第2話

 僕達は、一株の臍帯網の前に立っていた。

 この聖堂に林立する乳白色の樹木――六十七の臍帯網の束のうち、それは、先代の神父に《ナミ》と名付けられたものだった。

 《ナミ》は他の株よりも繊細なつくりだった。大人一人ほどの幅しかない幹に対し、天井からは何本もの小枝が集まり、根本には藁のように細い根が浮き出している。

 そしてその繊細さは、《ナミ》がこの古い聖堂で化石化を免れている、希少な部位であることの証拠だった。

「蓮見先生。これ、触ってもいい?」

 僕の横で、能登ノトが尋ねた。黒く長い睫毛の隙から、薄青の瞳が僕を見ている。

「少し待って。能登ちゃんが触れるかどうか、確かめるから」

 僕は《ナミ》の前で膝をつき、根のほころびに結わえ付けられた紙札を確認した。

 漢字一字と小さな数字のメモが書き入れられた、数十枚の紙札。その中から、「原」の字が記された一枚の札を手に取り、慎重に根の一束を引き出す。

 《ナミ》を形作る臍帯網は、化石化してしまった他の株と比べて、臍帯網同士の癒着がほとんど進行していない。枝から根までがツタの茎のように柔らかく、奥まった部位を引き出すことは容易いものの、絡まって千切れてしまうことがないよう、十分な注意が必要だった。

「ゲン……? いや、ハラかな」

 背後で能登が低く呟く。いつの間にか彼は僕の後ろに屈み、おさげを垂らして札をのぞき込んでいた。

「先生、このたくさんの札の文字が、子供の名前の由来になるんだよね?」

「よく分かったね。確かにこれが、僕らの名前のもとになる。だけど……」

 そこで僕は言いよどんだ。言葉だけでこの紙札の意味を正しく説明することは、難しい。

「見て、これが臍帯網の端っこ。神父はこれを、新芽と呼んでる」

 僕は「原」の札がついた臍帯網の一束をつまみ、葉脈のような形に細かくほつれた先端――この樹木の新芽であるその部位を、手のひらに載せてみせた。

 その瞬間、小さなしびれが手から腕を伝い、頭の奥に向かって走る。

 僕の意識は、居眠りのように緩く途切れた。



 あしのうらを

 やさしいものが くすぐっている

 あたりには なにもない

 はしるのをやめ ねむりにつく

 あたたかいのは

 だいちに だかれているから



「細かい。パンジーの根っこみたいだ」

 感嘆する能登の声で、ほんの一瞬の夢から現実に戻る。

「……能登ちゃん。これは安全そうだから、触っていいよ。優しくね」

 僕は「原」の札が結われた根本を持ち、床に置いたランタンの前に新芽をかざしてみせた。

 能登は、すぐには触らなかった。雨に濡れた蝶を助けるかのような慎重さで、恐る恐る右手を近づける。

「っ!」

 新芽の末端に能登の指が接した瞬間、彼は息をのみ、肩をびくりと跳ね上がらせた。僕は慌てて臍帯網の束を引き離す。

「せ、静電気?」

 声をひっくり返らせながら、能登が尋ねる。

「軽い感電のようなもの、かな。小さい子は特に伝わりやすいから、触らせられない。……能登ちゃんも、本来の正式な流れなら、成人して神父になってから触るものだったんだけどね」

 僕は苦笑いをしてみせる。しかし、能登は緊張した顔を崩さない。

「ごめんね、先に説明しておけばよかった。もう十七歳だし、体への影響はほとんど無いはずだけど」

「……あ、いや。大丈夫」

 能登は、妙にこわばった表情のままだった。その顔を見て、僕の頭に心配事がよぎる。

「手、見せて」

 能登が右手を差し出す。その手を両手で包み、指先から手首までを見る。白くなめらかな皮膚に、傷や腫れは少しも見あたらない。僕は小さく安堵の息をついた。

「稀に火傷を起こす人がいるらしいのだけど、大丈夫そうだね。痛くなかった?」

「大丈夫だった。でも、少しびっくりした」

 そこでやっと、能登の表情がほころぶ。僕はその顔に安堵し、彼に尋ねるべきことを切り出した。

「怪我が無くて良かった。……ところで、これに触った時、何か見えなかった? 短い幻みたいなものが」

「幻……どうだろう。頭の中が光ったような気はするけど、一瞬のことだったから……」

 能登は首を振った。僕は若干の罪悪感を覚えながら、再び「原」の臍帯網を手に取る。

「ごめん。もう一度触ってみてくれるかな、今度は長めに」

「……分かった」

 能登は緊張した様子で唇をかみしめると、新芽の先をつまんだ。

 能登の表情が一瞬だけ険しくなり、それからだんだんと緩んでいく。薄青の瞳がまどろみ、指先に焦点を合わせなくなる。

 僕はその様子を注意深く観察しながら、十秒の時を数え、能登の指先から静かに新芽を引き抜いた。

「……あれ、今……蓮見先生?」

 意識の戻った能登が辺りを見回し、最後に僕の顔を見る。僕は「原」の臍帯網を元の位置に納めた。まだぼんやりとしている彼の肩をさすると、はっとした様子で背筋を伸ばし、ばちばちと強くまばたきをした。

「私、寝てた?」

「一瞬だけ、ね。さっき、白昼夢みたいなものを見たでしょう。どんな夢だった?」

「……ここじゃない場所、もっと開けたところにいた」

 《ナミ》の幹をぼんやりと見つめながら、能登が答えを続ける。

「広々とした場所だった。なんというか……原っぱのような」

 そこで能登は、あっと声を上げた。

「先生、この札の『原』って……」

「そう。さっき、能登ちゃんが見たものだよ」

 僕の言葉に、能登は返事をしなかった。

 僕は《ナミ》を見つめた。今、彼の表情を伺うことは、古い日記を読み返すような、そんなもどかしさがあった。

 短い沈黙を経て、僕は答えの続きを話す。

「……僕も、僕の先生も、ずっと昔の神父達も、その札のついた新芽には同じものを見ている。神父が臍帯網に触れて見たものが、相応しい文字に置き換えられて、この札に記されているんだ」

 僕達の前にある《ナミ》には、何十枚もの札が結われていた。「原」の札、「山」の札、「黒」の札、「末」の札、「沢」の札――勉強熱心な能登の言うとおり、それらの文字は全て、この島に生まれる子供の名前のかけらであった。そして、その臍帯網が孕んでいる心象風景の象徴でもあった。

 しかし僕は、この札の本当の意味を、彼にまだ教えていない。

「能登ちゃん。今日という日は、あなたにとって大切な日だ」

 僕の視線は風に吹かれたように揺らぎ、《ナミ》から能登の顔へと移っていた。

「僕はこれから、我々の神様について話す」

 能登は僕の目を見ていた。その面持ちは、僕が恐れていたものではなかった。

 薄青の瞳は、静かな安らぎに満ちていた。

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