暴走する妄想の物語を中国で読む
中国行きの飛行機の中ではJ・G・バラードの短編『暴走する妄想の物語』を読んでいた。子供のころは小説が好きで一人で字が読めるようになってから修士課程一年生くらいまでは毎日役に立たない本ばかり読んでいたが、博士課程に進んでから研究が人生の主役にとって代わり、気持ちにも余裕がなくなって理工系以外の本をぜんぜん読まなくなってしまった。小説を読まなくなった分だけ毎日殊勝に研究してるかというとそんなこともなくて、多くの時間をツイッターやユーチューブにささげている。要は気持ちの問題で、よし読むぞっていう踏ん切りがないと小説が読めなくなってしまった。それでも学会発表に行く時なんかは端末に小説のPDFを入れて行く。たいていは違法ダウンロードだったりするんだけど、それはまあいいことにして。
ホテルについてVPNの設定をしようとして焦る。アイコンには接続されてるっぽい表示が出るのだがジーメールがぜんぜん見れない。何度かパスワードを入れ直したが、やっぱりだめ。学会は二日続けてあるから、その間はメールのチェックなしだ、と諦めて学会発表用の原稿を読み直す。ぼくは英語がすごい苦手で発表は原稿を丸暗記してしゃべる。十二時には寝た。
翌日、発表が無事に終わってから、ホテルで読みかけの短編を開いた。メールは気になるけどやっぱりつながらないものはつながらない。ツイッターもユーチューブもだめなので、暇つぶしはバラードの短編、『暴走する妄想の物語』しかない。
『暴走する妄想の物語』にはシンデレラが登場する。実はぼくはシンデレラのストーリーをよく知らないんだけど、グリム童話に入っている『灰かぶり』がその類話だってことは知っている。
「昔、ひとりのお金持ちの男がいました。」
灰かぶりのお話はこの一文から始まる。
『暴走する妄想の物語』も、昔、ひとりのお金持ちの男がいたらしいことが伺える書き出しだ。冒頭に描写される男性は、上等ながら体に合っていないグレーのスーツにシルバーのタイを身に着けている。かつては裕福だったのだろう。
『暴走する妄想の物語』の語り手の解釈によれば、十二時てっぺんを指す時計の針は屹立した男根であり、ガラスの靴は処女のヴァギナのメタファーである。本当に深刻な事態がはじまるのは、パーティーが終わり、夜になってからだ。性交時のペニスが恐ろしくて、シンデレラは真夜中に逃げ出す。
ぼくはこの解釈が不自然に感じる。灰かぶりの王子様は靴を手がかりに灰かぶりを捜す。灰かぶりの血のつながらない姉たちは、靴に合わせるためにナイフでつま先を切るが、靴にたまった血によって本当の花嫁ではないことを見抜かれるのだ。
靴が女性器の隠喩だとすれば、処女性を持っているのはむしろ、姉のほうではないか? 舞踏会は二夜続けて開催されて、二日目に灰かぶりは、王子が家来に塗らせていたタールに金の靴をくっつけてしまう。と、ここまで考えたところで、ぼくは十二時には寝た。
翌日の学会は特に興味のあるセッションもなかったので午後からサボることに決めた。バスに乗って、適当な場所で降りる。旅慣れてる人にはなんでもないことだろうけど方向音痴のぼくにはスリルある冒険だ。とりあえず公園のベンチに腰掛けたものの、やることが思いつかなかったので、『暴走する妄想の物語』を開いた。
『暴走する妄想の物語』では、王子は、これ書いちゃっていいのかな? ネタバレだけど、王子は父親だ。灰かぶりの父親は不思議なほど存在感がない。継母が灰かぶりをいじめている間、父親がどのように振る舞っていたかはまったく語られない。
代わりに灰かぶりの母親は死んだ後も灰かぶりにつきまとっている。母親のお墓の上に植えた小さな木は、金や銀のドレスや靴を、灰かぶりに落とす。
公園はいろんな人がいて、意外と楽しかった。アスファルトに筆と水で漢字を書くおじいさん、すごくスローな踊りを踊るおばさん、なんに使うのかよくわからない丸い玉をジャグリングのように手の中でくねくね動かす人、しゃぼん玉を飛ばす人、なぜか後ろ向きに歩く人。
夜は学会会場でご飯が出るから、ぼくは一旦ホテルに戻ることにした。ホテルにつくとまず、ぼくは明日の飛行機に備えて、早めに空港に行きたいので朝五時にタクシーを呼んでくれますか? と、フロントにいる人に聞いた。するとなぜか「ノー」と言われた。なんでやねんって感じに「ホワーイ?」と言うと、フロントの人は困った顔でどこかに電話をかけてから、「オーケイ」といった。ぼくはすごく不安な気持ちになったけど、翌日タクシーは無事にやってきた。
『暴走する妄想の物語』のクライマックスでは、古びた洗濯物配送車が幻覚剤の力でカボチャの馬車に変わる。『灰かぶり』にはたしかカボチャの馬車なんて登場しない。
ぼくは暗いタクシーの中で、昨日のご飯おいしかったな、と思い出した。一日目にぼくの発表を聞いてくれていたという日本人の女性が話しかけてくれて、ぼくは日本語が通じることが嬉しくて少ししゃべりすぎた。ホテルも一緒だということがわかり、少し部屋に戻って飲み直しませんか? と誘ってくれたけど、ぼくは十二時には寝るように母からきびしくしつけられていた癖が抜けないので、お礼を言って断った。
空港について焦った。ぼくのパスポートからはなぜか、顔写真の部分がきれいに切り抜かれていた。ショックで冷や汗をダラダラかいていると、昨日の女性がかけ寄ってきて、右手に握りしめたぼくの顔写真を見せてくれた。
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