第102話 One’s Hope  一つだけの願い ACT3

あえて彼には連絡を入れなかった。

あの日の朝、出社した私のディスクの上に置かれた一通の封書。

手書きの「辞表」と書かれた封書だった。


「あへっ? 何これ」


裏には「山田浩太」と記されていた。

「ふぅ、何だろうね。まったく意味が分からない」


それもそのはずだ。昨日から彼の身に起こった事件を私は知らないのだ。


「ん――――、ん――――。どうしたものかなぁ」


普通はすぐにこんな理不尽なことする馬鹿なやつに、間一髪連絡を入れてこの場に引きずり出すのが筋かもしれない。でも、その時私は彼に連絡をするのを拒んだ、何かしら私に、今は触れてはいけないという何かがそうさせていた。


もうじき愛理ちゃんも出社してくるだろう。まずは彼女から、何かをつかみ取ることから始めよう。


「おはようございます」

そうしているうちに愛理ちゃんが出社してきた。


ちょいちょい。視線を愛理ちゃんに向け、彼女を呼び出した。

「なんですか部長?」

「いいからちょっとこっち来て」


彼女の手を攫み人目のつかないところで

「……愛理ちゃん」


「あっ! 部長、マリナさん……駄目ですよこんな朝早くから。今日は替えの下着持ってきていないんですから」


「そうなんだ。でも……じゃなくてさぁ」

「へぇ? 違うんですか」


「あ、いいや、愛理ちゃんがその気ならいいんだけど」

て、そんなことじゃないんだよ。


「愛理ちゃん。今朝来たら私のディスクの上に、こんなものが乗っかってたんだけど、何か知ってる?」


「嘘、せ、先輩。そんなぁ」

「何か知っていそうね。話してちょうだい」


「あのぉ……昨日先輩……」


大体の事は愛理ちゃんから訊いて何となく察しが付いた。

「そうなんだ繭ちゃんがねぇ。それは大変だったわね」


「ええ、私なんかどうしたらいいのか分かんなくて、ただ泣いていたんですけど」


「うん、でもそれとどうして浩太が、こんなものを書かなきゃいけないのよ」

「ええ、っとですねぇ。私も詳しい事情は分からないんですけど、先輩。あの美山専務を殴ったそうなんですよ」


「美山専務を殴った?」


「はい、そうです」

なぜか愛理ちゃんはにこやかに答えた。


「なんかありそうね」


「そうですね。でも私も先輩があんなことしたのには、それなりの事情があったんだと思います。意味もなく暴力を振るう人じゃないことくらい知っていますからね。私は先輩を信じています。そして繭ちゃんの事も」


「それで浩太今どこにいると思う」

「連絡は入れなかったんですか?」


「うん、多分今私から連絡入れても浩太の事だから、出ないんじゃないのかなぁ。もし出たにしたって、そんな状況じゃなにも話さないと思うし」


「で、その辞表。マリナさんは受理するんですか?」

「今はまだ受理出来るわけないでしょ。これは私が一旦預かっておきます」


「多分、先輩は今繭ちゃんの所だと思います」


「そう……」

マリナさんは私を軽く抱きしめて「心配しないで」と耳元でそっと告げた。


ああ、今日はなんだかとても忙しい一日になりそうだ。




病院にもどるが、繭のその姿は何も変わっていなかった。

心電図のモニターは規則正しい波形を描いていた。


「こんにちは」そこに現れたのは友香がまだここにいた時、親しくしていたと言う、確か心療内科の先生だった。


「大変でしたね。連絡を訊いた時信じられませんでした。繭ちゃんがこんな姿になっているなんて」

「確か秋島先生でしたね。その節は友香もお世話になりました」


「ううん、でもほんと寂しいよね。もう友香さんもいない。なんだか懐かしくて泣けてきちゃいそう」

ちょっと、涙ぐんだ声で彼女は言う。


「それなのに繭ちゃんまでこんなことに」

俺は何もその後返さなかった。


看護師、医師達が入れ替わりこの病室の中を行き来し、患者の様子を見ていた。

相変わらず繭の意識は戻っていない。

あとは繭次第だと、医師は俺に告げた。


怖かったんだろうな。物凄く……。それなのに俺は繭に何もしてあげれなかった。

俺のせいだろう……。俺が繭を結果こんな目に合わせてしまったんだ。


自分を責めることが今の俺にとって、唯一の慰めの様な気がしている。


一日中呆然としながら俺は繭を見守っていた。

いつ意識が戻るのかも分からないまま。


気が付けば秋島先生の姿も、誰も俺の周りにはいなくなっていた。

「もう会社も辞めたし、俺は縛られるものは何もないなぁ」

それでも、あの部屋には戻る気にはなれない。


俺にとってあの部屋は俺だけの空間じゃなくなっていたからだ。

繭がいたから……。


繭の存在はかけがえのない存在だったことに、改めて気づかされた。




「もうなんて事なの。繭ちゃんがあの美山専務の娘だったなんて。ま、義理の様なんだけど。相当苦労してたんだぁ繭ちゃんって」


私のつかえる情報網をフルに使い、梨積繭について調べ上げた。

調べれば調べるほど、怒りがこみあげてくるのは、多分私だけではないだろう。

彼女を知る人たちであれば、今まで歩んできた彼女の人生はあまりにも想像を絶するものだったからだ。


そこで辿り着いたのが福祉課の昭島さんと言う人物だった。

しかも話を訊けば、浩太の義理の兄にあたる人物だった。


やはり、浩太と繭ちゃんは出会うべくして出会った二人なんだと、私はその時痛感した。

それなのに、あの馬鹿な浩太は何を考えているんだろうかと不思議に思えたが、事の結末を強引だったけど、昭島さんから訊き出した。


「なるほどね。そう言う事かぁ……。やるじゃない浩太、見直したよ。ううん、私今以上にあなたの事愛したくなちゃったよ。どうしてくれるのよ」


この責任はきっちり取ってもらうからね浩太。覚悟しておいてちょうだい。



「ふぅん、あの山田がなぁ。そんなことがあったのか」


「まぁね。でもさぁ、私、彼の事もっと好きになっちゃった。それは村木さんだって同じじゃなくて?」


「ああ、彼奴はなぁなんか息子の様な気がしているんだよ。それに俺たちがこの会社に関わるよになった頃を思い出せてくれる奴なんだよ」


「あの頃かぁ……懐かしいなぁ。今思えば熱かったなぁ」

「ああ、でもまだ若くてガキだったな」

「互いにな」


「あははは、そうだったよなぁ。でもよぉ、俺たちがガキでいられる時代があったからこそ、今の俺たちがあるんだと思うよ」


「そうだ。俺は途中で抜けちまったんだけどな」


「そこでお二人にあの大馬鹿野郎を救ってもらいたいんだけどなぁ」

「ま、仕方がねぇか、俺たちの息子だからな」

「そう言ってもらえると思っていましたよ村木さん」



「これは雨宮部長の願いなんだよな」


そうこれが……。


私の『One's Devout Hope心からの願い』だから。

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