「小説に価値があるか否か」問題って「死後の世界があるか否か」問題に通ずるところある
今しがた同棲しているパートナーとそういう話になり──私は「小説に価値があるか否か」に対して「ない」と答えたのだけれど、これは小説というものから離れてしばらく経つ今の私からしたらその方が心地いいからというだけの話であって、10代~20代前半創作意欲盛んだった頃の私だったらフツーに「ある」と答えていそうな気もする。
とどのつまり、この視座から小説というものを眺めて、価値が「ある」と思える、且つその状態が今の自分にとってしっくりくると思えるのであればそこに座ったままでいいし、どうもコレじゃないと違和感を覚えるのであれば別の視座に移動したらいいのではないかと。
ただ、本当に難しいのは視座の切り替えではなく真に心地いいかどうかの見極めではないかと思っていて。
たとえば「私の作品には何の価値もない! だから自分の作品全部消しました!!」と発信している人がいたとして。表面上だけ見ると、その人にとっての心地いいは自作に価値が「ある」と思える状態なのだと考えられなくもないのだけれど、云うて自作に価値がないので全部消しましたとわざわざ発信している時点で、自作に価値を見出せないそのスタンスこそが何かしらの原動力にはなっているわけだから、主に生産性の観点からみたとき「いや、あなたの場合は席そのまんまでよくね??」とも思ってしまう。
自作の削除自体は純粋に惜しいとして、自分の書いたものなんて無価値だという椅子から眺める景色を内心気に入っていると思うので、この場合は無理に席替えをせずとも良いのではないかと。ことその人に関しては、価値が「ある」と思えている状態よりも「ない」と思っている状態の方が、いっそいくらかマシ説ある。
で、話していて思ったのはこれって「死後の世界があるか否か」問題に通ずるところあるなと。「ある」と信じていた方が気分的に楽なら「ある」でいいと思うし、「ない」と信じていた方が楽だと云うなら「ない」でも良い。
ちなみに現在30代の私は死後の世界「ない」派なのだけれど、コレだって(そんなに生きられるかはさておき)80代を迎えた折には「イヤ、やっぱあった方がいいわ」になっている可能性だって大いにある。人間の一貫性なんてそんなものだろうし、その点において一貫性を死守できたところで得られるメリットとか多分そんな大きくない。
最後に身も蓋もないこと云うけど、「常に私の書くものには価値があって、毎日ハッピー!」というタイプの物書きって、そもそも物書きとしてどうなの感あるので(ただ、noteにはいそう。でもって『毎日を楽しく生きるための36のコツ』とかやたらとコツまみれのエッセイ書いてそう)。自分の作品に価値なんて──と構えているタイプの方がよっぽどらしくはある。どちらの方が良いもの書けるかは、この際別問題として。
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