39話 ファーストキス
お盆休みが終わり、さらに数日。
なかなか結乃と会うタイミングが掴めなかったので、俺は以前のように気ままな散歩をする日々を送った。
もう夏休みの終わりはそこまで来ている。
「で、どう?」
『そうね、今日の夕方以降なら空いてるわよ』
「夕方か。それでもよければ会おう」
『どこで?』
「結乃の家とか」
『……変なこと考えてない?』
「ないよ。一緒に花火やろうぜ」
『まあ、そういうことなら……』
夜に会うのはまだ二回目。前回はお祭りだったから、二人だけの夜は初めてだ。慎重になる気持ちはわかる。
「遅くならないうちに帰るよ」
『わかったわ。待ってる』
「花火は俺が用意するから、結乃は家にいてくれていいよ」
『そうさせてもらうわね』
電話を切って部屋の時計を見る。
まだ午前十一時。
今のうちに花火を買いに行こう。向かう途中で買おうとして売り切れていたなんて展開は嫌だからな。
†
「大輔さんは?」
「なんか、友達に会うんだって」
「へえ……」
俺たちの間に微妙な空気が流れた。
結乃の家にやってきたら、彼女一人だった。今、この家には俺たちしかいない。これは本格的に気まずい。
「まあ、あるだけ全部やるか。そのうち大輔さんも帰ってくるだろ」
「……そうね」
日が長いので、俺は真っ暗になってからやってきた。午後八時を回ったところ。こんな時間でも来ることを許してくれたのだから、俺はもちろん真面目に花火だけやって帰るつもりだ。
家からの明かりは消えている。光っているのは、街灯と、道を行く車のライトだけ。
「風雅、つけて」
「よしきた」
結乃が一本目を出したので、俺がチャッカマンで点火する。ぼっ、と火がついて、金色の光が流れ落ちる。
明るい光の中に、うっすらと結乃の姿が浮き上がる。薄手の長袖シャツにロングスカート。
「手持ち花火、すっごく久しぶり」
「俺も最後にやったの、小学生の時じゃないかな」
「あっ、自分でつけるの危なくない?」
「平気平気……うおっ」
「ほら、危ないじゃない」
「予想外に勢いよかったな」
俺たちは花火の向きを合わせた。
落ちていく光。
地面を跳ねる火の玉。
車の通りは途絶えて、花火の音が庭を支配する。
結乃と過ごす静かな時間が、とても心地いい。
「なんか、昔に戻った気分ね」
「そうか?」
「前はお父さんと莉緒の家族がいて、大勢で花火をやったの。今日は二人きりだけど、家族以外の人と花火をやるっていうのが、すごく懐かしい」
「俺は今、とっても居心地いいよ」
「あたしも」
俺たちは笑った。
花火に次々火をつけ、光の流れを目で追う。結乃が用意してくれたバケツに、終わった花火がどんどん入れられていく。
「騒ぎながらやるのもいいけど、静かにやるのも全然ありね」
「同感。光に集中できる」
「あたしのことは意識してくれないの?」
「ま、まさか。もちろんちゃんと見てる」
「あたしは風雅の横顔、しっかり見てるわよ」
「俺だって……」
「ふふっ、なんだか自信なさそうね」
「……たぶん回数は負けてる……」
花火に気を取られすぎていた。もったいない。
「最後に線香花火をやって終わりましょ」
「そうだな」
結乃がしゃがんで、線香花火を手に持つ。俺はそれに、そっと火をつける。
自分の線香花火にも火をつけた。大きな玉が膨らみ、じじじ……と音を立てる。
玉が柳に変わると、俺はさりげなく結乃の顔を見た。光を見つめて、穏やかな表情をしている。この時間を楽しく思ってくれているだろうか。だったらいいな。
「あっ」
結乃の花火が落ちた。
「あたしの方が先だったか」
「俺のはしっかりしてるな――あ」
「落ちちゃったわね」
ほとんど同時のようなものだ。
残った線香花火、一本一本にゆっくり火をともし、大切に眺める。俺も結乃もあまりしゃべらなかった。今はそれでいいのだ。
