第218話 今川彦五郎の元服

1537年(天文6年)3月


 - 京 山城(京都南部) 施薬不動院 -


 後詰めとして駿河(静岡中部から北東部)を出撃した太原崇孚さんは、遠江(静岡大井川以西)掛川城を包囲していた斯波軍を急襲しこれを撃退すると、一気に曳馬城まで進撃。曳馬城を囲んでいた斯波軍も簡単に蹴散らした。

 しかも曳馬城での戦いでは斯波軍を指揮していた斯波義統の従叔父である斯波義虎を捕縛するという大手柄を挙げる。

 斯波軍が敗北した原因は、二俣城での戦いと同じだ。自軍の損耗を嫌って、城将が降伏するまで積極的に攻撃を行わず、ゆるりと城を包囲していたところに、予想もしなかった方向から太原崇孚さんが率いる今川軍に攻撃されて裏崩れして敗走。

 そのため二俣城以外の斯波軍の討伐には半月もかからなかった。そのため東海地方では、尾張兵は弱兵という風評が広がっているらしい。

 もっとも、尾張兵のことを弁護するなら、いま尾張(愛知西部)は、西と東の交易の中継地点としてかなり潤っている。なので、遠江(静岡大井川以西)を攻めた時の兵は、金で雇える傭兵が中心だった。そして傭兵の大半は、近江(滋賀)で毛利氏に敗北し、新たな職場を求めて逃げてきた六角氏や浅井氏の敗残兵が中心。故に、敵があまり攻撃してこなかったうちはイケイケドンドンだったが、本格的な攻撃を受けた途端に「命大事とても大事」の行動を取ったのだ。

 そして唯一奮戦したのが、今川彦五郎くんの策によって食料の乏しい二俣城に閉じ込められた斯波軍の残存してた兵の数からの推測された約1,500人。(推定怖い話)

 20日間ほど籠城した結果、100人ほどが戦死し、600人ほどが結果的に餓死したそうだ。

 開城したときやつれてはいるが痩せていない斯波義統と、地獄の餓鬼のように土色の顔に痩せこけた斯波軍兵士を見た今川氏の兵士が、斯波義統を餓鬼の大将「餓将」と呼び忌み嫌っているという。


「縄で縛られた斯波義虎を城の前に立たせて降伏勧告を行い、それでようやく斯波義統は二俣城を明け渡しました。ただそのせいで今川氏虎に今川館を奪われましたが・・・」


 面目ないといった顔で目の前に座る今川彦五郎くんは笑う。そう。今現在の東海地方の情勢を報告したのは、初陣の二俣城の戦いで見事に斯波義統と斯波義虎を捕縛した若き英雄さま。

 これは、農繁期に入ったことで遠江(静岡大井川以西)に対し周辺勢力から大規模な軍事行動が仕掛けられなくなったと判断した太原崇孚さんによる指示だ。

 目的は、斯波氏から毟り取った身代金の一部、300貫文程を朝廷に寄付すること。そして先代当主の今川氏輝さんや太原崇孚さんとの知己がある俺に直接会うこと。

 特に俺に会うのは、今川氏虎の「武田が後ろにいます」という匂わせではなく、今川彦五郎くんの後ろには俺が、毛利がいるという明確な意思表示をするため。まあ、こっちが言い触らさなくても周りは勝手にそう思うだろう。


「失礼致します」


 すっと襖が開き、戸次鑑近くんが部屋に入ってくる。


「首領が提案した策ですが、二つとも通りました。官位については、御屋形様も口添えして貰えるそうです」


 戸次鑑近くんは懐から二通の書状を取り出し俺に差し出す。俺は、書状に元就さま、立法の長である桂広澄さん、行政の長である井原元師さん、司法の長である相合元綱さん、外交の長である口羽広良さん、軍部の長である渡辺勝さんの花押が書かれていることを確認する。


「あの、施薬大輔殿。一体何を・・・」


 今川彦五郎くんは、何か悪い予感がしたのか、恐る恐る聞いてくる。


「朝廷は献金した返礼について、官位で報いようという話ですよ、治部少輔・・・・殿」


 怯える今川彦五郎くんに、俺は最高の笑顔を見せる。

 今回俺が謀ったのは、朝廷から今川彦五郎くんに官位を与えてもらうこと。今の毛利なら、当主争いに敗れた側の人間に従五位下治部少輔を与えるよう口添えできる立場にあるからね。


「あともうひとつ。初陣で大勝した治部少輔殿に、この畝方から偏諱「元」の字を贈ります。今後は「元親」と名乗ってください」


「ひっ」


 俺からの贈り物に、今川彦五郎くんの口から変な声が漏れる。なお、偏諱に「元」の字を贈ることは既に了承済みである。


「何故ここまでの事をしてくれるのか?という疑問の答えは、治部少輔殿が腰に佩いていた刀にあります」


「刀?」


 今川彦五郎くんは、俺の部屋に通されたときに預けた刀のことを思い出す。


「実はあの刀、この畝方が用意し、毛利から今川の先々代当主である今川氏親修理大夫殿に贈ったものです」


 俺の説明に、今川彦五郎くんは顔を歪める。


「折に触れての挨拶に太原殿との付き合い。知らぬ仲ではないのです。肩入れするには十分な理由かと」


 その言葉に今川彦五郎くんの涙腺が決壊した。


 1537年(天文6年)4月。今川彦五郎くんは俺を烏帽子親に武士として正式に元服。今川治部少輔元親を名乗ることになった。

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