第8話 クロエ・トラキア
郡都カルディツァの新居での初めての晩餐は質素ながらも美味であった。
肥沃な土に恵まれた穀倉地帯であるテッサリア地方では、直轄領よりも新鮮な野菜が手に入りやすいのだそうだ。
交通の要衝である郡都には川を使って上流から農作物、下流から魚介類が集まってくる。それらの取引が行われる市場もあるという。
そこで得た新鮮な野菜を煮込んだスープがこの日の献立であった。引っ越してきた当日であり、あまり手の込んだものではない質素な料理だ。しかし、何種類もの野菜を煮込んだスープは具材の旨味が引き出されていた。
「美味しかったよ。ありがとう」
「いえ、もう一品ございます」
礼を言った彼に、クロエが言葉をかけた。
すると甘い香りを漂わせた菓子を使用人が運んできた。
「レンディナ村よりリンゴの献上品がございまして、菓子にいたしました」
ヘレナ曰く、新しい領主を迎えるにあたり、以前訪ねた村長とリンゴ農家が食べ頃になったリンゴを献上しに訪れたという。
「おお、そうか!」
キエリオン郡の領主の家で食べ損ねた菓子には腐った臭いを感じたが、彼の使用人たちが運んできた菓子には甘く芳醇な香りがした。期待に胸を弾ませる彼の傍らで、黒髪の少女が綺麗に取り分けていく。
こうして、新居で初めての晩餐に彼は舌鼓を打ったのだった。
食事の後、シャルルが大きな書斎でくつろいでいると、戸を叩く音がした。
「シャルル様、失礼いたします」
「エレーヌ……それに、クロエもか」
「はい、資格者様」
食事と後片付けを終えたヘレナが明かりを手にしてやってきた。
傍らには黒くて長い美しい髪が印象的であった使用人のクロエがいる。
「入ってくれ」
扉の前に立っていたヘレナと、晩餐で給仕を務めてくれたクロエを自室の中に迎え入れ、彼は扉を閉めた。
「改めてご紹介いたします。名をクロエ・トラキアと申します」
ヘレナがそう口にして気付いた。
「トラキア……ということは、もしかしてエレーヌの家の者かい?」
「はい、クロエは当家が迎えた養子です。私の義理の妹となります」
シャルルが目を向けると、クロエはスカートをつまんで跪礼をした。
「只今ご紹介に
改めて妹と紹介されてからクロエの容姿を眺めて気づいた。
銀色の髪を後ろで結っているヘレナとは対照的な黒髪が印象的であるが、その整った顔つき、髪や肌のつやを見ると、ヘレナに似た育ちの良さというか気品ある雰囲気を漂わせる美少女であった。
「君には妹がいたのだな、初めて知ったよ」
「当家では遠縁の貴族の他家より養子を迎えて、侍女として必要な技能や礼法を教育する役割を担っています。このクロエもまたその一人でございます」
貴族の家門を継ぐ者は多くの場合長女であり、次女、三女以降となると氏族の後継者となる目はほとんど無くなっていく。
特別な技能があれば、長子以外であっても官僚の一員として官職や仕事を得られるかもしれないが、秀でた技能がなければ難しくなり、数を必要とする軍人になるほかなくなってしまう。
そこで文官を輩出してきた家系の多くでは、家督を継ぐ長子以外の妹たちを他の家に嫁がせたり、あるいは養子に送るのだという。ヘレナの家ではそのような養子を迎えて王侯貴族に仕える者を育成する役割を担っているそうだ。
「トラキア家はリディア家と並んで
クロエがこう語った。年齢の割にしっかりとした受け答えであった。
「実の母がトラキア家当主でいらっしゃる侍従長様と従姉妹の間柄にございまして、侍従長様に預かっていただくことになりました。それが七年前でございます」
「そうか、八つの歳で他家に入って訓練を受けてきた……そういうことだな」
「クロエもまた侍女として必要な技能は一通り身につけておりますので、シャルル様の御側付としてお役に立てるかと存じます。いずれこの家のこともクロエに託したいと考えていますが、まずは給仕を務めてもらいます」
「そうか……改めてよろしく頼むよ。クロエ」
「はい、どうぞよろしくお願いいたします」
彼が声をかけると年頃の少女らしいあどけない笑みを見せるクロエの横で、ヘレナがもじもじしていることに気づいた。
「それで、シャルル様……その……」
