8日目 推し

彼曰く、あの子が好きで、このキャラも好きで、あの店のドーナツも好き・・・。


 ***


この世界では”愛”というものが形骸化していると感じるのは、穿った見方だろうか。


好きがあふれる世界。

仏教やキリスト教、様々な宗教を取り入れ、すべてを文化として取り込んでいる日本では、「愛」には様々な形がある。


キリスト教を例に挙げれば、愛の形として最もわかりやすいものは、つまり性的な愛がある。

それから友愛、いわゆる隣人愛という、誰かのために、何かのためにという互助の心もある。

似たようなもので家族愛なんてのもある。

それに加えてキリスト教で説かれているのが「真の愛」。

アガペーとも呼ばれるこの愛は、教義においては「神の愛」として、神が人間に向ける無限かつ不変不朽の慈愛の心だとされている。

”真愛”が”神愛”というのは言葉遊びだろうか。

見返りを求めないという意味では、確かに「神の愛」は真実「愛」と呼べるのかもしれない。

神は私たちの前に現出することのない、魂だから。


以前にテレビのニュースか何かで見かけた俳優が、インタビューで

「私たちは真実の愛で結ばれています」

と答えた半年後、突如不倫ニュースを報道されているのを見かけてちょっと笑ってしまったのを覚えている。

まさに口に含んだばかりのコーヒーを吹き出しそうになって慌てたものだ。


結婚というのはある意味、ステータスを獲得することだと思う。

周囲の評価、社会的立場、という観点からも利益を得ている、見返りを得ているということだといえるだろう。

では見返りを求める愛を、はたして「真の愛」と呼べるのだろうか。

条件のいい異性と付き合うとき、「いつかこの人と結婚するのだろう」と考えないか。

周囲の評価が高い人間と初めて出会ったとき、「この人は何か面白いことをしてくれないだろうか」と思わないだろうか。

いわゆるルーキーと呼ばれる新人と仕事の話をしたとき、「きっとこの人はいい仕事をしてくれるはずだ」と期待しないだろうか。

その結果として付き合いが増え、仕事も増し、生活が豊かになれば万々歳だろう。

ある意味人生のゴールともいえる地点に到達することができれば、私は相手に対して「愛」を抱くことができるかもしれない。

最終的に情愛になるか、友愛になるかはこの時点では不明だが、何かしらの愛はあるだろう。

これが無償かと考えるとき、私ははてと首をかしげることになる気がする。

結果だけを見れば生活水準の向上や社会的地位の向上など、様々な見返りをもたらされているのだ。

その過程に目を向けて、さてそこに打算はなかったかと問われると、それこそ考え込んでしまう気がする。

というより、多分言いくるめられる気がするし、言い返したとて「でもいい生活してるじゃん」と突っぱねられて「まあ、うん」と言ってしまうだろう。

私は口げんかに強くないのだ。


こうした「打算的愛」というのは、得てして悪循環の種になりがちだ。

何か一つの悪いきっかけにひっかかっただけで、二人の間の関係値に揺らぎが生じ、少しずつ明らかになる真実によって一気に罅が大きく広がってしまう。

だが人間社会において、人々はその「打算的愛」を通じて人間関係を作っている。

社会的地位向上のため、会社への貢献のため、いい生活をするためなど、自分や自分の所属する組織にとって利のある行為をする。

そうすることで「人間的生活が保障される」からだ。

日本のように社会保障がしっかりと確立されている国では、一定の義務をこなしさえすれば危険の少ない生活を享受できるし、社会的立場も担保される。

大局的かつ大雑把に見れば、その国に住んでいることでさえ「その国への愛」と言えるかもしれない。

そしてそれも「税金を納めさえすればいいだろう」という打算が含まれている。


実益につながる愛には打算が含まれる、まるで博打だ。

ハネるかツブれるかの二択しかない脆い構造、地震大国の日本が作っていいものではない。

だからこそ形骸化しているような気がするのだ。


そんな形骸化した愛の中で面白いのが「推し」という概念だ。

日本における韓国の男性アイドル、女性アイドルの人気はいうべくもないし、アニメや漫画のキャラクターも多く創造され、また愛されている。

ただのグッズや、ときには政治家のおじさん、料理番組のおばさんでさえ「推し」の対象になることもある。

対象を見ていて応援したい、なごむ、癒される、彼を見ていると元気が出てくる、彼女のように頑張りたいなど、理由は様々あるが、基本的には「自己満足がある程度満たされる状態」になる愛の形だと言える。

自分が得をしている、という意味では打算的愛だが、破綻したときの被害が自分のみに集中するような構造をしている。

得をするのも自分だし、害だと感じるのも自分。

「推し」という表現の仕方も様々で、たとえばファンクラブに入ったり、ライブや公演を追っかけたり、グッズを購入したり、SNSなどで発信したりなど、技術の進歩に従って種々生まれている。

これらの愛は相手に届いてはいるが、性愛や友愛のように直接的ではない。

だが「推しの存在が私の心の支え」「推しに金が使えるだけでうれしい、なんだか応援できている気がするから」など、個々人の「内面的満足感」は満たされている。

一方で相手は「自己実現欲求」を満たすことができている。

二人の関係値は薄氷のようにひび割れやすく、だが簡単に作られやすい、世にはびこる一般的で簡単な愛の形だと思う。

それが今、「推し」という言葉によって、とても大きな集団になりつつある。

簡単に作れる関係値を作ることに、皆が酔いしれているのだ。


同じ「打算的愛」でも、「推し」という言葉にするだけで世間の見方が変わる。

「アイドルとファン」という表面的な愛の関係は、この世界では最も平和な愛なのだと思う。

愛の形骸化した世界において、これは人々にとって救いなのだ。

無駄かもしれなくても払う価値のある愛として、ファンになるというのはとてもとっつきやすい。

生きるという最も基本的な条件を簡単に取り戻すことができるきっかけとして、「推し」の存在は侮れない。



カフェにて、荷物を置きっぱなしでマッサージに行っていた友人にこの話を持ち掛けた。

その後の結論として、現在の「推し」という概念は「クレンジングされた愛」であり、その方向性は相手への直接的なインタラクティブを必ずしも求めない、自己内在的な愛を公然と宣言したもので、かつ積極的に他者との交流を求めるものである必要はない、ということになった。

ベースとして本人との縦のつながりはあるが、これは当然のものであり、他人との横のつながりの方が発展的な愛の形なのだ。

つまり、結果的にファンがファンと仲良くなるが、必ずしもそうである必要はない。

なぜならその根底にある原理こそが、「同じ対象を推している」という状態だからだ。

ある種の信仰心にも似ているような気がするが、「このキャラの存在は神」ともいうようにあながち間違いではないかもしれない。


しばらく何かについて語る、考察する、ということをしてこなかったけれど、これほど舌が回った日はここ2,3年なかったかもしれない。

長い間「誰かを好きになる」という考えに囚われ、理解しがたいものと忌避していたが、ようやくその答えにたどり着いた気がする。


私にとっての「推し」という言葉は、それこそが「推し」の存在だったのだ。

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