アフターストーリー
その1 一年後
「鏑木結乃」
「はい」
彼女の名前が静かな体育館に響く。
結乃が堂々と返事をして立ち上がった。
次々、クラスメイトの名前が呼ばれていく。
「道原風雅」
「はい」
やがて俺も呼ばれ、立ち上がる。
若里高校、卒業式。
今までは眺めていただけのイベントも、今年は俺たちが送り出される側になった。
まあ人の話を聞くだけなのは変わらないのだが、それでも今年は特別だ。
三年生になってからの俺は、欠席ゼロ。
ちゃんと学校に通うという結乃との約束は守りきった。そして、習慣になってしまえば、合格が決まっている調理系の専門学校にも休まず通えるだろうと思う。
式が進み、俺たちは拍手の中、体育館を出る。
鏑木結乃と出会った学校。
ここに入ってよかったと、今は心から感じている。
†
「結乃~、さみしいよ~」
「はいはい、莉緒は甘えたがりね」
最後のホームルームが終わり、俺は昇降口にいた。近くに結乃と星崎もいて、二人でじゃれあっている。
「なんか、いざ卒業しちゃったら急に心細くなってきたよ……。あ~、いろいろ不安が多すぎる~……」
「その時はいつでも電話してきて。話は聞くし、なんなら東京まで行っちゃうから」
「うう、結乃ありがとう……」
ポンポンと親友の腕を叩く結乃。
星崎は笑顔になって、結乃の背中を押した。
「さて、ここからは彼氏との時間だね。またそのうち会おうね」
「ええ。また」
星崎に見送られた結乃がやってきた。
周りは記念写真を撮る卒業生でいっぱいだ。俺たちは二人で学校から出ていこうとする。
「あの、鏑木先輩!」
振り返ると、下級生の女子二人が駆け寄ってきた。
「で、できればブレザーのボタン下さい!」
「え、あたしのがほしいの?」
「はいっ」「そうです!」
二人は勢いよく返事をした。
「ちょっと待ってね」
結乃はブレザーに二つついているボタンを外し始めた。俺はその指先を見つめる。
結乃は後輩からも自然と慕われるようになった。俺はそれが自分のことのように嬉しい。
「はい、どうぞ」
「わあ、ありがとうございます!」「大切にします!」
深く頭を下げて、二人は離れていった。
「人気者じゃないか」
「高校でもボタンほしいって言う子いるのね。あたしのなんか」
「結乃のブレザーのボタンとかめちゃくちゃレアだろ。俺もほしかったな」
「ええっ……。じゃあ、しょうがないからこれあげる」
結乃は、ブレザーの袖の下についた一回り小さなボタンを外した。
「こっちでもいいでしょ?」
「ありがとうございます!」
「ふふっ、後輩の真似?」
「自然に出た敬語だ」
「二人とも、いいかな」
やってきたのは大輔さんと俺の両親だった。
「門のところで写真を撮らせてくれないか」
「私もお願いしたいな」
大輔さんと俺の母親に、順番に写真を撮ってもらった。
一人で映っているものと、二人で入ったもの。二人が入った写真はあとで分けてくれるそうだ。
「じゃあ、俺たちは駅前へ行くから」
「お父さん、あとでね」
「気をつけるんだぞ」
「いってらっしゃーい」
「金を使いすぎるなよ」
互いの家族に見送られ、俺たちは長野駅への道を歩き始めた。
「いつものところでコーヒー飲む?」
「そのつもりだ」
「どうせコーヒーなら風雅のバイト先でもいいのに」
「いやいや、あっちは結乃とつきあう前から入ってた思い出の店だからさ」
「それもそうね」
俺は、三年生になってからアルバイトを始めた。
個人経営の喫茶店を探し、ようやくバイト募集をかけている店を見つけた。カウンター席が七つあるだけの小さな店だが、とても居心地がいい。休みの日に客として行く時があるくらいだ。
俺はそこでコーヒーを淹れる修行を積んでいる。
最初の頃はただ苦いだけにしかならなかったコーヒーも、今はだいぶイメージ通りの味になってきている。
気のいいマスターはなんでも褒めてくれるが、あの人の味に届くには時間がかかりそうだ。
「あのさ」
「なんだ?」
「昨日、初めて賃貸のサイトを覗いてみたの」
「……おう」
予想外の言葉だった。
「どんな感じだった?」
「古めのアパートなら、あたしたちのバイト代でどうにかなりそうな気がしたわ」
「いけるか」
「いける」
「じゃ、本格的に家族と話し合わないとな」
「そっちが先ね。物件はそのあと探せばいいし」
結乃は結乃でアルバイトをしている。俺の父親が企画室にいるホームセンターだ。職場の人たちからは「笑顔がかわいい」と言われるらしく、出会った当時の結乃からは考えられないことだ。俺は最初からかわいいと思ってたけどな。
「なんかこういう話すると、いよいよ大人になるって感じがするな」
「そう? あたしはまだ学校続くんだって思うけど」
「でも短大だろ。たぶんあっという間だぞ」
「風雅は一年だっけ」
「ああ。無事に卒業できたらマスターのところでもうちょっと修行かな」
「あたしは経理の勉強するつもり。いつか役に立つはずだから」
……いつか、ね。
俺が将来、自分の店を出すという言葉を受けてのものだろうか。
たとえ叶わなくとも、その勉強は社会で使える。無駄にはならない。
そう考えると、俺の人生はわりと賭けの部分が大きいような……。
まあ、それが俺らしいとも言えるか。
「風雅?」
「あ、すまん。ちょっと考え事してた」
「ぼーっとしてると危ないわよ」
つんつんと俺の頬に人差し指を当ててくる。いつになっても、やっぱり結乃はかわいらしい。
「ちゃんと前見て歩かないとな」
「そうよ。事故なんてシャレにならないんだから」
「気をつけるよ。ところで今日は何を頼む?」
「ふふっ、なんとブラックコーヒーよ」
「マジか?」
「内緒で特訓してたの。そしてっ、ついにおいしく感じるようになりました!」
「ということは、これで俺の淹れたコーヒーもそのまま飲める!」
「そういうこと!」
「やったぜ、結乃最高!」
「ありがとう風雅!」
俺たちは思いっ切り笑顔になる。
卒業してからも、にぎやかで明るい日々は変わらずに続きそうだ。
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