自作を酷評されて傷つくという感覚があまりピンとこないという話

 自作を酷評されて傷つく──という感覚が、理解はできるのだけれどその実共感しづらいところがありまして。


 と云いますのも、私下記自作でもちらと触れたように「自作を自分以上にディスれる奴マジでこの世にゼロ人説」を提唱しておる身でして。 


『僕は小説を書くのが好きで好きで堪らないヤツが憎くて憎くて仕方がない』

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054897566968


 もちろん、これまでもらった感想にちくっときたことはありますよ? ただ、それは作品を酷評されてのちくりというよりは、云い方もうちょっと配慮できなかったのかなみたいなね(笑)

 とはいえ、人って目前の本や音楽なんかから自分の支えとなる情報を抜き取って再構成して立ち直る力があるように、他人の発信から自分の傷つく要素を勝手に拾って勝手に傷つくこともあり得るので。一概に発信した側に非があるとも云えないのだけれど。

 そもそもこの自作を酷評されて傷つく"度合い"ってどこに左右されるのかな──と考えたとき、自作を何に喩えるかって意外と重要なファクターかもしれないなと。 

 以前、Twitterで「あなたの文章を喩えるなら次のうちどれ?」みたいなハッシュタグが創作界隈で回ったことがあって。選択肢の中に花やら宝石やら小綺麗なものしかなかったことが地味に衝撃だったのだけれど。


 私、大学一回生(そういえば、この数え方って関西特有らしいね)の頃に、京極夏彦先生の『魍魎の匣』を読みまして──作中に関口巽といううつ病の作家が出てくるのですが、彼は自分の書いた作品を「排泄物」に喩えているのですよね。


 で、ここからが面白くて。

 関口君は自作を出版するにあたって当然編集者から手を加えることを求められるわけだけれど、彼は「自作=人生のしぼりかす」という思想の持ち主だから、"排泄物"の見栄えを良くしようとする作業に一体何の意味が? とか考えてしまうのですよね。

 とはいえ、関口君は曲がりなりにも(これは誤用ではない。事実関口巽は作中で売れない作家なのである)小説家なので、その排泄物で幾許いくばくかの金を貰っておる身なわけですから、もう先生はの人じゃないんですよ──と編集者からやんわり諭されて、自分にとって自作は排泄物に過ぎないから手を加えたくありませんだなんて何と恥ずかしい──と赤面する場面があるのだけれど。


 この「自作=排泄物」という考え、当時の私にメチャクチャ刺さりまして。


 なんなら抜けにくい返しがついていて、今でも刺さっているのだけれど(笑)

 自分が自作を酷評されて傷つくという感覚がしっくりこない、作品の批判を通じて「私、攻撃された!」という錯覚を起こしにくい理由ってこれかもな──と。そんなふうに納得したことを憶えている。

 余談だけど、編集者に諭されて自分の立場を認識した関口君の「私は既に単なる表現者ではない。所謂売文家になっていたのだった」という一文すごい好きなんですよね。だから、私の好きな作家は京極夏彦先生なのだけれど、甚だ共感し得るもの書きは未だ関口君なのだよなぁと。

「自作を喩えるなら排泄物」というこの考え方は、一見自作に対して愛がないように思えるけれど、ぶっちゃけ小綺麗なものに喩えないと可愛がれない愛って何だ? という気もする。これは些か詭弁っぽいけどね。

 今回はまさかのオチなし! ではまた!

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