第57話石見(島根西部)の平定
1524年(大永4年)1月
- 石見(島根西部)-
「かかれ!」
益田宗兼軍4000に対し、矢筈城の城代である本城清光の命令のもと、佐波秀連、小笠原長隆、桂広澄が率いる兵2000が襲い掛かる。すでに琵琶甲城と矢滝城を攻撃していた友軍の福屋・周布軍は全滅しており、援軍の当てはない。益田軍が潰走するのにさほど時間はかからなかった。
東と南から敵が来ないことが確定した尼子・毛利連合軍は、撤退する益田軍の追撃を開始した。矢筈城の防衛に参加した桂・佐波軍は矢滝城から後詰めに来た司箭院興仙の軍と合流すると兵1100を率いて福屋氏の本拠地である本明城。つぎに周布氏の周布城に攻め込む。
頭領である福屋正兼と周布武兼がすでに捕縛されていたので、このふたつの城の開城交渉はスムーズに行われ、福屋領、周布領内の城代たちも次々と降伏していく。また三隈城の三隅隆兼が毛利に使者を送って来て毛利に従属。本拠地までの退路を完全に断たれた益田宗兼は下府川付近で討ち取られた。
1524年(大永4年)2月
毛利・尼子軍の快進撃を受け、石見本城の高橋氏でお家騒動が起きた。頭領である高橋興光が父の高橋弘厚もろとも叔父である高橋盛光に討たれたのだ。高橋盛光は高橋興光の首を持って毛利に謁見を申し込んだが、高橋興光と和議を結んだばかりの毛利が謀略を疑われるこのタイミングで高橋盛光に会うはずもなく、高橋盛光は失意のうちに本城に帰ったという。
そしてこの騒動を二ツ山城の出羽祐盛が見逃すはずもなく、程なく石見本城は攻め込まれた。高橋盛光は討死し、石見本城は炎上。高橋領の西半分の城の城代は出羽祐盛に降伏し東半分の城の城代は琵琶甲城の口羽広良を通じて毛利に庇護を要請。毛利はこれを受諾した。
また西伯耆(鳥取西部)に出陣していた尼子経久の軍が倉吉、岩倉城、堤城、羽衣石城を攻略。西伯耆を完全に支配下に収めることに成功した。
SIDE 主人公
1524年(大永4年)3月
益田宗兼を討った本城・小笠原軍は、2月に桂・佐波・司箭院・三隈軍と合流すると、益田氏の本拠地である七尾城を兵6000を持って包囲していた。
「なんか怒涛のような3カ月じゃったのぉ・・・」
司箭院興仙さんが俺の入れたツバキ茶を啜りながら韜晦する。いや、まあ判るけどね。今回の親大内派の国人による大遠征の失敗は、ふたつの城に奇襲を試みるため接敵を恐れ、琵琶甲城より南の山岳地帯を大回りしたことだろう。
そこから琵琶甲城と矢滝城の間に入り情報を遮断して、補給地点を築いたまでは良かったんだけど、早々にバレて焼き討ちを敢行され補給が絶たれた。
それに対してと言うほどでもないけど、反攻戦を行うにあたり俺は本城清光さんにお願いして時間は少々かかっても日本海側の主要な港を押さえて進軍して貰った。
あとはテスト航海を無事に終えて安芸(広島)厳島にいた
それを知った司箭院興仙さんが、輸送のついでに
「なぁ欧仙。4番艦はいつごろ出来るかね?」
俺の正体をなんとなく察し、それからはちょくちょくと俺の知識を引き出していた司箭院興仙さんは、いつしか俺を
「ああ、あれは建造途中の2番艦が興仙の設計を取り入れて、正式に戦闘艦の1番艦になったよ。」
人目のない所では、お互いを呼ぶときは呼び捨てとなった司箭院興仙さんは、それを聞いてにやりと笑う。バリスタの性能を知った司箭院興仙さんが、
ちなみに新造の1番艦は、艦首には
それから数度の攻城戦の末、七尾城は陥落した。陥落に際し、城に籠っていた益田宗兼の父益田貞兼は自刃。益田宗兼の子供である益田尹兼と益田兼任は周防へと落ち延びていった。後日、大内氏の重臣である陶興房が、姪である益田宗兼の妻の引き取りを打診してきたので、元就さまは大内氏との関係がこれ以上拗れることを懸念し益田宗兼の妻は周防に送り届けられることになる。これにより、石見最西端にある津和野城の吉見頼興以外の親大内派は石見から叩き出された。
即日、元就さまから七尾城の大規模改修の命が下り、周囲の城が資材として破却され大規模な工事が始まった。これにより山陰の出雲(島根東部)・東石見に毛利・尼子による一大生産拠点が誕生したことになる。
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