八十二 海の歌姫

 廻船問屋に雇われて乗り組んだ船に、左耳が聞こえない年寄りが、賄いの手伝いとして乗っていた。

 その年寄りが、

「お前さんの声は海の歌姫と同じだな」

 と声をかけてきたので、口をきくようになった。

「昔、唐土の帝の船が大嵐で転覆して、それに乗っていた大勢の歌姫が溺れ死んだ。それから、亡霊となった歌姫達が歌う声が海で聞こえてくるようになった。薙いだ海に明るく影を落としていた月や星が急に光を失って真っ暗になったかと思うと聞こえてくるその歌声にうっとり聞き惚れていると、海に姿を現した歌姫達が歌いながら手招きする。それに誘われて屈強な男達が船から次々と海に飛び込む。飛び込んだら歌姫達が男達の手を取って海の中に引き込むんだ」

 まるで、その歌声を耳にしたことがありその情景を目にしたことがあるかのように言ったから、聞いてしまっていたら海に飛び込んでここにこうしていられるはずはなかろうに、と思いながら、

「その歌姫達の声と、俺の声が同じなのか」

 そう尋ねると、

「わしは元は漁り火の猟師でな。もう三十年も昔だ。漁を終えたときに女の歌う美しい声が、聞こえないはずのこの左の耳に聞こえてきた。不思議に思っていたら、一緒に漁をしていた男が手にしていた網を落としてうっとり聞き入っている。そのとき波の音がして海の中から顔を出した歌姫が微笑んだから男は真っ黒な海に飛び込んで、それきり浮かんでこなかった。続いて二人の歌姫が浮かび上がって歌いながら手招きをする。そのうち船縁に手をかけて船に乗り込もうとしたから、わしは櫂で必死にそれらを叩いて乗せまいとしたら、歌姫達はあきらめたのか海に潜ってその歌声も聞こえなくなった」

 と言った。

「俺は年寄りを海に引きずり込んだりはしないよ」

 笑ってそう言ってやったら、

「お前さんの声は、この左の耳に聞こえるんだ」

 年寄りは、遠く海を見た。

 薙いだ海に星がいくつも光を落としていた。

「こんな話、誰も信じてくれないから、あのとき、わしはずいぶん疑われて責められた」

 言って年寄りは海に向かって左の耳を傾けしばらく手を添えていた……

「やっぱり聞こえないな……」

 そのとき星が一つ流れて海に落ちた。

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