのは自分ではなくて。
自分などより優しそうで、彼女を心から笑顔にする男の子で。
自分が近づいたら、姉はきっとまた、困ったように笑うだろう。
それでも壁の内の方が安全だ。でも、それは叶わなかった。
彼女のいる集落を守り、姉の生存を毎日確認した。
どんどん、少しずつ、アサヒと少年は仲を深め、心からの笑顔を交わすようになっていった。
姉が嫌いだ。姉が嫌いだ。姉が嫌いだ。姉が嫌いだ。姉が嫌いだ。
雪みたいに綺麗な髪も、お母さんみたいな綺麗な目も、優しそうな笑顔も、全部嫌いだ。
自分は姉のことしか考えていないのに、姉を死なせない為だけに生きているのに。
こんなに苦しいのに。
幸せそうに笑う、姉が嫌いだ。
毎日、そう思うのに。
鍛錬も、魔獣の討伐も、やめられなかった。
姉が嫌いだ。
ただ姉であるというだけで、自分は彼女を見捨てられない。
――見ろよ。ツキヒは凄いんだ。いっぱい魔法を覚えて、魔力の操作も上手くなって、ヴェルの体だって自在に動かせるんだよ。入校時点で学内ランク一位なんて凄いでしょう。魔人だって単騎で倒せるよ。特級だって怖くない。魔獣の群れにも対応出来る。頑張ったんだ。十年間ずっと。
――言えよ。『ツキヒはすごいな』って褒めろ。いつも言ってたじゃないか。才能があるって言ったじゃないか。自慢だった言ったじゃないか。
なのに。
今は、ヤクモのことばかり。
母の黒い髪が好きだった。
それを受け継げたのが嬉しかった。
けれど隠した。
ヤマト民族だと思われたくないから。
母の黒い瞳が好きだった。
それを受け継いだ姉が羨ましかった。
姉は堂々と、それを晒している。
ヤマト民族であることを誇るように。
自分が天才で姉は無能だ。
自分が壁の内に残って姉は壁の外に捨てられた。
自分が一位で姉は最下位だ。
誰が見ても、あらゆる面で自分が上。
なのに、どうして姉を見ていると、苦しいんだ。
母の瞳で見られると、心がざわつく。
そのくせ、無関心でいられることだけは嫌だった。
姉の所為で、自分の心はぐちゃぐちゃだ。
「ぅ……」
負けた。
ルナは負けたのだ。
背中を強く打ち付けた所為か、息が苦しい。
頭もぶつけたらしく、ぼうっとする。
負けてしまった。
終わりだ。
姉は自分より強い。
自分は姉以下。
自分はずっと、姉を守ってやっていた。
でも、もうその必要はない。
ルナは、要らない。アサヒが生きていく為に、不可欠な存在ではない。
じゃあ、もう、どうすればいいんだ。
姉が通り過ぎて行ってしまう。
十年前なら、腕を引けばよかった。声を掛ければ笑って待ってくれた。
けれど、姉にはもうヤクモがいる。
彼と仲良く手を繋いで、振り返らずに前に進んでいる。
声を上げて、応えが無かったらと思うと。
怖くて。
「…………?」
ルナは不思議に思う。
ぼんやりした頭でも分かる。
自分は先程、グラヴェルの腕を振り払った。
戦意喪失と捉えられても仕方ない行為だろう。
グラヴェルもそれ以上、戦意は示さない筈だ。
なのに、勝敗の判定が一向にくだされない。
いや、それどころか。
――戦闘音?
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