第5話

 ウォーム棟を出ると、夕暮れの冷たい空気が頬をなぞった。辺りは薄ら青い空気に包まれている。

 年に二度の誕生祭のうち、秋の誕生祭――秋祭りが催され、秋生まれの者達が祝われる今日という日は、秋分でもある。日の入りは、驚くほどに早まっていた。私は、一年越しの感覚を懐かしみながらも、やがて来る冬の寒さに急かされる気持ちでいた。

「随分、涼しくなったね」

 私の隣で、蓮見先生が呟いた。

「そうだね。肌寒いくらい」

 返事をして、自分の声が少しうわずっていることに気づいた。ついさっきまでウォーム棟の廊下で感じていた、私の塞ぎ込むような気持ちは、このありふれた会話で少しばかり解消されたらしかった。それでも、私達の間にある空気は未だぎこちない。私は、蓮見先生がウォーム棟を施錠するのを、少し離れたところで待った。

「行こう」

 私が顔を背けているうちに、蓮見先生は道の先に立っていた。施錠を待つ素振りを見せないでいようとした自分に気がついて、私の胸を再び自己嫌悪が掠めていった。

 私達は学園目指して、ウォーム棟を囲う保健センターの外郭を歩いた。保健センターの二階から四階までの窓は暗く、一階の窓から漏れた明かりだけが、煌々こうこうと外壁近くの植木を照らしている。蓮見先生のように、誕生祭の日にも仕事のある職員が、まだ何人か残っているらしかった。

 保健センターの棟を通り過ぎ、墓地の前を歩く。辺りは一段と冷えていた。残暑の熱気は墓地の草花に吸われ、森の木陰に冷やされてしまったようだった。湿り気を含んだ秋の空気が、鼻先から喉元を通り抜けていく。

 その涼しさに、私は今まで泣きかけていたことに気づいた。目の奥の嫌な熱さが、夜の空気を孕んだ呼吸に拾われていく。


 これじゃ学園に帰っても、まだ顔が赤いんじゃないか。

 泣くのは嫌いだ。どうしてこうも、私は弱いのだろう。


 思えば思うほど、目元の熱がぶり返すようだった。私は慌てて喉に力を込め、塩辛い唾を飲んだ。

 隣を歩く蓮見先生の表情を、そっと伺う。彼は俯き気味に歩み、少し先の地面をぼんやりと見つめていた。この薄暗い中で、私の表情が気付かれていたのかは分からない。私は、この時間がまた居心地の悪いものに感じられてきて、歩みを早めた。


 墓地の前を通り過ぎると、学園の方から人の声が聞こえてきた。高等部の棟まで歩くと、園庭に並んでいた出店やバザーのテント、出し物の音響設備が片付けられているのが見えた。

「あ、蓮見先生! と、能登! 見てよこれー」

 園庭の方から、私達めがけて駆けてくる者がいた。両の手には、巨大な綿飴が握られている。

「兄さん、何それ」

 駆け寄ってきた井口イノクチを冷たくあしらう。私はこの、八つ上の割に子供っぽく騒がしい同居人のことが、あまり得意ではなかった。

「わ、大きい綿飴だねえ」

 蓮見先生が朗らかに笑う。私と蓮見先生の間にあった苦しい空気は、井口が現れたことで消え去っていた。

「でしょ! これ、先生と能登に取っといたの。でもさあ、二人ともなかなか帰ってこないんだもん。ずっとこの状態で待ってたんだよー」

 井口は「はいっ」と声を上げ、私達に二つの綿飴を差し出した。糖分がぺたぺたと指に付く割り箸を受け取ると、井口は大げさに伸びをしてみせた。私は、両手に綿飴を持ったまま右往左往していたであろう井口の姿を思い浮かべ、彼を疎む気持ちを少し緩めた。

「んー、おいしい。ありがとうね、井口ちゃん」

 蓮見先生が綿飴を齧っているのを見て、私も口を付ける。少し湿気かけた糖の綿は、齧った部分からはらはらと溶けていき、瞬く間に消えていく。やがて手元には、一本の割り箸だけが残った。

「渡せて良かったー。んじゃ、あたしはお餅の残り貰ってくるんで。また後でね」

 井口はそう言って、私達の手から割り箸を抜き取り、散らかった園庭のテントに走っていった。その後ろ姿を見ながら、彼の騒がしくも世話焼きな人柄を、少しばかり羨ましく思った。

「能登ちゃん、良かったね。お祭りのもの、本当は食べたかったんじゃない?」

 高等部の玄関に入りながら、蓮見先生がにこやかに言った。

「……うん」

 今日の昼間に催されていたステージの出し物や、テントに並ぶ品物のことは、それなりに面白そうだと思っていた。しかし私は、いつになく賑やかになる学園を昼には出て、仕事の手が空いた蓮見先生に頼み、聖堂の見学をして過ごした。

 秋生まれの私にとって、誕生季という節目でもある秋祭りは、いつからか楽しみではなくなっていた。これが単なるお祭りでなく、子供の誕生を祝うべき誕生祭であるということが、何よりも私を苦しめていた。



 私には沢山の兄がいる。井口も、蓮見先生も。このマキサ島に生まれた全ての島民が、みんな私の年上で、みんな私の兄だ。

 だけど私には、同い年の同胞も、年下の弟も居ない。

 十七年前の秋、私は少しの同胞もなくこの島のウォームに宿り、たった一人で生まれた。

 それから今まで、私達のウォームには、一人も子供が宿らずにいる。

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