6日目 蝉
彼曰く、生きているか死んでいるか分からないやつは嫌いだよ。
マンションに住む先輩の話。
先輩はとても仕事のできる人です。
人の話はよく聞くし、やり取りする人への気遣いもいい。
後輩の面倒も見てくれているし、分からないことを何回聞いても、
分かるようになるまで教えてくれる。
優しくて頼りがいのあるお兄ちゃんみたいな人です。
その反動かは分からないけれど、少々話し方に荒さが出るのが難点。
取引先の人に対しては基本的に優しいけど、
社内の人間に対しては時折あたりがキツイ場合もある。
弁えている感じはあるからいいのだけど、
他の同期から見ると少し怖く見えるらしい。
後輩からどう見られているかなんて気にしなさそうな人だから、
同期の感想なんて知ったこっちゃないんだろうな。
少なくとも私はそう思ったことはない。
同期の中で私だけがその先輩と同じ部署だから、なのかもしれないけど。
たしかに出社する時間は遅い方だし、
デスク作業をしているときには荒っぽい声を上げたりする。
本人の知らないところでその人の仕事ぶりをべた褒めしているらしいし、
周りから見れば変質者に見えるかもしれない。
そんなことはないと思うけどなぁ。
私に人を見る目がないのかな?
それとも私が人に興味がないだけかも。
しょせんは他人の人生、
知らなくていいことは多分にあるし、
それを知って印象を変えてしまうようなら付き合いを希薄にすればいいだけ。
何かが起こった時、自分に火の粉さえ飛んでこなければ。
炎上案件、ダメ、絶対。
危険なことに手を出すよりも、
安全で手堅い道を行った方がいい。
私のスタンスがそうなんだから。
それをわざわざ曲げる必要はない。
どれだけいいと思っても、
憧れて真似てみようとしても、
再現できないことはあるし、
自分の核がなくなってしまう。
面白いもの、怖いもの、楽しいもの、嫌なもの。
人それぞれ違いがあるからこそ個性が出るのだし、
仕事の仕方にも色が現れる。
同じ色ばかりじゃつまらない。
たまには変な色もあった方が、笑いもとれるってものです。
別に周囲の関心を引くために、
苦手なものが存在するわけではないけど。
そういうものの一つや二つ、あった方が人間らしい。
そしてそんな先輩にも。
「これだけは無理」というものがある。
日本の夏と言えば、の蝉。
梅雨が明けて日差しが葉の隙間を縫うようにして地面に突き刺さっている。
激しくて燃えるような明るさに負けない鬱陶しさで、
日本の夏には蝉の声がこだまする。
実家の庭、学校の校庭、キャンプ先の森の中、街路樹の太い幹の上。
マンションの壁面、街灯の光るランプ部分、車の上、軒先に置かれた展示用の服。
いたるところに奴らはいて、
自分の一生の力を絞って、絞りつくして、
生命の鼓動をがなり立てる。
なんでそんなに元気なの?
こんな暑いときにうるさくしないで。
近づいて飛び立つときにおしっこをかけるなよ。
マンションの廊下でくたばっていると思ったら、
急に鳴きながら飛ぶとびっくりするからやめてくれって思う。
蝉の話が少しでも出ると、
先輩は毎回その話をする。
なんでそんなに主張が激しいんだ。
仕事でも自分の意見はちゃんと持っている人だけど、
人の意見を聞き入れて柔軟に対応してくれるイメージなのに。
夏の騒音の正体の話になるとまるで頑固なおじいさん。
「とにかく嫌いだ」の一点張り。
健気さのかけらもないと言われてしまう。
ちなみに私、蝉は嫌いじゃない。
命を使い切って次の世代につなげようとする姿勢でいえば、
彼らほど熱心な存在はないと思う。
それが本能に刻まれた、
細胞の強制的な行為であっても、
理性を持ってしまった人間にはたどり着けない領域だと思うから。
身近にああいう人種がなかなかいないこともある。
蝉の声帯を初めて聞いたとき、
「私は彼らみたいになれないな」と感心した。
人ではない存在に憧憬を抱くことはままあることなのです。
それは自分にはできないことだから。
同じように、
先輩ほど蝉を嫌いになることはできない。
アブラゼミの鳴き声を聞けば夏を感じるし、
ツクツクボウシの消えていくような声は秋の足音を感じさせる。
季節を、命の営みを感じることができるから。
蝉が死んでいると分かるのは、
腹を上に向けて転がっているとき。
人間が死ぬときも同じですね。
いとをかし。
はっきり死ぬと分かるその日まで、
生きていることを示せば嫌われることもない。
先輩の仕事のすべてをトレースすることはできないけれど、
自分なりの命の使い方で、
死ぬまでの熱意を保ちたいな。
そう、いま目の前の道に転がっている、
仰向けで足を閉じた蝉のように。
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