第6話

「みんな、今日は職場で食うってさ」

 加辺カナべ先生が言うように、今日の食卓は少々寂しかった。

 作り置きされたいくつかの総菜、漬け物、四人分の茶碗とグラスが並ぶ。それでも、彼の料理は変わらずに立派だ。タッパーに入ったあじの南蛮漬けは、ちょうど今日が食べ頃だろう。紫玉葱の薄切りが、甘酢の狐色に染まっている。

「蓮見はいいのか? センターの人達も何かやってるだろ、食事会とか」

 サラダボウルに張られたラップを剥がしながら、加辺先生が僕に尋ねた。

「ああ、やってたかも。ウォーム棟総点検の打ち上げ」

 僕は冷蔵庫から麦茶のポットを取り出す。注ぎ口を開けると、かぽん、と軽い音が鳴った。

「おいおい、それは出ないと。嫌な顔されてんじゃないか?」

 加辺先生が苦笑する。確かに、僕は保健センター職員の中で、少々浮いているのかもしれない。しかしそれは、ウォーム部ゲノム課の職員――通称「神父」のさだめでもあることを、加辺先生は知らないらしかった。先生としての彼が専門としてきたところは、保育と教育、この学園での仕事だ。

「僕は、こっちで食べる方が慣れてるから。先生の料理もおいしいし」

 僕は笑う。四つのグラスを冷えた麦茶で満たす。

「……鶴木ツルキに似てきたな、あんた」

 加辺先生の口から、その名前を聞くのは久しぶりだった。僕は胸を打たれたようにどきりとして、慌てて麦茶のポットを手に取る。ポットの底に貼り付いたビニールのテーブルクロスが、みちり、と嫌な音を立てる。注ごうとした四つのグラスは、既に満杯だ。

「あー、いや……」

 加辺先生が気まずそうな声を上げたその時、ちょうど能登と井口が台所に入ってきた。

「加辺先生、お風呂洗ったよ。今、お湯溜めてる」

 まくれたブラウスの袖を直しながら、能登が言った。

「おう、ありがとな」

 加辺先生が片手を上げて笑う。その脇に、小さなレジ袋を持った井口が飛び込んだ。

「じゃん! よもぎ餅と焼き鳥貰ってきた!」

 ガサガサと音を立てて、井口がレジ袋の中身を取り出す。透明なパックの中に、米粉をまぶされた濃い緑色の餅が詰まっている。その下には、湯気で曇ったプラスチックの容器があった。飴色が絡まった竹串が、蓋の隙間から何本も飛び出している。

「今日の出店で売ってたやつね。いつも園庭を使わせて貰ってるお礼にって、ゲートボール会のおじちゃんがくれたの」

 井口が楽しげに話しながら、焼き鳥の容器を開ける。その途端、台所が香ばしい甘醤油の香りに満たされ、自分がかなりの空腹であったことに気付いた。

「わあ、こりゃ有り難いな! 大皿に盛って、軽くチンしよう。餅は明日、みんなでおやつに食べるか」

 加辺は明るい声でそう言って、冷蔵庫を開ける。棚の小袋を探りながら、「きな粉はあったかな……」と呟いている。

 僕はそれを見届けて、食器棚から大皿を取り出した。その上に、能登と井口が手早く焼き鳥を盛りつけた。



「秋生まれのお二人さん、誕生季おめでとう!」

 食後の片付けが一段落したところに、加辺先生の声が響いた。彼の手には、二つの小さな紙バッグが提げられている。

 すぐに飛びついたのは、井口だった。

「イエーイ、今日で二五歳! 先生、お年玉ちょうだい!」

「やらん。井口、あんたはマキ・コープで給料貰ってるだろ」

 加辺先生に素っ気なく返された井口が、けらけらと笑いながら席につく。まだ若い彼の生活は、学園の手伝いとスーパーのアルバイトで成り立っている。

 井口の隣の椅子に、遅れて能登が座った。高い背丈を縮こめるように肩を竦ませ、黙って紙バッグを見ている。遠慮している様子ではあったが、期待を隠したその表情には、彼の幼い時代を思い出させる輝きがあった。

「はい、春生まれの俺達からプレゼントね。これは俺から井口に、こっちは蓮見から能登に」

 加辺先生と僕も食卓につき、秋生まれの二人と向き合う。珊瑚色に水玉模様の入った可愛らしい紙バッグが、加辺先生から井口へと手渡される。

 細かな花模様の入った紺色の紙バッグは、僕が能登に用意したものだった。向かいに座る能登に差し出すと、彼の表情が一層和らいだように見えた。

「ありがとー!」

「ありがとう」

 井口と能登がそれぞれ礼を言い、紙バッグからプレゼントを取り出す。

「わ、靴下だ! しかも猫じゃん!」

 井口の手には、冬物の靴下があった。紙バッグと同じ鮮やかな珊瑚色に、白や青の色糸を混ぜ込んだ生地。ワンポイントには、蝶ネクタイをした猫の顔の刺繍が入っている。

「先生、あたしのこと分かってるなあ」

「あはは、あんたの先生何年やってると思ってんのさ」

 井口と加辺先生が笑う。井口が卒園後も学園住まいを続けていることは、彼が加辺先生と意気投合する姿を見ていれば、納得がいくものだった。学園で暮らす人々は、いつでも互いに家族であれる。

「蓮見先生、これ……」

 笑う井口の横で、能登は紙バッグからハンカチを取り出していた。畳まれたハンカチを丁重に広げながら、目をぱちくりとさせている。

「能登ちゃん、こういうの好きかなって思ったんだけど」

 僕は少し心配になって、ハンカチを見直す。苔色にも似たグレーの生地に、小さな花束の柄が淡く散らされている。正方形の四隅のうち一つは、大振りな花のレースで埋められている。そのレースの上に重ねられた白い手が、花びらの編み目をさらさらと撫でた。

「……すごく、好き。ありがとう、先生」

 そう言って、能登は笑っていた。十七歳の、ほとんど大人になった顔つきで、表情だけはあどけない時代に返っていた。

 僕はその表情を見て、今日までに背負ってきた彼への罪悪感を、ほんの少しだけ解くことが許されたように錯覚する。


 気が付けばまた、僕の心は、彼にごめんねと言っていた。

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