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「もう少しだけ頑張ってください。今エルくんがお店を探してくれているので――」


「こりゃなんの拷問だ」


 それは悲痛な訴えだった。


「っ……ノワールさん……」


 まさか良好だと思われていた旅がノワールにこれほどの苦痛を味わわせていたなど露知らず、リアは狼狽える。

 ――しかし。


「あんなイイ女の誘いに乗れねぇなんてなんつー拷問なんだ!」


 ノワールの口から出てきた言葉にリアの思考は疑問符で埋まる。顔を上げる男の動作に続いて自らもそっと首を横に向ける。

 視界に入るのはローレライと書かれた看板を構える見事な佇まいの娼館。ミレドリッチに集う娼館の中でも結構な高級館といえるだろう建物三階の格子窓の隙間から一人の美少女が妖艶な笑みを浮かべて手招いている。


「…………」


 異性なら誰もが惑わされてしまうであろう麗しの光景にリアの冷めた目が注がれる。

 ――忘れていた。彼がどんな人間であったかということを。


「くそっ!」


 臆げもなく本気で悔しがる姿を冷めた目で見つめるリアの手には拳が握られている。

 ゆっくりと振り上げた腕を勢いよく下方へ落とすとその直後、なんとも言えない鈍い音が響いた。


「あれ?」


 後方から届いた痛覚を刺激されるような物音に振り返ったエルは突如保護者の頭頂部に出現した物体に「はて?」ときょとん顔。


「ノアさん、頭におっきなたんこぶできてる」


「心配しなくても放っておけば治りますよ。さ、エルくん。行きましょう」


「? はーーいっ」


 リアから放たれるピリッと肌を刺す空気に若干腑に落ちない点はあったもののリアがそう言うのなら、と最後にもう一度だけノワールを一瞥したエルは特に心配する様子もなく歩き出す。

 そして、特大たん瘤を見舞いされたノワールはというと、頭を襲う衝撃の大きさに揺れる脳を落ち着かせていた。


「っ……こんの怪力小娘が」


 鈍痛に苛まれる頭を摩りながらそっと目線をやる。素知らぬ姿で悠々と歩くリアの後ろ姿を恨めしげに睨みつけ、そして苦笑した。

 本音を教えてやる気はなかった。もちろんさっき言ったことも一応本音ではあるのだが。

 あれから数週間という日が過ぎたとはいえ衝撃の事実を次々に聞かされていまだ頭が追いつかないというのが現状。

 第二の故郷ともいえる懐かしい地を離れる決断をしたものの、リアに着いていくのが本当に正しい判断なのかどうかもまだわからない。


 ――今更彼に会ってどうしようというのだ。

 ――“彼女”もいないのに。


 女々しく自問自答する日々が続いている。答えが出ないから、賭けに勝利したリアに従うという形でこうして大人しくついてきているわけだが、いざあの地に戻ったとき、自分は一体どうするつもりなのだろう。


「聞いた? あれやっぱり若様の足だったって」


「ほら、だから言ったじゃない。あのホクロにはなんか見覚えがあったのよぉ」


 鬱屈な気分でいたところにふと声高な会話が聞こえてくる。


「そうは言うけどあんなの見て誰の足かなんて普通気づかないわよ。あたしなんて気色悪くてそれどころじゃなかったわ」


「だってしょうがないでしょ~。気づいちゃったんだから」


「ハイハイ。――それにしても早くなんとかしてほしいものよね。明日は我が身かと思うと安心して歩けやしない」


「ホントね~。ああ怖い怖い」


 綺麗に着飾った女たちはゲラゲラと笑いながら通り過ぎていく。

 話の内容までは聞き取れなかったが彼女たちが何かに不安を抱いている様子なのはわかった。だが言葉とは裏腹にとても楽しげに話しているのが引っかかり、興味本位で盗み聞いていたつもりが余計に気になってしまう。


 ドンッッ、


「っ、と」


 よその会話に気をとられていると、突如真横から衝突してきたのは自分よりも若そうな痩せ型の男。よろけたノワールが目を向けるが男は謝罪するどころか視線を合わせることなく逃げるように走り去っていく。


「おいてめえ! ったく……なんだよ」


 男の姿を追うように振り返ったがすぐそこの角を曲がったため一瞬にして姿が見えなくなった。

 向こうからぶつかっておきながら謝罪すらないとはどういうことかと舌打ちするが、いつまでも道の真ん中に突っ立っていた自分にも非はあるかと思い直して釈然としないながらも踵を返す。

 それにしても妙に挙動不審な奴だった。そう思っていたときだ。


「誰かその男を捕まえて!」


 静寂の街に響いた金切り声。それもかなり近い。

 まるで真横から叫ばれたような声の近さに咄嗟に振り向けば、ノワールを誘う美少女がいた娼館の前にこれまた新たな美女が立っていた。

 胸の膨らみを派手に主張する扇情的な格好で現れた女が剣幕した様子で指差す先は、まさかの自分。

 ばっちりと視線が合ったノワールは念のためと辺りを見渡すが女が指差す方向には己の姿しか見当たらない。


「は? 俺?!」


 いや待て違う誤解だ、と声を張り上げようとした刹那、疾風のごとく現れた二つの影がノワールに襲いかかった。

 自分に迫る白刃に気付き、背に吊るす剣の柄を握り締め一気に鞘から抜けば顔面に構える。

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