魔女の園編
第42話 不穏な視線
秋らしい高い空に薄く小さな雲が列をなしている。日本という別世界では鰯雲と称するらしい。羊雲にも似ている。その違いはどこにあるのだろうか。
ダクトから解放されて一か月が経ち、ユキ自身、リドアスでの生活に慣れてきた。
団長であるリンは本当の兄のようにユキを気にかけてくれ、ユーギは歳の近さもあって良い遊び相手になってくれる。晶穂はいつも朗らかに微笑んで、ユキの世話を焼いてくれる。克臣はユーギと共に遊んでくれるし、ジェイスはそれこそ親のような目線で見守ってくれる。サラは晶穂と同じように姉のような立場だ。
何故自分が彼らに世話をされているのか、正直よく分かっていない。ユキの幼い頭では追いつかないのか、それとも知らされていない何かがあるのか。
自分の記憶がない、それが理由だとわかってはいる。
それに、時折リンが見せる寂しげな目が気になる。
「……でも、そのわけを知るには、ぼくが記憶を取り戻さないといけないんだよね……」
自室のベッドの上で、座った姿勢から仰向けに倒れ込んだ。
明日の宿題をしていたのだが、計算問題で行き詰ってしまった。
ユキは十年前に四歳であったため、本来ならもう十四歳の年齢だ。
だが、彼の体は四歳当時のままだ。ダクトに体を乗っ取られていたらしい期間、体は一切成長しなかったようだ。
それでも精神年齢は少し成長していると、自分では思っている。
一応小学一年生として学校に通い始めたが、足し算引き算で引っかかる。足し算はまだしも、引き算は難しい。
「今日はもう遅いから、明日の朝、ユーギくんに教えてもらお~」
時計は午後八時を指している。一桁年齢のユキにとってはもう眠い時間だ。よく考えてみれば、晩御飯を食べてから二時間が経過している。
「寝よ」
枕に頭を預け、ユキは目を瞑った。
明日も楽しくなりますように、と願いながら。
ドラマや物語中で見かける記憶喪失者は、思い出深い土地や人と出会うことで記憶を取り戻す。
会社帰りの克臣の疑わしい知識をもとに、リンは晶穂とユーギと共にユキを連れ、思い出の地を巡ることにした。今日は丁度土曜日だ。
家はリドアスだが、そこで何か思い出すことはなかった。血を分けた兄弟である自分に会っても記憶は戻らなかった。もう、何がきっかけとなるか分からない。
「うわあ~広い!」
ユキが感嘆の声を上げた。隣に立った晶穂も声を失っている。
「凄いだろ、この公園。滅茶苦茶広い」
「……これ、広いってもんじゃないですよ」
リンの笑い声が公園に響く。彼らがやって来たのは、アラスト近郊の山際にある広大な敷地を持つ公園だ。奥にはこれまた広い森林がある。日本で言うなら東京ドーム何十個分に相当するだろうか。リンは幼い頃、ユキと共にこの公園と森を遊び場にして走り回っていたのだ。
無邪気に走り出したユキとユーギを見送り、リンは芝生に腰を下ろした。
「ま、来たのはユキが本当に小さな頃のことだ。二歳だったかな。今みたいに走り回ることはなかったけど、楽しそうにおぼつかない足取りで歩き回っていた」
足を投げ出し、リンは座るよう晶穂に促した。
「それでも楽しい日々の記憶だ。……それが、あいつの心に残っていれば良いんだがな」
「そうですね……。どちらにしろ、楽しそうです」
「リンさーん、晶穂さーん!」
遠くで手を振るユキに応え、晶穂は立ち上がった。笑みを浮かべ、リンを顧みる。
「行きましょう。リン先輩」
「……先輩呼び、戻ってる」
「こっちの方が呼びやすくて……すみません」
「……いい」
「……リン先輩?」
拗ねたようにそっぽを向くリンを不思議そうに見つめていた晶穂だったが、返事がないためもう一度呼びかけた。リンはそれには答えず、
「行くぞ」
とこちらを見ないままに立ち上がった。
「ねえ、この森も広いですね!」
ユーギが森の奥を指して笑った。見れば木の実がたくさんなる木や美しい花が咲く木にあふれている。秋深い季節の筈だが、ここだけ時間に取り残されたようだ。
そう言うと、リンが頷いた。
「そうだ、晶穂。その通り」
「え?」
「ここは『時間忘れの森』と呼ばれている」
「時間忘れの……」
「本当の名称は知らん。だが、その名が示す通りに、この森は外の世界とは一線を画す。一年中花々が咲き誇り、実が熟している」
「へえ……」
その時、突風が吹いた。葉を巻き上げ、晶穂の長い灰色の髪を乱した。
「きゃ」
「……晶穂、髪に」
リンは手を伸ばした。晶穂の額近くに花弁が付着したのだ。
それは桜のようでいてそうでなく、柔らかな桃色をしていた。
花弁一枚を払い、はっ、とした。
目の前に黒い瞳があった。青い光がわずかに混ざる。
