11通目。幸せの香り

公爵さまのお力で、私はすぐに皇城の研究室から地方に移動することになった。

必要な資料は転移装置で城から送ってもらえるし、私の要望で昔住んでいたように森の中に家をもらえたのが嬉しい。

誕生祭に献上された秘宝の件で、私の存在を探ってくる支国も出てきたみたいだから、ちょうどいい機会だったから準備もすぐにしてもらえた。


その間、私があなたに会うことは無かった。

あなたは姫様の護衛をしていたり、騎士の訓練をみたりと、上手く顔を合わせないように組まれていたのだ。

アップルパイの感想を聞きたかったけれど、あなたを苦しめる毒を贈ってしまったかもしれないと考えるとゾッとした。

あなたのことを何も知らないくせに、そういう事をやってしまうとは、やっぱり私は愚か者だ。

でも、もうそんな失敗はしない。

私もちゃんと学習したんだ。

今のあなたが幸せなら、それでいい。

それ以上望んでは、お星さまから罰を食らう。

思い返してみると、私の身体はいつ動かなくなるかわからないオンボロだし、あなたは私を忘れたままでよかったんだ。


お世話になった人たちに挨拶をして、私はお城に別れを告げた。


転移装置で近くまで送ってもらい、そこから馬車で森に入った。勿論迷いの森ではないけれど、昔に戻ったみたいでわくわくした。

三角屋根が可愛いログハウスの扉を開くと、木の匂いがする。

暖炉もあって、ますます昔を思い出さずにはいられない。

気がつけば私は、ババ様と暮らしていた家に似せて家具を揃えていた。


「懐かしいな〜」


春にはよく野苺でジャムを作っていたな。

ババ様の使い魔だった犬みたいなトトも一緒に、森でよく追いかけっこをしたものだ。

かくれんぼをすると、鼻の利くトトが決まって一匹勝ちするから、いつも追いかけっこだった。

夏は、木陰がいっぱいの森は過ごしやすかった。迷いの森の先には小川が流れていて、そこで水遊びをして、バーベキューもやった。

テントを張って、夜になると三人と一匹で星を眺めたなあ。

秋になると、落葉樹の葉を集めて焚き火をした。葉っぱのベッド!とか言って遊んだことも覚えている。

冬は、雪が積もるとかまくらを作った。

ババ様がすごく大きなかまくらを作るから、しばらくそこで暮らしたこともある。


私はほとんど昔のことを覚えていた。

それだけ、あの日々は幸せだったんだ。


「そろそろ私も大人にならないとなー」


公爵さまに気を遣わせないように、ここでちゃんと生活していかなければならない。

一人暮らしは初めてでもないので、上手くやっていける自信がある。



そうして、快適な森での生活を二ヶ月。

のんびり解読しながら、ハーブティーを嗜む毎日。

早くも私はこの暮らしにはまっていた。

セリーナ先生に怒られるので、一週間に一回は転移装置で城の医務室に行ってはいるのだけれど、それ以外はずっとここにいる。

未練がましい私はあなたを見たらまた何かやらかしそうなので、アップルパイ以来全く顔を見ていない。

でも不思議と、あなたと会ってはいけないとわかってから、全然会いたいと思わなくなった。

やっぱり私は薄情な人間なのかもしれない。


「ふんふふーん」


呑気に鼻歌なんて歌いながら、洗濯物を干していると、背後に突き刺さるような視線を感じた。

そんなことはここに来て初めてだったから、私は驚いて手を止めた。

戦場育ちだから、気配には鋭い自信がある。

これはよくない目線だ。

一応、私は帝国一の解読士。

残念ながら、狙われる心当たりがあった。

この家には騎士さんが結界を張ってくれている。これは家の中に入るべきかもしれない。

なるべく自然を装って洗濯物を干し終え、玄関のドアノブに手をかけようとしたんだ。


「みーつけた」


でも。すぐ背後から身の毛がよだつ声が私を襲った————。





◆◆◆






「ジーク、どうした?」

「え?」


ジークフリートはダグラスにそう問われるまで、自分の右目から涙が流れていることに気がついていなかった。

何かが顎を伝って、服に染みを作ったのを見て、やっと左手で濡れた頬に触れる。


「泣くほど美味かったのかよ。お前も疲れてんな。今度また作ってもらえるように、嬢ちゃんに頼んどいてやるよ」


ダグラスはそう言って笑い飛ばしてくれたが、ジークフリートは何故涙が流れたのか分からず困惑した。

朝、目覚めると涙が出ていたことは何度もあったが、こんな風にして涙が流れたのは初めてだったのだ。

それに加えて、どうにも胸が詰まって心が苦しい。じわじわと涙腺も刺激されている。

ジークフリートは右手に持っていた一口かじったアップルパイを持ち上げて匂いを確認したが、甘く、優しい、幸せの香りが鼻腔を抜けるだけで、薬が盛られているようには思えなかった。

試しにもう一口それを噛むと止まらなくなって、あっという間にワンピースを平らげる。

彼女が用意したらしい珍しい香りのする茶に口をつけて、ジークフリートは固まった。


——俺は、これを食べたことがある……?


