16.「移籍」
*
寒さが増してきたある日、臨時休戦日なるものがあった。
若い兵の提案で豚汁を作ることになり、各自好きな具を中に入れていくが、景子が餅を入れたところでたすくが吠えた。
「てめぇ、なんで餅入れんだよ! 豚汁だろ!」
「そうですね」
「だから入れんなって! つか、それいつのだ?」
「去年の末に作ったやつです」
「一年前か! 大丈夫かよ?」
慌てて中を探るが、どこにあるかわからなくなっていた。
仕方なしにと諦め、出来上がった豚汁をそれぞれの椀に入れて円を組んで座る。
「餅ってカロリーたけぇよな?」
汁に箸を入れながら呟くたすくを、景子が睨みつける。
「なにか問題でも?」
「お前に言ったんじゃねーよ、ハチコロ」
「……ハチコロとは私のことですか? その心は?」
「渋谷にある犬の像」
「……景子ちゃん、朝季に対して忠実だもんね。なるほど、たすく君のサルとかけて(忠)犬猿の仲……うまい」
「呑気に解説してんじゃねーぞ、凪。お前に言ったんだぞ」
「私? ……太ってないよ!」
「わかってるよ、逆だ。太れ、もっと」
「ちょっとサル、失礼ですよ? 凪の胸元が洗濯板だとでも言いたいんですか?」
「んなこと言ってねーよ! 割り込んでくるな、景子」
相変わらずの口喧嘩を始めるたすくと景子。
その傍らで凪は自分の胸元を見つめ、耳を赤くしていた。
「そういえば修二は?」
しかしたすくに声をかけられ、顔を上げる。
「どうして私に聞くの?」
「ペアだろ、お前ら」
「ペアって言わないで! 先輩なら、彼女とデートしてくるって」
「デート? 馬鹿なことやってんな、あいつ」
ため息をついて立ち上がろうとするたすくだったが、場の空気が変わったことで腰が浮かなかった。
周囲の視線を追って振り返ると、たすくのすぐ後ろに朝季が立っていた。
「うわっ、朝季おまえ、戦闘時間外は普通にしろよ!」
足音がしないのはいつものこと、気配を悟られない今の状態こそが朝季の通常なのだが。
「あぁ、ごめん」
とりあえず謝罪の言葉を述べて円陣の中に入る朝季に、
「お疲れさまです、朝季隊長」
「健診終わったんですか?」
「あぁ、次たすく……いや、お前、なにのんびりしてんだよ」
「今立ち上がろうとしてたんだよ! すぐ行く」
「たすくさん、遅刻っすね」
「うるせーよ!」
笑声が起こって、凪も周りと共に微笑む。
その間に景子が豚汁を注ぎ、箸と共に朝季に差し出した。
「なにこれ?」
「みんなで豚汁作りました」
「へぇ、ありがとう」
礼を言って受け取る朝季に、景子が嬉しそうに尻尾を振る。
「景子ちゃん、本当に忠犬だね」
凪の言葉に朝季が首を傾げると、凪の隣にいた別の
「景子さんが犬で、たすくさんがサルらしいです」
「犬と猿? あぁ、犬猿の仲ってことか。へぇー、異獣間交流だな」
途端、景子の纏う空気が黒いものに変わり、周りの
朝季はそれに気付かず、地面に腰を落として椀の中を覗き込む。
「……豚汁って餅入れるっけ?」
「朝季のやつ入ってた? ラッキーだね、溶けてどこにいったかわからなくなってたんだよ」
「……この餅、いつのやつ?」
土色の液体に浮かぶ白い物体を凝視したまま、朝季が呟く。
その言葉に、全員の手が止まった。
静寂を破ったのは、ただ一人表情を変えなかった景子だった。
「みんなで作ったやつです、去年の末に」
「去年のは年明けに全部食ったろ。これどこにあった?」
「調理場の棚の上にありました」
「いつのかわからないほど前ってことか、腐ってるな」
パチンと地面に椀と箸を置く朝季。辺りを見渡すと、全員が朝季を見つめていた。
青白い顔をして、助けを懇願するように。
「そんな顔するなら、最初から食うなよ……EMPで消化器詳しいやつ」
「そんなやついませんよ、俺らEMP、外傷専門なんで」
「凪、田舎の学校で」
「ふぁぁぁあ! 私に振らないで! 田舎の学校で食中毒の対処とか習わない!」
