25

「っくそ、逃がしたか」


 振り返ったノワールは怒気を押し殺したような声でそう洩らす。

 そのセリフに自分が故意に突き落とされたのだと知ったリアは意識をそこに戻すと、申し訳なさそうに吐息する。


「すみません。私が周りに気を配っていなかったから」


 まさかこんなにも大勢の目がある中で堂々と事に及ぼうとするなど考えもつかなかった。と言っても言い訳にしかならない。もっと周りを警戒しておくべきだった。


「相手の顔は……」


「こうも人がいるとな」


 二人に駆け寄るのに手一杯で姿を確認することにまで手が回らなかった。

 誰もが証人になるからと敢えて選んだ場所だった。人で溢れるこの中でどう接触してくるつもりなのか見物だと思っていたが人の多さを逆手に取られたか。

 顔を目撃されるリスクがあるにもかかわらず襲ってきた。つまり――。


「見られても構わないってか」


 祭典を目前にしてなりふり構わなくなったということだろう。いくら犯人の目星はつけてるといっても肝心の証拠がなければ問い詰めることもできない。

 大勢の人でごった返すこの場所から一瞬見えただけの腕一本を頼りに探し出すのは不可能に等しい。だが核心に近づくものが見えたのも事実。


「やってくれるぜ。俺の息がかかってると知った上で仕掛けてきたんだ。覚悟できてんだろうな」


 今はなき影を見据える。その瞳に宿るのは怪しげな光。

 後悔させてやる――。囁くように放たれた言葉にリアは驚き目を見張る。

 クツクツと喉を鳴らして狡猾な笑みを浮かべるノワールの姿は、悪魔のようだとしか例えようがなかった。



  ***



 雲一つない晴れやかな空に色とりどりの風船が次々と飛んでいく。

 街の至るところで愉快な楽器の音色が鳴り響いていた。屋台が建ち並ぶ沿道は想定通り人で溢れかえっていたが、なかでも祭典の会場となる広場周辺の盛り上がりは今年も異様とも言える熱気と興奮に包まれていた。

 その一角にて。仁王立ちで構えるその身から禍々しい雰囲気を醸し出すノワールは、苛立ちを抑えるように溜息を吐いた。

 というのもあの後、犯人は現れなかった。あそこまで大胆な接触をしてきたのだ。必ずまた接触してくるはずだと践んでいたノワールの読みは外れてしまい、結果何の進展もなく祭典当日を迎えてしまったことに物足りなさを感じていた。


(あの場で逃がしたのが痛かったな)


 今日の祭典が無事に終わるのなら問題ないのだがそうはいかないだろう。奴らが今年のベル・フローラの本命が推薦枠のリアだと思い込んでいるなら、確実にまたリアを狙いにくる。

 問題はどうやって仕掛けてくるか。向こうも騒ぎを起こして祭典を台無しにするようなことは望まないはず。

 それに今日は昨日のようにはいかない。会場に集まる無数の視線は全て出場者へ向けられているのだ。そこに一人でも近づく者がいれば一発で気付かれる。

 これ以上リアを襲うのは不可能。この状況で何を仕掛けてくるつもりなのか――。


「ノアさん!」


「あ?」


 ふと、下方からの呼びかけに意識を向けると、そこには子供の頭一つ分はあろう大きさの白い塊がいた。


「みてみて、わたあめ!」


 己の顔と同等の大きさはあろうそれは、口当たりの滑らかな綿状の砂糖菓子。それを手に入れ満足そうに見せびらかすエルを目にして適当に頷いてみせた。


「お待たせしました」


 遠くから響く鈴の音のような声に振り向けば、本日の主役がいた。ヘアアレンジやメイクを施されてより洗練された美しさはリアの魅力を最大限に引き立たせていた。

 通り過ぎる人々の視線がまるで吸い寄せられるように少女を見る。女なら数えきれないほどいるこの中で、振り返ってでも視界に入れたいと思わせる魅力が今の彼女には備わっている。


「おう、遅かったな」


「支度に時間がかかってしまって」


 息を切らしたように肩を忙しく上下に揺らし呼吸を整えながらも、発せられる言葉の丁寧さは変わらない。


「わーーっ、リアさんキレイーー!」


「ありがとうございます」


 手をパチパチと叩き合わせながら素直に感想を述べるエルに微笑んだリアは身に纏うドレスの不備を確認するように見直してからノワールに向き直る。


「どうでしょうか」


「ああ。似合ってるぜ」


 海が太陽の光を浴びて煌めくように光るように光沢のある生地が優美に輝く。平らだった胸はロザーリの言葉通りしっかりと膨らんでいて、ふっくらとした谷間に吸い込まれるように下げられた控えめな首飾りが扇情的な色香を放つ。

 店で見たときとはまたいっそう変化した見事な変貌にノワールは素直に驚かされた。


「あの方に似て?」


 可憐な表情がふっと変わる。

 心を見透かされたような言葉は完全な不意打ちでノワールは僅かに反応してしまう。


「言えないんじゃなかったのか」


 以前言われたセリフを思い出して恨めしげに告げるが、


「言えない理由がなくなりましたから」


 リアは申し訳程度に肩を竦めただけでその口から謝罪の言葉はなかった。


「ありがとうございます。ノワールさんの御墨付きも貰えたことですし、少し希望が持てました」

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