「どうした、赤い顔をして、熱でもあるのか?」
「いいえ、そうではございません……実は……」
すごく言いづらそうなことを言おうとしているのだろうか。そう察したシャルルは答えを急かさずにじっと待った。
観念したように、ヘレナは口を開いて続きを語った。
「……シャルル様のお世話をクロエへ任せるにあたり、私とクロエの間では貴方様のことについて隠し事をしない約束をいたしました」
「随分と回りくどい言い回しだな……つまり、どういう意味だ?」
「クロエは、私たち二人だけの秘密を既に存じ上げております、ということです」
絶句。
さすがのシャルルも息を呑む。すかさずヘレナは彼に事情を説明した。
「ご心配には及びません。秘密を漏らさないために当家の者を選びましたので……」
「そ、そうか……君の判断を尊重するよ」
身内であれば彼女の恥になりかねない話題を外に漏らすことはない、という判断であろうか。理に適ってはいるものの、思い切った決断である。
「クロエ、すまないが俺たち二人の間柄は秘密にしておいてほしい。明るみに出れば君のお姉様の立場に差し障りかねない」
「心得ました。主人の秘密は絶対に守る――それが、私たちのしきたりですから」
真剣な眼差し。
あどけない面立ちの少女が見せる
シャルルは彼女の言葉が嘘ではないとの確信を持った。信頼のおける兄弟に恵まれなかった彼には、頼りになる妹を持ったヘレナが恵まれているように思われた。
「いい顔つきをしているな。気に入った」
「……?」
「相応の訓練を受けているということさ。信頼に値すると信じている」
彼がそう言葉をかけるとクロエがはにかんだ。
一方、ヘレナの表情には緩みがない。
「私もクロエとシャルル様の中だけで秘密を作ってほしくなかったのです。ですから私はクロエに隠し事をしないと決めました。その点、どうかご理解願います」
自分以外の侍女をシャルルにつける。
それは彼女にとっても勇気と忍耐を強いることだったのだとシャルルは理解した。そこまでしてクロエを自分の侍女としてくれたことをありがたく思った。
「君の意図はよくわかった。クロエはある意味、エレーヌの分身というわけだな」
「はい、そのように受け取っていただければかまいません」
「では、クロエ。俺は君をエレーヌの分身として扱う。今後、君の耳に入れたことはエレーヌにもそのまま伝えるように頼む」
「はい、心得ました」
「あと、エレーヌの前で言うのもはばかられるのだが……今後、クロエに恥ずかしい頼みごとをすることがあるかもしれない。それを受け入れる覚悟があるか?」
「はい。姉様が受け入れられるものでしたら、受け入れる覚悟はできています」
その覚悟を口にした横で、ヘレナが何か言いたそうだが言い出せないでいるような表情を浮かべていた。今日の彼女はどこか落ち着かない様子が目につく。
「どうした、エレーヌ。具合でも悪いのか?」
「いえ……っ!!」
ヘレナは顔を赤くして固まった。
シャルルが前触れもなく額を合わせる。
「ちょ、ちょっと、シャルル様……クロエが見ていますから!」
「うーん、熱はないようだな」
取り乱すヘレナ。
額を離すと、真っ白な肌が一瞬で真っ赤に燃え上がるほど赤面した彼女がいた。
いつもは落ち着いた表情の下に隠された感情が今は剥き出しになっている。どこか彼には滑稽に思われた。
「今日の君は一段と可愛いね」
「な、なっ! 何をおっしゃいますかっ! もうっ!」
ヘレナが頬を膨らませてブツブツつぶやいている。
日ごろ見せることのなかった目くるめく表情の変化に、彼は戸惑うどころか悪乗りしてみたくなってきた。隣で圧倒されているクロエの方を向き、彼は言った。
「君のお姉様とはこんな仲だ。びっくりしただろうが、慣れてもらえると助かる」
「は、はい……姉様の恥ずかしい顔が拝めましたので、これも役得と思っています」
「クロエまで……」
感情を露わにしてしまったことが今さらながら恥ずかしくなってきたのか、一変して押し黙ってしまったヘレナを一瞥した彼は、クロエに最初の指示を出すことにした。
「では、手始めに呼び名を変えてもらおうか。資格者様、ではどうも堅苦しい」
「それでは、姉様と同じように
ドクンッ――!
