第四章『上司が亡くなった場合、香典の相場は五〇〇〇円から一万円くらい』
最悪の法則
夕方の動物園は、喧噪に包まれていた。
普段とは違い、楽しげな声や無邪気な笑みは一切聞こえて来ない。
耳に届くのは、困惑に満ちたざわめきと、不満げな呟きだけだ。
突然、退園を
実際、何人かの客は、係員に詰め寄っている。
返事があいまいなこともあって、人々の顔は紅潮していく一方だ。
みんなに言っても信用しないだろうが、係員は別に隠し事をしているわけではない。
〈
今回のような非常事態でも、一般人に教えられることはない。
それ以前に、殺人バエの存在が知れ渡ったら、園内が大パニックに陥りかねない。
恐らく末端の係員はおろか、園長にも真実は伝えられていないだろう。
いつも通りなら、爆破予告があったとでも言ってあるはずだ。
普段と違うのは、人々の様子だけではない。
檻の中の動物たちも、不安げに鳴き声を発している。
中でも猿山は大パニックで、サルと言うサルが跳ね回っていた。
野生のカンで、ただならない空気を感じ取ったのかも知れない。
「止まらないで下さい!」
園内に配備された警官たちは、一心不乱に来園者を誘導している。
誰も彼も声は
闇雲にホイッスルを吹き続けたせいで、酸欠になってしまったのだろう。
それでも、来園者の避難はなかなか進まない。
入口兼出口には、初詣ばりの大行列が出来ている。
列の進むスピードは極めて遅く、一分に一㍍も動かない。
日曜日の動物園には、平日とは比較にならない数の客が訪れている。
来園者には小さな子供や、孫を連れたお年寄りも多い。
スムーズに避難を完了させようなんて、始めから無理な話だ。
事実、園内のスピーカーは、迷子のお知らせを流し続けている。
避難している途中に、両親とはぐれてしまったらしい。
「ショウジョウ小隊、異常ありません!」
「ホーム小隊、エリアCの調査完了しました! 引き続きエリアDに向かいます!」
〈
ここ数分間、胸の無線機は鳴りっぱなしだが、一向に鳴り止む気配はない。
極度の緊張から、仲間内での
彼等の目的が、ハエの捜索であることは言うまでもない。
同時に園内を隅々までチェックし、取り残された客がいないか確認しているのだろう。
行列から〈
何しろ、
写真や動画を撮りたくなるのも、理解出来なくはない。
中には、ドラマや映画の撮影と勘違いしている人もいるかも知れない。
秘密組織の〈
映像をネットにアップされたら、世界中に存在を知られてしまう。
当然、そうならないための対策は講じてある。
例えば〈
熱心に撮影したところで、映るのはピンボケ写真だけだ。
最近流行の動画にしても、ノイズだらけでまともに見られないだろう。
もちろん、ネットは遮断済みで、ツイッターにもYouTubeにも繋がらない。
報道関係には、〈
実際、動物園の周囲を眺めても、マスコミの姿は見当たらない。
何より〈
使用するためには多方面の許可が必要だが、今回は問題ないだろう。
「しかし、本当に出て来るんでしょうか?」
茶髪の隊員は園内を見回し、不安げに問い掛ける。
胸のネームプレートには、
顔に見覚えがないところを見ると、〈
「……お前も死体は見ただろう?」
中年の隊員は鼻にシワを浮かせ、西田にしかめっ面を突き付ける。
浅黒い肌や角張った顔には、何度も見た記憶がある。
並の〈
こちらのネームプレートには、
小さな角が着いたヘルメットは、小隊の隊長である
「……はい」
にわかに顔を青くし、西田は口元を押さえる。
首なし死体を思い出し、気分が悪くなってしまったのだろう。
「ですが、動物に卵を産み付けたとは限りませんよね?」
「いいか、新入り? 死にたくなければ憶えておけ」
念入りに言い、中野は西田の胸を小突く。
「この業界ではな、最悪な予想ほど現実になる。甘い考えは捨てておけ」
「最悪、ですか」
ゴクリと唾を呑み、西田は背後の檻を垣間見る。
小刻みに震える瞳が映したのは、二頭のアジアゾウだった。
体長は五㍍を超えているだろうか。
ゆったりと歩む姿は、動く山と言っても大げさではない。
実際にはバスやトラックのほうが大きいはずだが、重厚感はゾウのほうが上だ。
反面、いたずらに鼻を振り回す姿は、何かに苛立っているようにも見える。
荒々しい鼻息は、定期的に土埃を巻き上げていた。
他の動物と同じく、不穏な空気を感じているのかも知れない。
「確かに、最悪だな……」
中野は腕を組み、殴られたように唸る。
彼や西田の見解は、ぐうの音も出ないほど正しい。
園内で一番大きい動物は、間違いなくゾウだ。
ドラム缶のように大きな頭からは、さぞ立派なハエが生まれることだろう。
ゾウ自身が寄生されていなくても、ハエが彼等の檻を壊すことは充分あり得る。
一般的にアジアゾウは、気性が穏やかだと言われている。
ただ、それはあくまでも、「普段は」が付く話だ。
万が一、ハエが出現すれば、動物園は大パニックに陥る。
人間さえ我を忘れる状況下で、ゾウが興奮しない保証はない。
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