アップルパイの甘さと茶のすっきりした味わいが混ざって、記憶が揺さぶられる。

脳裏には木のテーブルで誰かと一緒にアップルパイを食べた場面が浮かんだ。

こんなに温かい気持ちになったことは今までに無かった。

その時に彼は初めて、自分に何か大事な記憶が抜け落ちてしまっていることを実感したのである。


これはただの偶然なのか、彼女が何かを知っていて作ったものなのか。

今のジークフリートには判断ができない。

彼はエレンと話がしたいと思った。

そういえば、彼女は初めて顔を合わせた時に、自分の過去を知ったような事を言ってはいなかったか?

適当に聞き流したせいで、それがどういう内容だったのか忘れてしまったことを後悔した。

機会はまたある。

嘘かどうかは話を聞いてから調べれば良いのだ。

次にあった時には必ず、彼女の話を聞くのだと彼は決めた。


それなのに——。


「城にいない?」

「ああ。急遽、地方に移動になった。顔が割れるとエレンも色々不便だからな」


彼女の姿が見えず、研究室を覗いてみればもぬけの殻となっていた部屋。

ジークフリートが慌てて団長に彼女の行方を尋ねれば、いつの間にか目的の人は城からいなくなっていた。


「それで、今はどこに?」

「重要機密だ。教えることはできない」


彼は愕然とした。

マルクスの表情を伺ったが、とても教えてくれるようには見えない。

彼女と会う機会を、知らないうちに逃していたのだ。


「では、連絡を取ることは?」

「なんだ。エレンに何か用があったのか? それならレイスに言えばなんとかしてくれるだろう」


レイスの元を訪ねると、「わかった。届けるから書面にしてくれ」と便箋を渡される。

手紙なんて柄では無いのだが、それでもジークフリートは彼女に確かめたかった。

報告書くらいしか人に読ませるものを書いたことがなかったので、手紙にしては無骨なものだったが彼はそれを後日レイスに手渡した。


一日。また一日。さらに待って一週間。

エレンからの返事は来ない。


「魔導師長——」


ジークフリートはずっと返事を待っていたが、ついに痺れを切らして、レイスに彼女の居場所を尋ねた。

しかし、レイスは断固としてその場所を口にすることはなかった。

そして手紙の返事はいっこうに無い。


それもそのはずだった。

彼は知らなかったが、ディルクの要望でジークフリートとエレンの接触は阻まれているのだから。手紙はエレンに届いてすらいない。


「くそ……」


せっかく何かが掴めそうだったというのに、目前でお預けを食らっている気分だった。

ジークフリートは改めて彼女がこの国の重要人物であったことを痛感させられ、なす術は尽きようとしていた。

廊下で頭に手を回し途方に暮れていると、前から紙袋を持ったメイドが上機嫌で歩いて来た。

サラはジークフリートの姿を見つけると、緩んだ顔を引き締めて笑顔で会釈し隣を通り過ぎる。

ジークフリートは彼女の紙袋から甘い香りがして、思わずその腕を掴む。


「ど、どうかなさいましたか?」


サラは驚いてジークフリートを見つめたが、彼の視線は自分にではなく紙袋を向いている。


「ああ、これはエレンさんからの差し入れで。彼女の作るお菓子はどれも凄く美味しいんですよ。特にこのアップルパイは格別です」


にっこり笑って答えた彼女に、ジークフリートは眉を潜めた。


「今、ウォーカーからの差し入れと言ったか?」

「はい、そうです」

「まさか彼女が城に来ていたとは言わないよな?」

「え? エレンさんは一週間に一度、報告のために城にいらっしゃってますよ。……その、ご存知なかったのですか?」


それを聞いて彼は衝撃を受けた。

そんな話は初耳だ。

それならば、手紙など送らず直接会うことができたはず。

どうして魔導師長は、いや。団長も含めて他の誰もそれを教えてくれなかったのか、とジークフリートは猜疑心に苛まれた。

サラはそんなジークフリートの様子に、自分は何か言ってはいけないことを言ってしまったのかもしれないと後悔する。


「す、すみません。わたしもこの話は内密にしてくれと言われていたので、聞かなかったことにしてくださいませ」


まさかジークフリートともあろう人に、この話が伝わっていないとは。彼女も困惑した。


「わたし、これを城下の子に届けないといけないので。失礼します」


とりあえず自分は何も知らなかったと言い聞かせて、サラはエレンの言伝通りアップルパイを城下のクロリアという少女に届けに行こうと、その場を退散した。


「どういうことだ……」


ジークフリートは呆然とした。

何かがおかしいと、そこでやっと気がついたのだ。

それから彼は、一週間に一度エレンが城に来ていることを確かめるために、事あるごとに転移装置のある部屋をチェックした。

するとどういうことだか、彼が席を外せない仕事や城を不在にしている時に限って彼女が城を訪れているようだ。

いつも甘い香りだけを残して、エレンは姿を消してしまう。

あれから手紙を何通も送ってみたが、全く返事はない。

疑いたくはなかったが、ジークフリートはエレンが解読したばかりの魔法を手紙にかけて、それをレイスに渡した。

追尾の魔法だ。魔導師長相手に成功する可能性は低いが、試してみるしかなかった。



ちょうどその直後だった。

エレンが住む家の緊急装置が作動したと報告が入ったのは。



「なんだ」


ジークフリートにその事が伝えられるはずもなく、城が慌ただしいのを彼は訝しげに見送る。

そこでダグラスとアイシャが転移装置に向かうのを見て、ジークフリートはただ事ではないことに気がついた。

「おい」と、そばにいた騎士に声をかけた。


「何があった?」

「解読士が敵襲にあったと報告が」


ジークフリートはそれを聴くや否や、転移装置に向かって走り出した。

三階の廊下から外に飛び降り、無作法などつゆ知らず城を疾走する。

転移装置のある部屋の扉をこじ開け、発動中の魔法陣に滑り込んだのだ。


「なっ、ジークフリート?!」


レイスが驚愕の表情で彼を止めようと手を伸ばしたが、ジークフリートは眩い光の向こうへ消えていった。








「おいおい、ジーク。お前……」


団長たちは詳しいことは聞かされていないものの、ジークフリートとエレンの接触を断つように指示を受けている。

ダグラスはスライディングを決めたジークフリートが立ち上がるのを見て、額に手を当てた。


「つべこべ言ってる暇はない。行きますよ!」


事態は急を要する。

アイシャの一喝に、彼らは現場に急行した。

目的地に近づくにつれて見えて来る、燃え盛る赤い炎。

森が燃えている。


「アイシャ、お前は火の鎮圧。オレは嬢ちゃんを探す!」

「了解!」


団長ふたりはすぐに行動に移る。

三角屋根のログハウスが燃えるのを見て、唖然と足を止めたのはジークフリートだけだった。

彼の瑠璃色の瞳には、赤い炎がゆらゆら揺れる。

おぼつかない足取りで前に進み、ジークフリートは花壇に植えてあった青と紫の花が灰になるのを、何も出来ずに眺めた。

心ここにあらずで視線を落とすと、手が震えている。


「ハァ——、ハァ——、」


——動悸が酷い、息が苦しい。視界が霞む。何もわからない。


彼は後ずさって、無意識に首から下がったペンダントを服の上から握りしめた。


「嬢ちゃん! いるなら返事をしろ!!」


ダグラスが叫ぶ声も遠くに聞こえる。

家や森の木々が燃えてパキパキ悲鳴をあげ、焼き焦げた独特の嫌な匂いが強烈にジークフリートを翻弄する。

彼はついに膝をついた。


「エレーンッ!!」


ダグラスが必死になって魔法を展開しているのは、視界の外だった。

アイシャによって鎮火は終わったが、脆くなった家屋が目の前で倒壊する。




——いやだ。

嫌だ。嫌だ。やめてくれ。

もう、俺から何も奪わないでくれ。




「“も、う” ……?」


彼は力なく呟く。

自分は今、何を思った——?

ジークフリートは目を見開く。



『セオ!』



鮮明に聴こえた。

はっきりと、見えた。

亜麻色の髪を揺らし、すみれ色の目を細くして笑い、誰かを呼ぶ少女が。


「ウォー、カー……?」


その姿は、まるでエレンの幼い時のものだった。


でも、彼は分からない。

何故その少女の姿が浮かぶのか。

一体「セオ」とは誰のことなのか。

どうして、こんなにも胸が苦しくなるのか。


彼に眠る記憶たちが、思い出してくれよと涙になって押しあふれる。



「何なんだよ。お前は一体、俺の何なんだ————」



真っ黒になったログハウスは、何も答えてくれやしなかった。

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