28日目 もののけ姫

彼曰く、生きろ、そなたは美しい。


『生きてりゃ何とかなる』

物語の終盤、おトキさんが弱音を吐く甲六に投げかける言葉。

大切なものを失った矢先にふとこぼれた本音に流されないよう、

アシタカが助けてくれると信じ、夫を勇気づけて、

後ろ向きに考えようとしないことをストレートに表現しています。

それはまるで自分に言い聞かせているようでもあり、

築いてきたものに執着するだけが生きることではないと、

豪胆さゆえに再認識していると、私は思うのです。

タタラ場の女たちのまとめ役であるおトキさんの言葉には、

どこか頼りがいがあり説得力も感じます。

『もののけ姫』の中でも心に残る言葉の1つです。


ジブリ作品はどれも多くの名言を残しています。

子供の頃に聞いた言葉も、大人になった時に改めて聞くと、

全く違う意味に聞こえたりするものです。

純粋な心を持つ子供の頃は、

目に見えるものすべてに対して疑問を持つことがほぼなく、

タオルが水を吸うかの如く、

世の中のすべてを受け入れる、素直な子供だった人は多いでしょう。

しかし大人になって社会に出る内に、

世の中の理不尽さ、自分の理想と現実との乖離、

世界は平等と思っていてもどこかに差別はある、

たいていの事態は発言と発覚に時間差がある、

疑問を解決しようと進んだ先には必ず越えがたい壁があるなど、

様々な困難を知っていき、

いつしか世界で真実と言われているものすべてが疑わしい、

そんなひねた思考の持ち主になってしまうこともあるはずです。


私がそのうちの一人なのはもちろんですが、

ここまでひねた思考はなくとも、

人生のうちに理不尽な役回りや不幸、

気付かぬうちに進んでいた不測の事態は、

誰しもであったことがあるでしょう。

歴史の偉人たちの多くが苦悩してきたように、

現代人の私たちもどこかで苦悩する物事があるのです。

そんな苦悩に答えは出してくれなくとも、

考えのきっかけを与えてくれるもの、

アニメに限らずすべてのそういった物事には、

改めてありがたみを感じておくのもいいかもしれないと、

昨日の日記を書きながら思いました。

今日はそんな作品の1つで、久しぶりに見たばかりでもある、

『もののけ姫』について色々書いていこうと思います。


宮崎駿監督は『もののけ姫』を制作する際、

「ジブリのすべてを投げうってでも完成させる」

と言い放ったそうです。

スタジオが発足してからまだ10数年しか経っていません。

それほどの覚悟と信念のもとに制作された本作は、

初公開から20年以上たっている今でも議論される、

社会問題や環境問題の深いところに切り込み、

哲学的、社会人類学的なテーマをはらんでいる部分もあります。

アニメは子供が見るものと昔はよく言われており、

本作のターゲットもアシタカやサンのような若者でしょうが、

解決不能な難題がある分、大人も観るべき作品と言えるでしょう。

自然と人との共生、行く先々で目に映る差別、

突然の不条理と度重なる事態の急変に翻弄される子供の心、

人の持つ憎しみの深さと殺戮へと向かう闘争心、

神の存在と現実的な合理主義との対立・・・。

視点を移し、時代を経るごとに違った課題が見えてきて、

色んな意味で飽きさせない内容が詰まっています。


『もののけ姫』のポイントは、

作中の事態をアシタカと同じ視点で体感できることです。

ナゴの守に呪いを受けたのはまさに不幸の出来事。

理由も分からず襲ってきたタタリ神には憎しみを吐かれ、

あげく村を追い出されて追い出されてしまいます。

故郷を下り、人里離れた西の地での大きな山犬と少女との出会い。

今までに見たことのない光景に目を奪われるのも無理はありません。

そして初めて見るタタラ場と彼らからの歓待を快く思う一方、

彼らの生活の根源が自分の呪いの原因でもあると知ってしまう不幸。

その矢先にタタラ場の主人エボシの首を取ろうと企む、

シシ神の森を守る山犬の少女サンと再び相まみえます。

呪いの影響で怒りが現れるのを何とか堪えてタタラ場を去り、

今度はサンとシシ神の森に移り、

そこで山犬モロや、猪神の乙事主おっことぬしと出会い、

森を荒らされた恨みを晴らそうとする彼らの心を見ます。

理不尽な呪いを受けた先、

一度は死を免れるものの、呪いは変わらずあることを憂い、

それが森の主たちの呪いであり、人間が受ける罰なのだと知るのです。

自然の中で故郷の仲間と平和に暮らしてきたアシタカは、

タタラ場とシシ神の森の対立の中で、

欲望と憎しみ渦巻く不条理を経験し、互いの言い分を知り、

自分の運命と生きることを見定めることになるのです。


エボシ『シシ神殺しを止めて、侍殺しをやれというのか』

アシタカ『違う!森とタタラ場、双方生きる道はないのか!』


欲望におぼれ、さらに別の欲望で包まれたエボシに対し、

アシタカが言い放った問いです。

物語の佳境で若者が大人に放つこの言葉の重み。

理不尽な出来事に辟易した純粋な心から溢れた、

激情によらない、真の怒りを感じます。

現代においても、欲にまみれた人間と、

希望や理想をもって生きている人間との対立はよくあり、

概してそういうものは純粋な心にはどちらも汚く見えるものでしょう。

常に汚い世界にふいに投げ出される側である若者にとって、

この世界は確かに生きづらい。

理不尽、不条理、絶望的状況、圧倒的不可逆事象。

立ち向かうには大きすぎる壁が、

打ち壊すには固すぎる山が、

目の前に広がっていると思うと生きるのがつらく思うことも多いはず。


サン『アシタカは好きだ。でも人間をゆるすことはできない』

アシタカ『それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう』

    『共に生きよう』


ラスト、危機を退け運命を変えた2人は、

立場と考えは違えど、共に生きていくことを誓い合います。

再び芽吹く森、決意を新たにするタタラ場の人々。

どこまで行っても2つは性質の違うものですが、

歴史の繰り返しの中で少しずつ形が変わっていくものを感じますね。

危機の乗り越え方はいろいろあります。

自分の能力の向上と応用であったり、

他人の助力や機転によるものであったり、

神の気まぐれによるものであったり。

同じように運命の変え方もいろいろあります。

そしてそれとは別に、変わることのない真理もまた運命なのです。

曇りのない眼で見定め、真っ新な心で考え直すことで、

「どうしようもない運命の中でどう生きていくことができるか」、

それを考え、模索し、示していくこと。

これが生きることであり、

だからこそ難しく、汚く、美しいものなのです。


キャッチコピーの言うように、

『生きろ』というのは、すべての人に対するメッセージだと、

私は思わずにいられないのです。


最後のジコ坊の言葉『馬鹿には勝てん』はシニカルでコミカルですよね。

食えないところのある彼が、人間の素の部分を代弁しているようで、

これもまた暗喩的で面白いです。


自然の表現はもちろんのこと、平和な生活の描写は素晴らしいです。

それと対比するように暴力的で残酷な戦いのシーン。

アニメーションという芸術の可能性を拓いた本作を、

ぜひとも多くの人に見てほしいものです。

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