どーでもいい知識 セアカゴケグモは船に乗ってやって来た

「世の中には、バンクシー気取りが多いな」


 ディゲルはポケットをまさぐり、小さいスプレー缶を引っ張り出す。

 青いパッケージには、稲妻のようなフォントでこう書かれていた。


 ワンプッシュで24時間! ハエやカにも効きます!


「こんな風通しのいい場所で使っても、効果ないと思うけど……」


「じゃあ、何もせずに入れってのか? 人間サマを殺すハエが、うようよしてるかも知れないところに」


 ディゲルはあっちこっちに顔を向け、スプレー缶を乱射する。


 見る見る霧が立ちこめ、〈サティ〉の視界をかすませていく。

 絶え間なく響く「しゅーしゅー」は、やる気のないダース・ベイダーのようだ。


「変なとこで用心深いなあ……」


〈サティ〉は何度も手を振り、目の前の霧を吹き飛ばす。

 髑髏どくろの仮面をかぶっていなければ、完全にむせていた。


 市販の殺虫剤は、人体に悪影響がないと言われている。


 ただこれだけ大量に吸い込んだら、さすがに健康な赤ちゃんが産めなくなりそうな気がする。


「って言うか、自分に虫よけ掛けたほうが早くない?」


「あ……」


 ディゲルはぽっかり口をけ、スプレー缶を落とす。

 どうやら彼女は、べープの存在を忘れていたらしい。


「そ、そんなことより、内部の様子はどうだ?」


 ディゲルは大げさに咳払いし、〈サティ〉の顔を覗き込む。

 咳をしたと言っても、殺虫剤でむせたわけではなさそうだ。


「ちょっと待って、今調べてみる」


〈サティ〉は再び遺影のマークに目を合わせ、モニターにアイコンを並べる。

 髑髏どくろのアイコンに視点を合わせると、ヘルメット関連の設定が表示された。


 サーモグラフィーや高感度カメラをオンにし、念入りに周囲を見回してみる。


 しかし充血寸前まで目を酷使しても、怪しいものは見付からない。


「やっぱり、誰もいないみたいだね」


〈サティ〉のセンサー類では、建物全体を調べることは出来ない。


 とは言え、近くに不審な人物や怪物が潜んでいたら、見逃すことはないはずだ。


「よんにいがいれば、確実に分かるんだけど……」


「お得意のクモには調べさせられんのか?」


「あの子たちにはカメラも通信機も付いてないからね。偵察役は無理だよ」


「アイボにもWi-Fiが付いてる時代に、随分と不便なこった」


 ディゲルは投げやりに首を振り、エレベーターの前に移動する。

 もちろん、動いていないが、ボタンの上には各フロアの案内板が貼られている。


「何だ、地下にもフロアがあるのか」


「上と下、どっちに行ってみる?」


「地下だ」


 自信満々に言い切り、ディゲルは親指を下に向ける。

「即断即決」とは、今のディゲルを指す言葉に違いない。


「結構なドヤ顔だけど、何か根拠があるの?」


「怪しい研究と言えば、地下に決まってるだろ」


「……すっごく論理的な根拠だね」


 声と一緒に力が抜け、両腕がだらりと垂れる。


「〈3Zウチ〉だって、ヤバい部門は地下にあるだろうが」


「それは何かあった時に、封鎖しやすいからでしょ……」


「他人に言えないことをしてる奴は、地下に潜る。お前がどう思おうが、こいつは事実だ」


 言い聞かせるようにき、ディゲルは階段に向かう。

 長年、悪人と向き合ってきたディゲルには、ディゲルなりの確信があるのかも知れない。


「階段はこの先か」


 ディゲルは鉄製のドアと向かい合い、ノブを握る。

 独房のように重々しいドアは、拍子抜けするほど呆気なく開いた。


 前に来た誰かが、鍵を壊していたようだ。


「うわ、真っ暗だ」


 地下へ続く階段には、奈落のように闇が溜まっている。


 辛うじて足下は見えるが、何段あるのかは見当も付かない。

 窓もなく、電気もかないのだから、無理もない話だ。


「ライト、けるよ」


〈サティ〉はモニターにアイコンを並べ、懐中電灯のマークに目を向ける。

 すると仮面の目から光が伸び、階段を照らした。


 ギラギラと目を輝かせる髑髏どくろは、さぞ不気味なことだろう。


「随分、長い階段だね」


 真紅に染まった階段は、想像していたよりもはるかに長い。

 しかも、かなりきつい角度で、何度も踊り場を挟んでいる。


「まったく、ウンザリだな」


 案の定、ディゲルは不平を吐き、雑に額を拭う。


 顔面を守るバイザーは、汗や息で曇っている。

 今や防護服の中は、サウナのような状態だろう。


「登るよりはマシでしょ」


〈サティ〉は手すりを握り締め、一段ずつ階段を降りていく。

 最初の踊り場に辿り着くと、大きなクモの巣が目に入った。


 幾何学的きかがくてきな模様は、壁のアートの何倍も芸術的だ。


 しかし残念ながら、作者の姿は既にない。


 もしかして、もっとエサの多い場所に移動してしまったのだろうか。


「こんな孤島にも、クモはいるんだな」


 ディゲルは巣に歩み寄り、端っこを突っつく。


「資材に紛れて、島に上陸したのかも」


「クモが船に乗ったってのか?」


「南米に棲んでたヒアリだって、船でアメリカに上陸したでしょ?」


「そう言えば、そうだったな」


「〈サティ〉のモチーフになったセアカゴケグモも、船で日本に来たって言われてるよ」


〈サティ〉は階段を降りながら、自分の顔を指す。


 ヒアリと同じく、セアカゴケグモも知名度の高い外来種がいらいしゅだ。


 一九九五年、日本に上陸した際は、連日テレビや新聞を賑わせた。


 最初に発見されたのは大阪だが、現在は日本全土に勢力を広げている。

 本土や暖かい九州はもちろん、北海道も例外ではない。


 彼等は元々、オーストラリアに棲むクモだ。


 ヒアリもそうだったが、日本には船に乗ってやって来たと考えられている。


 今でこそ全国各地で見られる彼等だが、当初は港の近くで発見されることが多かった。

 この事実は、彼等がコンテナや資材に紛れ込み、日本に侵入したことを裏付けている。


 よくも悪くも注目を集めたのは、強い神経毒しんけいどくを持つためだろう。


 字を見れば何となく分かるが、「神経毒しんけいどく」とは神経に悪影響を与える毒を指す。


 有名なところと言えば、フグの持つテトロドトキシンだろうか。


 皮や内臓に含まれるそれは、身体の痺れや血圧の低下を招く。

 呼吸困難や不整脈ふせいみゃくを起こし、命を落とすケースも少なくない。

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