12日目 山

彼曰く、俺は山に登る、そこに山があるから。


あの青い空は俺のためにある。

壮大で、雄大で、何よりも世界を語ってくれるような。

何もかもを視界から一蹴して、消し去って、世界には広々とした空だけが広がっていると錯覚させてくれるようで。

晴れ晴れとした感動を俺に与えてくれる。

あの感動に出会うために、俺は山に登るんだ。


起爆剤はいつでも転がっている。

変わり映えのない部屋。平常運転の通勤電車。いつも通りの上司の小言。帰り道はいつも異常なし。寝る前の体のメンテナンス、肌のチェックに引っかかることもない。何もかもがいつも通りの日常。

まわりの人間はそういう生活に満足している。

「僕はもっと楽しいことをしたかった。自分が心から楽しいと感じていた音楽で誰かを感動させるような、そういう仕事をしたかった。なのに最近は全然ギターを弾けないんだ」

ならなぜ音楽をする時間も無くなるような仕事についているのか。なぜその仕事を続けているのか。なぜ音楽を、やろうとしていないのか。

今の生活に満足しているからだろう。

「私はもっと自分の能力を生かしたかった。私は人と会うときに緊張しないタチで、誰とでもすぐに友達のように付き合える。だから誰かと誰かをつなぐような仕事をしたかった」

ならなぜいつも一人でいるのか。仕事でも一人、プライベートでも一人。なぜ誰とでも会えると豪語する人間が、自分の力を生かすことなくスーパーのパートをしているのか。

今の生活に安心しているからだろう。

希望を口にするだけの人間は、原因の責任を環境に求める。誰かが悪い。資産がない。技術を知らない。組織のせいだ。結果、当てこすりだけうまくなって、打開策を見出さない。ぬるま湯のような安心感を求めて、「いつも通り」に安堵する。

不満や不平を漏らす人間は、たいてい自分を省みない。現状への疑問と矯正を図ることは、過去の自分の選択を否定することにつながるからだ。そしてそれにさえ不満を漏らす。現状を変えないという選択さえも過去のものにして、「いつも通り」を引き延ばす。

平時に慣れた人間は刺激を嫌う。急な刺激に対処できないからだ。自分の身を脅かす何かが現れても、それが何かを突き詰めることなく、自らの安全と世界の安寧を叫ぶだけ。行動を起こすという思考さえ置き去りにして、「いつも通り」をこいねがう。


何とつまらない生き方か。

何と愚かしい結論か。

自らを人間であることを忘れ、生存本能のみを糧に生きる何かでしかない。獣にも化け物にもなり切れない。

悲しきかな、悲しきかな。

人間には感動がある。感動を感じる心がある。そして何より思考がある。

自分の前に壁があるからと言って立ち止まるな。

それでは前に進めない。工夫と能力を総合して解決しよう。

時間がないとあきらめるな。

どう時間を作るかを考えよう。無駄なものと必要なものを精査しよう。

一人のほうがいいと慢心するな。

何か新しいことをするときは誰かといた方が面白い。心の拠り所はあった方があとで立ち直れるし、続けるためのエネルギーになる。

常に一緒にいる必要はない。不安な時は手助けを求めてみたり、ときには相手を助けてみたり。自分のための長い道のり、誰かと合流することもある。その出会いを怖がる必要もない。あいさつができれば御の字だ。


人生の道のりには険しい山道がいくつもある。

足元は安定しているところも、危険なところもある。天気は山の気分で変わりやすい。干ばつも、豪雨も、吹雪も襲う。決して楽な道のりではない。

行くことのできる道は数知れず、どう進んでも自分の責任だ。だからこそ様々な可能性がある。一歩、一歩、足を踏みしめて進む。前進は着実に自分を頂上に近づけてくれる布石となる。それは自分が生きた印。現状に甘んじ、願望を口にし、動かないものは、山を転げ落ちる石と同じ。雨にも風にも勝つことはなく、ただスタートへと戻っていく。

スタートに戻るだけの生き方よりも、ゴールを目指せる生き方の方がよほど楽しい。そこには感動があるのだから当然だ。

理由なんて何でもいい。運動したくて、腹が立って、願掛けで、楽しそうで。爆弾が爆ぜて心が動けばそこに山が現れる。

山があるのなら。登っていくのが人生だ。登り切ってやるのだ。

そして頂上に着いたとき。

天にも昇るような解放感と、

新たな地平を見つけた歓喜と達成感、

すべてのしがらみがはじかれた自由に、

心の底から感動するのだ。

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