「……ここにいる全員、明日、非番に変えとこうか?」
誰も返事はしなかった。
鍋を囲んで静まり返る円陣。
空になった椀、完食した豚汁と消費期限不明の餅。
ただ一人、景子だけが淡々と自分の豚汁を食していた。
「だからお前、食うなって」
「大丈夫です、私、適性的に毒の耐性あるので。てことで、同じ適性を持つ私の班の方々、今日の夜ご飯は鍋の残り汁です」
悲鳴に似た叫び声が聞こえた。
その後、豚汁を成分分析してみたが詳細はわからなかった。「たぶん大丈夫」と発言した分析系
朝季に至っては「景子より俺の方が耐性あると思うから、食中毒に関しては知らないけど」との理由で付き合っていて。
やはり優しい、と凪は感心した。
たすくの次は凪が健診を受ける番だった。
胃の辺りを摩りながら廊下を歩いていた時ちょうど、検査を終えたたすくとすれ違った。
「なぁ、凪」
すれ違い様に声をかけられ、凪は不思議そうに振り返る。
「俺たぶん、南域に戻る」
「南域? そっか、たすく君はもともと南域部隊所属だもんね」
「来月半ばから南で戦闘再開するって、三次から聞かなかったか? お前ら、よく会ってるだろ?」
「三次くん、情報管理に対しては厳しいから……」
「確かにな。なぁ、お前、南こねぇ?」
「え?」
「EMP部隊も編成される。人選始まる前に立候補すれば……なんだよ、その顔」
「え? あ、ごめん、なんかビックリして」
「あー、そりゃそうか。つーか時間ねぇんだったな、引き止めて悪りぃ」
片手を振り、凪に背を向けるたすく。その背中が見えなくなるまで見送り、凪は踵を翻した。
「南域か、三次くんの部隊……そっか、今度から昼間も会えるんだ。髪切ってから行こうかな」
長い髪を手櫛で解し、凪は足を踏み出した。
自分の言葉にはっとしたのは、健診室のドアを開ける直前だった。
*
「却下」
南域戦闘再開が公になり移籍を朝季に懇願しに行くと、秒で否定された。
「EMP部隊も派遣されるけど、それが凪である必要はない」
「……紅一点になる、とか」
「余計却下。なにしに行くつもりだよ、それ」
朝季は嘆息し壁にもたれかかった。
廊下で話しかけたのが悪かったのかもしれない。通り過ぎる
そのせいで話が途切れ途切れになってしまった。
「正直、そんな危険な場所に行かせたくないってのが本音」
「危険な場所?」
「南域部隊はしばらく機能してなくて、隊長を務める予定の三次も前線からしばらく離れてた……というか、あいつ、前線に行ったことないし」
「でも実力はある。強いって聞いたよ?」
「三次が強いのはそう思うけど……俺は凪を、守りたいって思ってるから」
「……私は、朝季と同じ戦場に立ちたい」
「立ってるだろ? EMPとして背後にいてくれて、有り難いって思ってる」
「そうじゃなくて、背後じゃなくて同じ場所に……」
「いいわね、それ」
突然の陽気な声に振り向くと、朝季の隣に冬那が立っていた。
「なにしてんだよ、冬那」
「別の用事あってたまたま通りかかったんだけど、面白い話聞こえたから」
「……たまたま」
怪訝な顔をする朝季と、ぺこりと頭を下げる凪。冬那は「畏まらなくていいよー」と陽気に笑った。
凪が東京入りして半年経つが、未だに冬那のことは雲の上のような存在、掴み所のない女性だった。
「いいよっ、凪ちゃんの南域部隊移籍登録しとくね!」
「おい、冬那」
一つわかっているのは、こんなことをポンッと決定出来る権力を持っているということ。
「南って北より東との距離が長いから、救命センターに引き渡すまで時間ロスがあるのよね。凪ちゃん、現場到着速いし処置も適切らしいわね」
「処置が良いのは後方待機だからだ。前線だと自分の身を守る必要もあるから、話が変わってくる」
「じゃあ尚更、経験積むべきよ。北域にいたらどっかの過保護な上司のせいで技術磨けないしね。あ、どっかの過保護な上司って今私の目の前にいるけど」
