悪魔は空からやってくる
いつもと変わらない、日常の幕が静かに上がる。
鳥たちのさえずりや、近くの湖の湖面を魚たちが跳ね、どこから吹き込むさらりとした暖かい風が木々の枝や葉を揺らし、うろ穴の中までも面倒見良く温めてくれるのだ。
セイムは今日という日も、この世界に、やはり神様はきっといる。と、思わずにはいられない、そんな素朴で温かな朝だった。
昨夜の出来事に関してジゼルは無関心だった。
セイムもこれでいいのだ。と、自らに言い聞かせ、木の実と植物の根で練り上げた堅焼きパンを頬張った。
「セイムさん。あまり急いで食べるとのどに詰まりますよ?」
「・・・はい」
「セイムさん?」
「なんですか?ジゼルさん」
「幸せですね」
「はい。とっても」
朝食を取り、釣りの道具を一式持って二人は釣りに向かった。
湖の上流の大きな滝の滝つぼがいつものポイントだ。
この場所は深い森の中にあって日のあたる数少ない場所でもあった。
照りつける『秋』のような日の光は、清流や木の葉、そして、何の変哲もない川底の石に至るまで鮮やかに世界を彩っている。
セイムはズボンの裾を膝上まで持ち上げて竿と篭を持って川に入っていき、そこから釣り針を垂らした。
エサは、ミミズのような生き物だ。
この生き物の名前は知らないし、もしかしたら、まだ『ネームド』ではないかもしれない。
セイムが、この生き物をミミズと一度呼んでしまえばこの生き物は『ミミズ』と名付けられてしまうだろう。
そして、セイムたちが住むあの巨木も。
一度何らかの呼び方で呼んでしまえば、その名がついてしまう事だろう。この世界は、そういうものだ。
ジゼルは木陰にあるお気に入りの倒木に腰かけて、途中拾った木の繊維や葉っぱや皮で楽しそうに何かを編んでいた。
頭には、木の樹皮で編んだ麦わら帽子に似た物を乗せていた。
1匹釣り、2匹釣り、セイムはこの魚の呼び名も知らない。
3匹目は今までで一番大きな魚だった。
彼は思わずジゼルの方を振り向いて様子をうかがうと、彼女は依然楽しそうに何やら編んでいた。
ここまで、鼻歌が聞こえてきそうなほどだ。
それからしばらくして、川の浅瀬で所在なくしていたセイムに気が付くとジゼルは微笑んでから立ち上がりお尻を払った。
出発の合図だ。
必要以上に釣ることは一度も無い、それぞれが一匹ずつ食べて、もう一匹はあの湖に放流してしまう。
やがて、あの湖で魚たちが繁殖すればここまで来ることは今よりも少なくなるかもしれない。
「行きましょう、ジゼルさん」
「はい」
セイムは去り際にもう一度、森が切り開かれてそこから見える雲一つない青空を仰いだ。
そして、大きな滝から大きな流木が危険な角度で流れ落ちてくるのを見つけ。
今日の自分の幸運と、この世界の神様に感謝した。
流木は沢山の水に叩きつけられるように滝つぼの底にのまれ、一度空高く跳ねて、それからまた滝つぼに飲み込まれて浅瀬までゆっくりと流れ着いた。
「・・・なんですの?あれは?」
その声にセイムは、実に久しぶりに背筋が伸びる気がした。
流木だと思っていたものは、腰と胸の部分に襤褸布を巻いた人間で、その頭部には巨大な魚が食らいついていた。
「なんですの!?あれは!?」
火はまだ消えてなどいなかったのだ。と、セイムはこの時確信した。
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