36

 信頼を、友情を、絆を、あの男は自ら壊したのだ。今更会って話すことなどあるわけがない。


「死んだら、二度と言葉を交わすこともできなくなるのですよ」


 ポツリと放たれた声の儚さにノワールの瞳が揺らぐ。


「亡くなった後にどんなに顔が見たいと思っても、どんなに声が聞きたいと願ってもそれは決して叶わないのです。言いたいことがおありなのでしょう? でしたら直接おっしゃったらいい。彼はもう一国の王でもなければこの世界に存在する者でもない。シルフィード・エルサン・ディ・ロディオス陛下は亡くなったんです。今あそこにいるのはシルフィードという一人の人間。あなたがどんなに彼を罵倒しようと、誰もあなたを裁けない」


 無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。だがノワールを説得するにはこう言うほかになかった。


「彼を許せと言いたいのではありません」


 二人の間に起こったことは二人の問題であり第三者が口を挟める問題ではない。だがノワールは既に一度経験している。気持ちを伝えることのないまま、言葉を交わすことも顔を見ることも叶わなくなったときのやり場のない衝動を。

 今は憎しみの方が勝っていてもいつか必ず後悔する日がやってくる。必ずだ。


「あなたはただ、自分が思っていることを伝えたらいい」


 後悔する前に、二度と叶わなくなる前に、会うべきだ。

 会って、話をすべきだ。


「だから――戻ってきてください、ロディオスに」


「俺は、」


「あなたが必要なんです」


 鈴の音のような声がノワールのなかに入ってくる。

 海色の瞳は自分を繋ぎ止めようと必死に訴えかけていた。



  ***



 ――バレッティアの朝は冷える。

 薄着で外に出ると身震いする程度に気温は落ちていて、日の出とともに徐々に上がっていき、そして夕暮れと共に再び気温は下がる。

 背に背負った荷物はごく少量。元々この街に来たときは荷物などなかった。長い月日を経てそれだけ思い出が培われてきたのだと思うと多少感傷的な気持ちにさせられる。

 しかし、しんみりするのは好きではない。

 長年世話になっておいて挨拶も無しに去るのは礼儀知らずな行為と承知の上で夜明けと共に出立することを決めたノワールは部屋に数ヵ月分の家賃を置いてきたものの、いざ去ろうとするとやはり胸に残る後味の悪さは拭えなかった。

 隣で眠そうに瞼を擦るエルに「行くぞ」と髪を撫でたノワールは、後ろ髪を引かれるような思いで軋む扉をそっと閉めた。――すると。


「こんな夜明けから出かけるなんて珍しいわね」


 完全に油断していたところに届いた声に振り向けば、予想もしてなかった人物の姿がそこにあった。


「仕事じゃないんだろう。エルちゃんも一緒なんだから」


「トマさん」


 エルの肩がぴくりと跳ねるのを見てトマは笑みをこぼす。


「やっぱり挨拶もなしに行くつもりだったんだね」


「なんで……」


 全て見通しているかのようなセリフに素直に驚いていると背後からもう一人の人物が顔を見せた。


「あたしが知らせたんだよ」


 声の主はロザーリだった。


「あの子、あんたを探してここまで来たんでしょう?」


 責めるような仁王立ちで構える姿に良い言い訳が思い浮かばず視線が泳ぐ。


「あー、あのなぁロザーリ。あいつの服の代金なんだが」


 リアのドレスの代金はハウラが払う手筈になっていたが、それは元々祭典を無事に行うのために受けた依頼の対価だ。結果台無しにしてしまったのだから当然報酬などない。となるとリアにかかった代金は全てノワールが自ら支払わなければならないわけなのだが、生憎今はドレスの代金を支払えるほどの手持ちがない。


「仕方ないからツケにしといてあげる」


「そいつはありがてぇ」


 仕立て屋の代金と飲み代とでは桁からして大きな差がある。というのに譲歩してくれたロザーリの懐の深さに感謝した。


「もう戻ってこないのかい?」


 哀愁を帯びたトマの声に思考が戻される。


「――そうだな」


 正直、まだどうなるかわからない。

 ロディオスに戻ることにしたとはいえあくまで渋々。決して納得したわけではない。

 だがおそらく自分が再びこの地に戻ってくる可能性は低いだろう。


「こうして話してるとあんたがここに来た頃のことを思い出すわね」


 懐かしむように紡がれた言葉にノワールはあのときの記憶を甦らせる。

 七年前。遅くまで客の相手に追われていて店を閉める頃にはすっかり夜も更けていた。

 閉店作業で外に出たロザーリは、深い暗がりの中から聞こえてきた足音にふと視線を向ける。街灯に照らされたのは、どこから来たのか酷く埃っぽく小汚ない格好をした男と、言葉も話せないような赤ん坊だった。


「『宿屋はどこにあるんだ』って恐ろしく弱った声で聞いてくるから何事かと思ったわよ。ワケありな奴は多くいたけどその中でもあんたの場合はなんかこう、特殊で。金なんて持ってなさそうだったけどエルなんかまだこーんな小さな赤ん坊だったから見捨てるわけにもいかないじゃない? トマさんが空き家をもて余してるって言ってたのを思い出して思わず連れてったのよね」


「ふふふ。そんなこともあったわねぇ」


 口では目の前で死なれても目覚めが悪いから、などと憎まれ口を叩いたが内心はこのままだと二人が行き倒れてしまうのではないかという不安に駆られのだ。エルなんぞ幼かったから特に、こんな子供に死なれて最後に会話をした相手が自分だったとなれば――、などと考えているとロザーリの良心が黙っていられなかった。

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