十五歳だった八年前のエレーヌも、きっとこんなあどけなさの残った美少女だったのだろうか――。
そう思わせるような端整な顔つきで呼ばれると、心が揺れ動くような衝動に襲われてしまった。
「いや、その……君のお姉様に似た顔つきでそう言われると、本当にエレーヌと君を同一視してしまいそうで、なんだか後ろめたい気持ちになってくるな……」
「……」
ヘレナがなんとも言えない顔をしている。
妹を自分の分身としてシャルルの侍女にすると決断した彼女自身の気持ちが、心の奥底では揺らいでいるのだろうか。
何となくそのように察するところが彼にはあった。
「クロエ、申し訳ないが別の呼び方がよさそうだ。『旦那様』ではどうだ?」
その一瞬、クロエが渋い顔をしたのを見逃さなかった。
「シャルル様、その言葉は……その……」
「ん? 何か変なことを言ったか、エレーヌ」
「その……現代的な言葉づかい、ではないのです」
「古い言葉だというのか?」
「はい、
「なぁるほど、八百年も大昔の死語なんだな……」
彼がそういうと、クロエはうーんと首をひねって別の呼び方を考えていた。
その無邪気な様は年齢相応の若い娘そのものであった。こういうところは今のヘレナにはあまり見られない。
顔つきは似ていても、やはりヘレナとは別の娘なのだと彼に思わせてくれた。
「それでは……
それは違和感なく、ストンと胸に収まる呼び名であった。
「ご主人様、か……いい響きだな、それで頼む!」
「はい、ご主人様!」
クロエは無邪気な笑みを湛えていた。そんな彼女に次なる指示を出すことを彼は決めた。
「では、クロエ。さっそくだが、少し恥ずかしい思いをさせてしまうが、いいか?」
「……なっ、妹に何をなさるのですかっ!」
そう言ったのはヘレナであった。
自分が見ている目の前で、妹に手を出そうというのか――。
おそらく、そんな気持ちが言葉になったのであろう。血相を変えた彼女の顎をくいと上向かせて、その震える唇にシャルルはキスをした。
「んんんんん――っ!」
いきなり唇を奪われてしまったヘレナは呆然としている。クロエもまたその傍らに唖然と立っているしかなかった。
「せっかく新居に来た最初の日だというに、君に手をつけずに若いクロエに手を出すとでも思ったか?」
「え、えっ、え――っ?」
ヘレナが口をパクパクとしているのを尻目に、彼は鋭い眼差しで彼女の目を見据えた。
「どうせ嫁に行き遅れた女より若い娘のほうがよいのでしょう? とでも君が思ったのなら、俺はずいぶん見くびられたものだな。正直言って不愉快だ」
「いえ、決して……そんなつもりでは!」
慌てるヘレナに彼は畳みかけて言った。
「知ったことか。俺の機嫌が直るまで付き合ってもらうぞ、エレーヌ。今宵は部屋に帰さないからな、覚悟しておけ。さて、早速だがクロエには誰か来ないか見張っていてもらおうか」
「う、嘘っ……そんな!?」
彼と姉のやり取りに困惑し言葉を失ったクロエに、シャルルはわずかに笑みを浮かべつつ語りかけた。
「というわけだ、クロエ。少しの間、君のお姉様とは
「ちょっと……シャルル様!?」
一瞬目を見開いたクロエ。
その頬は次第に色を増してゆき、そのぎゅっと結んだ口元は笑みをこらえようと震えていた。
「かしこまりました、ご主人様。外の守りはおまかせを。お部屋には人払いの魔術をかけておきますので、姉様とどうぞごゆっくりお楽しみください!」
「待ちなさい、クロエ! きゃっ、シャルル様、妹が見てる前でそんなっ!」
なぜかノリノリな義妹を目の当たりに、逃げ場がなくなったことを思い知らされたヘレナはお姫様抱っこで寝所へ連れてゆかれた。
なるがまま彼に服を脱がされ、寝床に組み敷かれて……夜が更けるまで彼と一つに溶け合ったのであった。
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