17日目 シン・エヴァンゲリオン劇場版:||⑦
彼曰く、明日また生きていくためのおまじない。
***
昨日のお話で出た色の対比。
赤は血、緑は生気。
すなわち赤は死、緑は生。
集落での風景描写は映画全体の3分の1ほどか、
体感ではそれ以上の時間を費やしています。
とにかく長い、そう感じます。
対比されているのはシンジとレイ(仮称)。
エントリープラグから引きずり出されてから歩き気力すらなくした少年と、
他人の言う”綾波レイ”ならどうするかを気にして死ぬことを避けた少女。
表情だけ見れば、どちらも生きることに対しての執着は見られない。
なのにどうしようもなく生きている。
死んでも構わないと思っている少年と、死んでも構わないと思っていた少女。
同じ現実を生きているのに、生の道の歩み方はそれぞれ違う。
いっそ死にたいのに周りがそれを許さないし、誰かが殺してくれるわけでもない。
一方で、いつかは無くなる命と理解した上で、生きることを初めて楽しんでいる。
生きているのに後ろ向きな人間と、前向きに生きることを楽しんでいる人間。
シンジをかくまうアスカたちは厳しくも優しい言葉をかけますが、
一向にシンジは起き上がらない。
死ぬ気もなければ生きる気もない。
レーションを無理やり食べさせられるシーンは少しほほえましいけれど、
仮住まいから離れて集落端の湖のほとりでレーションに手を伸ばしてしまうシーン、
こちらは呆れてしまうと同時に、気持ちが分かってしまう辛さがあります。
「生きていても仕方がない」「生きている意味がない」
「死んでしまった方がましだ」「何もしたくない」
あらゆるものを拒絶して、生きることさえやめようとしているのに、
本能が生きることを続けさせる。
気持ちと行動の乖離が自分でも抑えられず、何故か涙がこぼれて流れる。
落ち込むほどの失敗や挫折を経験した人は多少なりともわかるかもしれません。
他からの必要性は存在しないのに、自分勝手な必要性は存在している。
結果として、生きている。
短い命と認識してなお、今までに見たことのない生活に好奇を抱くレイ(仮称)。
人間の、ごく自然に行っている、生の営み。
朝起きて、ご飯を食べて、畑を耕して、苗を植えて、収穫して、掃除をして、
温泉に行って、世間話をして、読書をして、ご飯を食べて、布団で寝る。
過去先人たちが紡いできた生き方の記憶を、
記録でしかデータを知らないレイが辿りなおす。
ここにも他からの必要性があるわけではないし、自分勝手な必要性はある。
結果として生きている。
どちらであれ、生きていればそれでいいという人もいれば、
生きているなら生き様を見せろという人もいるでしょう。
間違いなくシンジは前者、しかもその劣化版。
レイ(仮称)は、むしろ生き様を見て学んでいる感じです。
なぜこんな集落があるのかの説明や、どのように生活物資を補給しているか。
シンジが少しだけ前向きに変わった頃に説明が詳しくなります。
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