「……」
「……」
ピタリと固まった。
二人は見つめ合ったまま。
花弁はとっくの昔に落ち去っている。
時が止まった。
その時間は、唐突に動き出した。
「あの……そろそろ帰りませんか?」
「うわあ!?」
「きゃあ!?」
「ええっ!?」
「へっ!?」
全員の声が重なった。それはもう、見事に。
「ご、ごめんなさい。それほど驚かれるとは……」
声をかけたユキが慌てて謝った。それにより慌てたのは年長者だった。
「いや、いい。問題ない」
「そうだよ、ぼおっとしてたこっちが悪いんだし」
「……そういえば、何であんなにぼおっとしてたんですか?」
「え……」
「……」
それに対する明確な回答を出せず、リンは「とにかく」と話を無理矢理切り上げた。
「ユキ、何か思い出すことはないか?」
リンの問いに、ユキは首を傾げた。
「うーん。ここもぼくがよく知っている所なんですか?」
「ああ。本当に小さい時、家族で何度も遊びに来たはずだ」
「……ごめんなさい。わからない」
しゅんと項垂れるユキの頭に、温かいものが乗った。
目を上に向けると、晶穂の手だった。軽く撫でてくれる。
「仕方ないよ。もしかしたら、また思い出せるかもしれない。ゆっくりで良いから、ね?」
「はい」
日が傾いて来た。四人はそろそろリドアスに戻ることにした。涼しい風が吹き始め、秋の到来を告げている。
途中、アラストの商店街を通った。晶穂が「あ」と声を上げた。先を行っていたユーギとリンが振り返った。
「どうしたんですか、晶穂さん」
「サラに頼まれてたの忘れてた。食材で、足りないものがあるんだそうで。ここで買って行っていいですか?」
「勿論。何が必要なんだ?」
「えっと……」
リンに尋ねられ、晶穂はごそごそとショルダーバッグを探った。買い物メモを見つけ、開いて見せる。
「……ああ、これならあそことあそこで買える。ユーギとユキはそっちを頼む」
「ラジャ―!」
二手に分かれ、晶穂はリンについて八百屋の店先に立った。新鮮な野菜が所狭しと並び、威勢の良い壮年の男性が客の女性に商品説明をしていた。
「……?」
ふと、背中に視線を感じた。晶穂は気のせいだと無視を決め込んだが、その目は執拗に追って来る。リンがほうれん草に似た野菜を手に取っている。
晶穂は息を整え、振り返った。
「え……」
目の前には誰もいなかった。しかし通りの向こう側に立つ人影があった。
それは妙齢の女性だ。見事な黒髪をなびかせ、濃い紫色のワンピースに黒いハイヒールを履いている。その美女が、じっとこちらを見つめているのだ。
気味が悪い。晶穂は身の毛がよだつのを感じながら、店の奥にいたリンの許へと駆けた。
「どうした、晶穂」
「あの、初めて見る女性がこちらをじっと見てるんです……」
「……どいつだ?」
「あの……」
指をさすのは悪いかと思ったが、そうも言っていられない。晶穂は無遠慮に人差し指を女性に向けた。
その時、女性の口元が微かに動いた。「い・う・え・あ」の形に唇が動いた。
リンの眉間に険が宿った。通りに出て「おい」と声をかけようとした。
女性は唇だけで微笑むと、すい、と人ごみに紛れて行った。決して歩幅は大きくないのに、リンは全く追いつけなかった。
軽く息を弾ませ、リンが駆け戻って来た。
「くそ、なんだあの女。速過ぎる」
「すみません、走らせて」
「いいよ。俺が勝手に走ったんだ。それにあいつの目に力を持つ者特有のものを感じた。全くの無意味じゃないさ」
気を付けるに越したことはないな、とリンはシャツの第一ボタンを外した。微風が通り抜けて行く。
「おい、兄ちゃん達。買うのか買わねえのか?」
「あ、買います!」
それとそれを、と指で差して会計を済ませた。店を出ると、丁度ユーギとユキも戻って来た。リンと晶穂を見つけると、にこりと微笑んで買い物バッグの中身を見せてきた。
「はい、これで良いですか?」
「うん、ありがとう。これで買い物は終わり」
「……リンさん、どうしたんですか?」
後ろを振り返り何かを見つめるリンに対し、ユキが首を傾げた。
「あ、いや……。何でもない。さ、帰るぞ」
表情を取り繕い、リンはぎこちなく微笑んだ。ユキとユーギは顔を見合わせただけだったが、晶穂には分かった。リンが見つめた先は、先程の女性が去った方角だ。
沈みかけた太陽が、四人を正面から照らす。
見つけた。見つけた。
ようやく。見つけた。
あの、灰色の髪の少女。あの、黒髪の少年。
わたくしに言わせれば、まだまだ子ども。
それでも、目的のために。
使えるものは使うまで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます