SS21.彼がいないから

 閑話のように視点を完全に変えているわけではありませんが、遥香のお話です。


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「れんや……く……ん……?」


 目が覚めると、遥香の隣で眠っているはずの人はいなかった。どうやらバイトに行ってしまったらしい。

 最近は掛け持ちを始めて、だんだんと一緒にいる時間も少なくなってきていた。


「……おはようございます、くらい。言わせてくれてもいいのに」


 寝坊をしてしまった自分が悪いとわかってはいるが、それでも遥香に一声かけてくれてもよかったと思う。もちろん、眠っている遥香を起こしたくないという蓮也の良心からの行動だというのはわかっているが。


「でも、いないならいないでいいです……いません、よね?」


 バイト先に行ったら怒られてしまうので、最近は別の楽しみ方を見つけることにした。ころん、ころんと二回寝返りを打つと、蓮也の布団へとたどり着いた。たまにこうして布団に潜り込むと、困った顔をしながらも抱き締めてくれる。


「……すぅ……はぁ……」


 蓮也がいないことをいいことに、遥香は蓮也の布団にくるまって思いっきりその匂いを嗅ぐ。その自分のやや変態チックな行動に恥ずかしくなって、じたばたとベッドの上で暴れてみる。


「なにを……またこんなことをしてしまいました……ごめんなさい、蓮也くん……」


 自分を信頼してくれている蓮也に申し訳がない。そうは思いながらも、何度もこんなことをしてしまう。

 いやらしい気持ちになるわけではない。そういうことをするつもりでこんなことをしているわけではないのだ。ただ、いつからか遥香にとって蓮也の匂いというのはいつもすぐ傍にあるものになってしまっていた。

 駄目なことをしているというのはわかっている。こんなところを蓮也に見られてしまっては、恥ずかしさで死んでしまえる。


「……人として大切なものが失われている気がします。やめましょう、私。やめるべきです」


 怒られないからやっていい、なんて子どもじみたことをしていてはよくない。そうわかってはいても、そこに魅力的な空間があったら入ってしまう。

 自分がまだこんなにも蓮也のことが好きで好きでたまらないということが少しだけ嬉しくて、同時に一方的な好意なのではないかという不安もあった。


「というか! いつになったらあの人から手を出してくれるんですか!」


 かれこれ何度か恋人としての営みをすることもあったが、結局ほとんどが遥香の方から誘惑するようなことが多かったし、蓮也の方から誘ってきたと思ったら大抵素面では無いときばかりだ。

 魅力には自信があった。なんでもない異性から告白されることが日常茶飯事だったのもあるが、自分磨きをしっかりしていたという自負があるから。けれども、蓮也はなかなか手を出そうとはしてくれない。それが少しだけ寂しい。

 遥香が考えてどうこうできる話ではないので、大人しく別のことをして気を紛らわせることにする。聞いていた予定では今日は帰ってくるのがかなり遅いはずなので、好きな物にしてあげようと思う。


「……あれ?」


 美味い、という言葉は何度も聞いてきた。でも、聞きすぎて結局彼が何を好きなのかがよくわからなくなってしまった。

 相手を思いやるというところは蓮也の良さだと遥香は思っている。もちろん、それが空回りすることも多少はあるが、そういうところが少なくとも遥香は好きだった。けれど、それがこんなところで仇になるとは思わなかった。


「オムライス、ですかね」


 思い出が詰まっている、別に得意料理というわけでもなかった料理。作り方も至ってシンプルで、特別な手間は一切ない。

 それでも、初めて食べてもらった料理だ。あのときは好きでもなんでもない、むしろ無愛想で仲良くなろうにもなれない人だったけれど。


「顔、熱い」


 たまに思い出してしまう、高校の頃の思い出。今に不満があるわけではなく、ただあの輝いていた思い出が遥香にとって温かいものだったというだけ。

 いつからか遥香だけでなく蓮也まで書き込むようになった日記を捲る。大人になってしまった今では考えられないような感情をただ書き綴っていて、少しだけ恥ずかしい。


「好き、です。蓮也くん。好きですよ。大好きなんです」


 恋がつらいと思ってしまったのは久しぶりだった。センチメンタルになるのも、久しぶりだった。

 両思いであることを心配はしていない。そう、蓮也には何度も言っている。本音ではそんなのは全部嘘っぱちだった。

 いつだって本当に好きでいてくれるのか心配になる。だから、積極的になってしまう。彼がいないときに、一人になったときに、当たり前がなくなってしまうようで怖くなる。

 そんな心細い気持ちになっていたときに、メッセージの通知が来た。


『今日はバイト早めに終われるかも。早く帰ります』


 いつもこんな不安があるわけではない。それこそ朝に見送ることもしなかったから、こんな気分になってしまっている。

 それを見透かしたようなメッセージで、ついにやけてしまった。

 一通りの家事をして、昼食を一人で食べる。それからまた部屋の掃除なんかをして、出迎える準備をする。


「いつ帰ってくるんでしょうか……」


 あれからメッセージは入っていない。

 大学に入ってから、蓮也は忙しくなった。自分の夢のために必死に勉強をして、いつか遥香と二人だけでも生きていけるようにいろいろと頑張ってくれている。

 こんな一生懸命な人を好きになるなという方が無理だ。その愛情の矛先が自分であることが嬉しい。

 だから、遥香はこれからもずっと、蓮也への気持ちが冷めることはないものだと思っている。


「……だから、未来のことを考えるのは嫌いなんです」


 いつか、本当にお互いの気持ちが冷めてしまうのが怖いから。当たり前のことが本当の意味で当たり前になってしまうのが、おはようやおやすみを当たり前のようにしなくなってしまうのは、怖いから。

 しばらくして、扉が音を立てて開いた。やや乱暴な開け方に、少しだけ驚いてしまう。


「お、おかえりなさい。なにかあったんですか?」

「……いや、なんでも。ただ、なんとなく。遥香が寂しがってたりしたら、嫌だなと思って」


 肩で息をしながら「変だよな」なんて言って笑う。

 やっぱり、好きになるなという方が無理だ。


「馬鹿なんですか」

「だよな。どうせ帰ってくるし寂しいわけ……」

「寂しかったに決まってるじゃないですか」


 いつかの未来のことはわからなくてもいい。今、この瞬間だけが大切にできるなら、と。遥香の頭を撫でる蓮也の手を感じながらそんなことを思った。

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