「遠回しな言い方せずに、俺って言えよ」
「可愛い子には旅をさせよって諺……朝季は知らないか」
「馬鹿にすんなって。それくらい知ってる、けど」
「じゃあ側目って知ってる?」
「は? ソバメ?」
「側面の目、第三者の目って感じかな?」
笑みを絶やさない冬那の意図がわからず、朝季と凪は首を傾げる。
その時、遠くで足音が響いた。
「朝季は頑固だからね、第三者に聞いてみましょう。誰の意見が最良かって」
廊下の先にいる足音の正体、二十歳前後の新入兵に目線を向けながら冬那が言った。
近づく足音。
眉間に皺を寄せた朝季だが、観念したように壁から背中を外す。
「凪と二人で、話したい」
ぺこりと頭を下げた新入兵が通り過ぎる。
朝季が目を逸らし気付かないふりをしたので、辞儀を返したのは凪だけだった。
「俺が自分でなんとかするから……少しの間、二人にさせてくれ」
「そうよね、二人きりがいいわよね。お邪魔してごめんね!」
「……つっこみ入れたほうがいいか?」
「お構いなく、お邪魔虫は退散するから! じゃあ後は若いお二人で。あ、私のほうが若いか、心の年齢的に!」
きゃははは、と笑いながら、冬那は通り過ぎた新兵の後を追った。
その姿が見えなくなったところで、朝季は凪に目を向ける。
「南に行きたい理由って、そこに三次がいるから?」
「え?」
「三次に会いたいから、南に行きたいんだよな?」
違う、と言おうとして、だけど理由は言えなくて、凪は口を噤んだ。
『朝季のために、朝季に追いつきたくて、強くなりたいから』
その言葉に対する彼の返答は、聞かなくてもわかっている。それなら誤解されたままでも、彼が許可してくれるなら勘違いしたままでいいかもしれない、と。
「それが正解? 三次のところへ行きたいってのが、理由?」
答えられないでいると、朝季がため息をついた。
掌で顔面を押さえ、ゆっくりと、感情すらも吐き出すように。
「いいよ、許可する」
「……え? 本当に?」
「夜になるけど、書面で上に送っとく」
「あ、仕事増やしてごめん」
「そんなの別に……そこじゃなくて」
はぁーっと再度のため息をつく朝季。
凪は居た堪れなさを感じたが、逃げ出すなんてことは考えずじっと朝季を見つめていた。
「ちゃんと考えた?」
「え? あ、うん」
「俺には、突発的に行動してるように見えるけど」
「そんなことは……」
「なにかを成すときに、突発的に行動するのはよくない。考えるより先に動け、なんて言葉があるけど俺は、時間が許す限りしっかり考えるべきだと思う。そうじゃないと絶対、後悔することになるし、考えることをやめたらそれはもう、人間じゃないから」
「……うん」
「……こういう話するところが、先生っぽい?」
俯いていた凪が顔を上げると、笑みを浮かべる朝季の顔があった。
くしゃっと、凪の頭に手を当てて髪をかき乱す。
「交わらないな、俺と凪は。最初からそうだった、目があったと思ったらすぐに逃げ出されて、今だってそうだ。俺が大事にしよう守ろうって鳥かご作っても、そこに収まってくれない。それで結局、最後は離れるんだな」
「……ごめん」
「怒ってるわけじゃない。本当に交わらないな、俺と凪は。ずっと微妙な距離を保ってる。北の白羽織、たすくからもらったよな?」
「あ、返さなきゃいけないよね?」
「持ってていいよ。使わないだろうけど、北域部隊のもあげるから。凪には白がよく似合う」
朝季は凪の頭に手を乗せ、そっと撫でる。
顔をあげようとしたが、朝季の手の力が強くて叶わなかった。
「楽しかった。ありがとう、凪」
耳元で囁く声。
懐かしさを覚えた凪は、コクンと一度頷いた。
「ありがとう」と返したつもりだったが声が出なくて、結局伝えることが出来なかった。
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