四十 桃源郷

 人が、桃源郷、と呼んでおりますところにいたことがあります。

 稀に、道を踏み誤ってここに迷い込む者がいて、それを誰かが見つけると、たちまち皆が集まります。

 私も、皆の後ろに立って、そうした人をよく見ておりました。

 たとえば、迷い込んだ若者が小鳥のさえずりを心地よく思い、咲き乱れる花々に目を奪われ、その香りに酔うようなら、若者には、集まって笑顔を絶やさぬ私たちの姿は天人に見えます。

 ただ、数日の滞在でここで暮らしたくなった若者でも、

「一度帰らなければ皆が心配します」

 そう言って出ていくと、再びここを訪れることはできません。

 ここで永く暮らすには、残してきた者を忘れなければなりません。

 だからと申しまして、気遣う何者もない輩が踏み迷えば、誰でも永く住まうことができるわけでもありません。

 それへ立っても小鳥のさえずりは聞こえず、咲き誇る花々は見えず、その香りに気づかねば、集まった私たちの姿はその者に相応の化け物として目に映ります。

 落ち武者が訪れたときには、私たちはすべて甲冑を身にまとった敵にしか見えませんでした。

 疑うばかりで人から奪うことしか考えぬ野盗には、私たちはすべて役人の手先でしかありませんでした。

 そうでなくても、たとえば駆け落ちした男女は、

「春のごとき穏やかで知った者のないここで、二人して暮らそう」

 と言ってしばらくおりましたけれど、男には周りの者がすべて己を莫迦にして嘲笑っているように見えて、女には男が他の女に色目を使っているように思えて、あげくに二人には小鳥のさえずりが聞こえなくなり、花は目に入らなくなって、喧嘩別れをして出ていきました。

 花鳥風月を愛でる歌人と称する者は、己が生み出す和歌が誰にもほめられることがなかったので去っていきました。

 世を儚んで死に場所を求めて来たという年寄りは、再びここで生きることにしたと言いながら、やがて、別の死に場所を求めて旅立ちました。

 食べることに不足はなく、ここで暮らす人々は、お互いにただ微笑みを交わすという暮らしを続けているだけです。心を悩ますものは何もありません。穏やかな日々が続くだけです。

 ですが、ここで暮らす者は増えません。

 かく言う私も、今はこうしてここにおります。

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