第92話 怠惰の『煉獄道』 4

 ハルトが意識を失って倒れた日からすでに一週間が経とうとしていた。リリアやユナと一緒に働き、家に帰って両親と一緒にご飯を食べる。何の変哲もない幸せな生活だ。当たり前の幸せを噛みしめながら、ハルトは日々を過ごしていた。


「お疲れ様です」

「お疲れ様でーす」

「なに、リリアもハルト君ももう上がりなの?」

「えぇ。今日はそこまで忙しくならないだろうからって。早めに上がっていいって言われたわ」

「むー、ずるーい。アタシはまだまだ仕事が残ってるのにー」

「なら早く帰れるように頑張ることね」

「言われなくても頑張るけどさ。まぁいいや。文句言っててもしょうがないし。お疲れ様ハルト君。今日も頑張ってたからこれあげる」

「え、いいんですか?」


 そう言ってシーラがハルトに渡してきたのは小さく切ったパンを揚げたお菓子のようなものだった。


「ハルト君これ好きでしょ? 休憩時間に食べようと思って作ってたんだけど、思ったより多く作り過ぎたからさ。持って帰って」

「ありがとうございます!」

「いいっていいって。それじゃあまた明日ね」

「はい。また明日」

「よかったねハル君。それじゃあ帰りましょうか。もうすぐ夜ご飯の時間だし」


 そのまま店を出たハルトとリリアはさきほどシーラにもらった揚げパンを食べながら家へと帰る。


「美味しいねこれ。ハル君が好きなのも納得かも」

「でしょ。ボクこれすごく好きなんだ」

「そんなに好きならまた今度私が作ってあげる。でもあんまり食べ過ぎちゃダメだよ。さっきも言ったけどもうすぐ夜ご飯なんだから」

「うん、わかってるよ」

「それにしても、ハル君ももうだいぶ仕事に慣れてきたね」

「え?」

「この間ハル君倒れたでしょう。あの後少しの間ぎこちなかったけど、今はもう普通に動けるようになったなぁって」

「それは姉さん達が助けてくれたおかげだよ。僕一人じゃまだできないことも多し」

「それでももう十分頼りにしてるよ」

「そう言ってくれると嬉しいけど」


 ハルトはこの一週間で今の生活に適応し始めていた。店での仕事にも慣れ、自分が《勇者》であったということすら夢のこと考えるようになってしまっていた。


「お帰りなさい。今日は早かったのね」

「うん。今日は忙しくないから早めに上がっていいって言われたの」

「そう。もうすぐしたらお父さんも帰って来るから、そしたらご飯にしましょうか。ハルト、お皿テーブルに並べてくれる?」

「うん、わかった」


 マリナに言われてハルトはテーブルに食器を並べる。そうしているうちに父であるルークが家へと帰ってきた。


「おぉいい匂いだな。もうご飯できてるのか」

「その前にただいまでしょ。お帰りなさいルーク」

「あぁ。ただいまマリナ。今日も無事に帰って、君の顔を見れたことを幸福に思うよ」

「私もよ」


 そう言って互いを抱きしめ合うルークとマリナ。ハルトとリリアがいてもお構いなしである。そんな二人のことをリリアは冷ややかな目で見つめる。


「お父さんもお母さんも、私達の前では止めてって言ってるでしょ」

「なんだリリア。お前も俺に抱きしめて欲しいのか? 仕方ないなぁ」

「違うから近づかないで」

「うぐっ。冷たい……マリナ、娘が冷たいぞ」

「そういう年頃ですよ。仕方ないと思うしかありません」

「そうなんだけどなぁ。話には聞いてたが、実際にそうなると結構心にくるものがあるというか……しかしなリリア、これだけは言っておくぞ。俺とマリナがこうして仲がいいからお前に弟ができたんだぞ」

「まぁそのことには感謝してるけど」 

「だろ? つまりこれは正しいことなんだ」

「別に私達の前でじゃなかったらいくらでもイチャイチャしてくれていいけど。それを見せられる私達の気持ちになってよ。お父さんだってそんなの見せられたら嫌でしょ」

「いや、別に。俺の父さんも母さんもこんな感じだったしな」

「おじいちゃんとおばあちゃんまでそんな人だったなんて……血筋ってこと? あり得ない」

「お前にだって好きな人や彼氏ができればわかるさ。いないのか? そういういい人は」

「ハル君以外の男に興味無いから」

「お前なぁ……」

「まぁまぁルーク。リリアのこれは今に始まったことじゃないでしょ。それよりもご飯食べましょ。せっかく作った料理が冷めちゃう」

「おぉそうだな。俺もお腹空いてるぞ」


 こんな風にリリアとルークが言い合いをすることなどいつものことで、ハルトにとっては見慣れた日常風景だった。その後は特別変わったこともなく、時間を過ごす。ご飯を食べて、談笑しお風呂に入って次の日に備える。何かしなければいけないことがあるということもない。

 お風呂に入った後、自分の部屋に戻ってきたハルトはふと物思いにふける。


「ボク……これでいいのかな?」


 一人になった途端に心に満ちる焦燥感。それがどこからくるものなのかハルトは掴めていない。しかしそれは日を追うごとに、《勇者》であった記憶が薄まっていくごとに強くなっていった。


「ボクが《勇者》だったのは本当に夢? それとも現実? もし現実だとしたら……ボクはどうしたいんだろう」


 《勇者》であったことを完全に夢にしてしまうことをハルトの中の何かが拒否している。忘れるなと、思い出せと訴える何かがいる。しかしハルトはその声から耳を背けていた。んぜなら、今の生活が心地よいから。リリアやユナ、シーラと一緒に働く生活。何も心配する必要のない順風満帆の生活だ。それを壊してしまうことを、ハルトは恐れていた。


「姉さん、ボクは……」


 小さく呟いたハルトの言葉は、誰にも届かず消えて行くのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る