やがて全部の花火が終わると、結乃がバケツに水を足して片づけてくれた。
「風雅、このあとどうする?」
「俺はこれで帰るよ」
「歩いて?」
「夜歩くのは慣れてるし。まあ親を呼べば来てくれると思うけど」
「そっか」
結乃がそわそわしている。
「あのさ、もしまだ時間あるなら、麦茶とか飲んでいかない?」
「いいのか?」
「うん。廊下開けるから、そこに座ってもらって」
「虫が入るぞ」
「蚊取り線香焚くから心配しないで」
「効くのかなぁ」
「いいから、来て」
俺はお言葉に甘えることにした。
結乃が家に入り、玄関の左側にある廊下の窓を開けてくれた。あまり高さがないので、余裕を持って座ることができる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
麦茶のコップを受け取る。結乃は俺の右側に座って、足を垂らした。
月が出てきた。雲が流れていき、庭に影が生まれる。結乃の横顔がはっきり見えるようになる。
ほの白く見える結乃の横顔は、いつになく艶っぽさを持っていた。
「もうすぐ二学期ね」
「夏休みもあっという間だったな」
「これからも、見せつけない程度に仲良くしていこうね」
「そうだな。でも、十月には文化祭あるだろ。そこだけは一緒に回りたいな」
「その頃にはみんな知ってそうよね。大丈夫かな」
「恐れずにいこう」
「うん」
しばらくお互いに黙った。虫の声が遠い。
結乃が麦茶のコップを持って、一口飲む。ほぅ……と吐息がこぼれる。
俺は、びんずるの日から感じていた使命を、今こそ果たすべきではないかと思っていた。彼女の吐息が、その思いを加速させた。
ここまで、慎重になったり積極的になったりを繰り返して、俺は結乃との仲を深めてきた。
今は、結乃の方が前を行っている。俺にできないことをやってのけたから。
俺も勇気を出したい。
結乃にあらためて並びたい。
「……結乃」
「どうしたの?」
「その、今の俺の気持ちなんだが」
くそっ、肝心なところで言葉がおかしくなっている。
「風雅の気持ち?」
「あのさ……キス、したいな……って」
結乃は驚かなかった。いつもの大きな反応はなくて、ただ小首をかしげただけ。
「言ってくれたね」
「え?」
「こうやってたら、風雅から言ってくれるかなって思ったの」
「……」
やっぱり、俺は結乃の手のひらの上なのか。
でも、結乃は待っていたみたいだった。俺はその期待を裏切らなかった。そう前向きにとらえてもいいだろうか。
俺はそっと、結乃の肩に触れた。
左手で抱き寄せて、顔を近づける。
「いいか、結乃」
「うん……来て」
結乃が少し上を向いた。目を閉じている。
俺はゆっくり体を傾け、自分の唇を、結乃の唇に重ねた。
温かい。
優しさに包まれているようだった。
唇を合わせるというだけのことで、ここまで胸いっぱいに幸せが広がる。
「んっ……」
結乃のこぼす吐息が、俺をさらに熱くさせる。
でも、強くなりすぎてはいけない。
俺は無理に前に出ず、ただじっと、心が満たされるに任せた。
やがて少し、息が苦しくなった。
俺は顔を離す。
結乃が目を開けた。
「……とうとうやっちゃった」
結乃は恥ずかしそうに笑って、右手で唇に触れた。
「風雅、勇気出してくれてありがとう」
「結乃……」
そこで、ありがとうと言ってくれるのか。
あらためて感じた。
鏑木結乃は、優しくて強いと。
「今日のこと、絶対に忘れないから」
「俺だって。いつになっても覚えてるさ」
「言ったわね。忘れたら許さないから」
「ああ、俺を信じろ」
俺たちは肩を寄せ合って、降り注ぐ月光に包まれていた。
これが、夏休み最後で、最大の思い出。
〈第一部・終→→→第二部へ続く〉
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