19日目 涙
彼曰く、人の涙は儚い祈り、だからこそ美しい。
***
人は絶望に涙する。
人は悲嘆に涙する。
大切なものをなくしたとき、
大切な人を失ったとき、
人は涙を流す。
血と土埃にまみれた命のやり取りをする戦場であれ、
人波で1メートル先も曖昧な都会の真ん中であれ、
アルコールと塵ひとつない空気で満たされた病室であれ、
目をつぶったまま走り回れる自分の家であれ、
涙がこぼれることは妨げられない。
愛する人を失って、
大切な贈り物をなくして、
約束のものをどこかに置き忘れて、
自分と同じくらい大事な人が消えて、
人は多くの疑問を押し込めて、
一筋の涙を流す。
どこであれ、涙を生むのもこぼすのも、人なのだ。
人がどこにいるかが大切なのだ。
涙は、想いだ。
たったひと雫の小さな水に、
何にも変えられない強い想いを、
人知れず、自覚せず、預ける。
溢れんばかりの想いが沸き上がったとき、
言葉に出来ないほどの重圧がのしかかってきて、
まんまるのガラス玉を伝ってこぼれ落ちる。
どれだけ絶望を叫んでも、
いかにその名を呼んでも、
一度失われた命は戻ってこない。
声が出なくなるまで、想いを声にしても、
形を取り戻すことはない。
そう気づいたとき、気づいてしまったとき、
去来した万の感情は波が引くように薄れていき、
代わりに抗えない衝動が心を揺らす。
枯れた砂漠から噴き出すオアシスのような、
幻想的で夢のような、現実とは違うものを見ているような、
あるいはそう信じているだけなのかもしれないけれど、
瞳と世界の間に薄い水の膜が膨れ上がってくる。
力なく倒れるように、頬を伝う想いの雫。
それは祈りに似ている。
自らには抗えない大きな存在を目の前にしたとき、
人は現実が変わるように祈る。
「どうか夢であってほしい」
「あの頃に戻ってくれ」
「私の大切な人を返してください」
絞り出すように溢れた想いを流しても、現実は変わることはない。
決して叶わない願いだと知っていて、なお祈る。
叶わない改変。
変わらない現実。
絶望に迫る最後、人は涙を流し、祈る。
だれか、遠くにいる何かに届くように、
多くの想いを涙に込めながら祈る。
そのとき人は、現実から目を背けていない。
叶わぬ理想を願いながら、現実を受け入れようと必死なのだ。
意味がないとののしられようと、
現実を受け止めろと正論をぶつけられようと、
その祈りを妨げることはできない。
人の涙は、見たくもない現実を受け止めようと、
何重もの想いで作り上げた、世界で一番脆い、透明な壁なのだ。
誰でも持っている多くの想いをひと雫に凝縮して、
押し寄せる現実を反射して、壊れ落ちていく。
やがて現実は風のように吹きつけて、
泰然とした城のように佇まいを正す。
風は前からだけ吹くわけではない。
それでも生きろと、それでも進めと、
止まった足を動かすように、背中を押すように吹く風もある。
だれかの想いを乗せた風が、祈りへ応えるように吹く。
「大丈夫、ずっとそばにいるよ」と。
役目を終えた祈りは風に乗り、散る涙は儚く消える。
まるで夢のように、七色の光を湛えて、想いの雫が消えていく。
人の涙は最も脆い。
そして最も、美しい。
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