分身の術
「……どっかの収容所じゃないんだから」
全身に脱力感が広がり、勝手に苦笑いが漏れていく。
しかしすぐに表情を引き締め、〈サティ〉は両手を前に突き出した。
途端に子グモの壁が前進し、猛スピードで正面のハエに突っ込む。
ハエは車にはねられたように吹っ飛び、五㍍ほど浮き上がった。
その隙に乗じ、〈サティ〉は腕輪から子グモを垂れ流す。
更に大群を一箇所に集結させ、史上最大のクモを作り上げた。
身体の大きさは、バスくらいだろうか。
一般に毒牙と呼ばれる
太めの
真っ黒な体表には、ごわごわした毛まで生えている。
「行っけー!」
命令と共に大グモが跳び、空中のハエに飛び掛かる。
八本の
そうやって身動きを封じると、大グモはハエを地面に叩き付けた。
まんまと組み敷かれたハエは、がむしゃらに尾を振り回す。
ネズミ花火のように踊り狂うトゲは、大グモから黒い
続々と噴き上がる火花を見ていると、ポリゴン的なショックを起こしそうだ。
対する大グモは八本の
更には巨大な毒牙を振り上げ、ハエの頭に食らい付いた。
ベベーブブブー!
ハエの右目に毒牙が食い込み、絶叫のような羽音が響き渡る。
同時に濁った体液が噴き出し、大グモの身体に吹き付けた。
隻眼になったハエは、憎々しげに大グモを睨み付ける。
のみならず、地表スレスレから尾を突き上げ、大グモの腹部を貫いた。
大グモの背中からトゲが突き出し、少し遅れて黒い
かと思うと、ハエは大グモを蹴り上げ、キリンを見下ろす高さまで吹っ飛ばした。
大グモはバラバラに砕け散り、無数の子グモに姿を変える。
その上、空一面に飛び散り、夕陽に無数の黒点を打った。
巨大な物体を形作る際、子グモたちは
この状態は想像以上に強固で、並大抵の衝撃では離れない。
事実、乗用車と正面衝突した時も、子グモの壁が壊れることはなかった。
逆に猛スピードで突っ込んだ車のほうが、ぺしゃんこになったくらいだ。
とは言え、普通の壁や板に比べて、バラバラになりやすいのはいなめない。
ましてや、目の前のハエは、とんでもない脚力を持っている。
本気で蹴られたら、崩れ去るのも当然だ。
「なかなかやるね。なら……!」
〈サティ〉は頭上のドローンを上昇させ、ハエを見下ろす。
続いて腕輪から子グモを出し、自身の全身を包み込んだ。
蹴飛ばされ、飛び散った子グモを操り、空中の何箇所かに集結させる。
ほんの数秒で数十体の人形が完成し、ハエを取り囲んだ。
ベベ……ブブブ……?
ハエはしきりに首を回し、空中の人形を見比べる。
混乱するのも当然だ。
人形は〈サティ〉にそっくりで、頭上にはドローンまで浮いている。
同じ顔、同じ姿が延々と並ぶ様子は、完全に分身の術だ。
普通に考えるなら、本物を見分けるのは難しくない。
何しろ〈サティ〉の装甲は真紅で、人形は全身黒だ。
〈
多少、人間と見え方は違うが、ハエは色を認識することが可能だ。
もちろん、光を感じ取ることも出来る。
しかし今の〈サティ〉は、全身を子グモで覆っている。
当然、身体中真っ黒で、流動路の光も外には漏れない。
視覚で本物を見分けるのは、人間にも不可能だ。
「グルグル巻きになっちゃえ!」
全く同じタイミングで、数十体の〈サティ〉が腕を突き出す。
その途端、全〈サティ〉の手から糸が伸び、ハエに絡み付く。
「また窒息させてやる!」
〈サティ〉たちは一斉に糸を引き、ハエを締め付ける。
ちぎれんばかりに糸が張ると、琴にそっくりな音が鳴り響く。
ベベーブブブ!
ハエは滅茶苦茶に頭を振り、狂ったように身をよじる。
十中八九、糸を引きちぎろうとしているのだろう。
ぎち……ぎち……。
何十本もの糸が細かく震え、不穏な音がハモる。
破滅の瞬間は近い――。
〈サティ〉の予感は、嫌になるほど的確だった。
一分もしない内に全ての糸がちぎれ、細かい繊維が宙を舞う。
〈サティ〉たちは突き飛ばされたようにのけ反り、大空と見つめ合った。
綱引き中に片方が手を放したら、同じような光景を見られるだろう。
ベベ……ブブブ……!
自由になったハエは、喜び勇むように回転する。
ついでに尾を振り回し、空中を薙ぎ払った。
本物を見分けられないなら、全部倒してしまえばいいと思ったらしい。
次々と〈サティ〉軍団が砕け散り、子グモの残骸が乱れ飛ぶ。
尾は見る見る本体に迫り、ついには〈サティ〉の脇腹を打ち抜いた。
内臓、骨格、筋肉、脳――。
人体のあらゆるパーツに衝撃が走り、モニターをノイズが埋め尽くす。
全身を覆っていた子グモが四散すると、今度は荒い風音が〈サティ〉を包み込んだ。
なすすべもなく身体が飛び、景色に鋭利な残像を刻み込む。
サル、キリン、シマウマの順に檻の前を横切ると、背中がベンチに飛び込んだ。
バキバキ! と鈍い音が鳴り響き、白い木片が舞い上がる。
瞬間、背筋に強い痺れが走り、目の前が一瞬真っ黒に染まった。
どうもコンマ数秒間だけ、意識が飛んだらしい。
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