8章 賢人と魔女

32 決められない岐路

 結局私はケイトに何も良い言葉をかけることが出来ずに部屋から出た。


「あ……リュシアンさんとクリスさんの様子を見に行かないと」


 ほとんどぼんやりとした頭でぼやくように呟く。心は虚なのに頭だけ妙に働いて自分の事なのに何をしているのかわからない。共同スペースに行けばいいのか、それとももう2人とも別の場所に移動してしまったか。何もわからないままのろのろと歩みを進める。


 とりあえずキャッツアイの部屋に戻ったほうがいいのかなと考え、穂先をそちらに定める。最近こうして1人でいる時は頭の中に霧がかかったようにぼんやりとしてしまう。


 そうだ……アベルと戦った後、あの時もこうして思考がうまくまとまらなかったのだ。絶対に危ない仕事だしもう辞めてしまおうと思い、辞職届を出そうと紙とペンを取り出したところまでは良かったのだがその後だった。


 急にこの仕事をやめようとする気すらストンと抜け落ちて如何にもこうにも筆が進まなくなったのだ。その後も何度か辞職届を書こうとしたり亜美に直接辞めたいと言おうとしたことがあるが、その時も頭に霧がかかったようになり何も言葉が浮かばなくなったのだ。


 あの嫌な、自分の意思とは関係なく考えが急に断絶されるような感覚はなんだろう。


 まるでゾンビのようにふらふらと、とにかくキャッツアイの部屋に帰らないといけない、そんな考えに支配された頭で歩みを進める。


「あ……」


 思わず声が漏れ出た。


 3階に上がる階段へ向かう途中の廊下。窓の光も差さない薄暗いそこに彼は立っていた。


「アベルさん……」


 帰りが遅かったから迎えに来たのだろうかそれにしては表情が硬いような。


「部屋に、あー、キャッツアイの、部屋に戻るつもりだろう? その前に、夏八木さんと、少し話を、キャッツアイのことについてだが」


 少し影のある表情すら美しく見えるのは彼が最初に会った時まるで天から舞い降りたような翼をたたえていたからだろうか。どこか彫像めいた、ぽっかりと表情が抜けたような顔のままアベルは私の無言を肯定ととったのか話を続ける。


「俺が、まだ生きていた頃、警察を、していたのだか……キャッツアイはその当時はミシェル・マールブランシュと名乗っていた」


「マールブランシュ?」


 その名前には聞き覚えがあった。


 三輪廃ビルに一緒に行ったカテリシカ。彼のフルネームは確か“カテリシカ・マールブランシュ”だったはずだ。でも案外多い名字なのかもしれないと一瞬よぎった嫌な予感を頭から振り払う。


「夏八木さんは、キャッツアイがどれほど、恐ろしい魔女なのかを、理解していない」


 そこまで言われたところでふとした違和感に気がつく。確かアベルはキャッツアイに最初に話しかけた時はネリネと呼んでいなかったか?


「ミシェル・マールブランシュ……ミシェル? アベルさんは最初ネリネと呼んでいましたよね……?その、ネリネというのは愛称で本名がミシェルということですか?」


 思わずアベルの言葉を何度も反芻してから尋ねる。私のその質問にアベルはゆっくりとだが首を傾げる。


 ただ質問の意図がわからないという顔ではなく、どう説明したらいいものかと悩むような顔だった。


「そうだな……どこから、説明するのがいいのだろうか。彼女は……俺やクリスが出会った時から、もう人ではなかった」


 アベルの説明は薄暗い廊下に朗々と響く。それを私はどこか後ろめたいような気持ちで聴いていた。




 フランスで彼らは嫌な知り合い方をした。


 その時アベルとクリストファーは警察としてルーアンという教会の多い街で働いていたそうだ。そこで記憶に残る嫌な事件が起きた。


 1895年ミシェルの養父による絞殺死体遺棄未遂事件。わずか16歳の娘であったミシェルをレイプした上でロープで首を絞め、意識不明になった彼女を庭に埋めようとしたというなんとも胸糞の悪くなる事件だ。


 しかしこの事件を調べるとミシェルが8歳の時に巻き込まれたとされる実父及び実母の変死事件が浮かび上がってきた。


 それは1887年。おおよそ人が手を下したとはにわかには思えない死に方を彼らはしていた。その残虐で悲惨な、ある程度の場数を踏んだ警察でさえ立ち入ることを躊躇した現場に幼いミシェルはいた。少女はまるで足元の死体が存在しないかのように妙にませた振る舞いで警察を現場の隅から隅まで案内したという。


 そのあまりの異様さに一時はミシェルこそが犯人だという声すら上がったが、死体の状況から8歳の少女には不可能であるという判断が下った。


 それだけならまだ二度も陰惨な事件に巻き込まれ、不幸な少女だと思われたかもしれない。しかしそれから更に8年後の1903年。ミシェルの名前は再び新聞紙に掲載されてた。


 その事件も異質そのものでまるで彼女が8歳の時に巻き込まれた事件の再現のようなものだった。


 ミシェルは生きたまま内臓を腐ったものに突然入れ替えられた状態で発見された。体は干からび、口からは異臭のする吐瀉物を垂れ流して美人だった風貌が全くわからない状態だったという。


 そして何よりその事件の異質さを強調させたのは現場である自宅に1人残されていたミシェルの娘、ネリネの立ち振る舞いだった。それはまるで1887年のミシェルの両親が変死した事件の時にミシェルが警察にした振る舞いと同じものだったのだ。


 当時その事件を担当していたアベルとクリストファーは過去の事件も調べていた為、彼らだけがネリネの異常性がミシェルと同一ものであると気づけた。いや、気付いてしまったというのが正しいのかもしれない。


 2人はネリネを普通の子供扱いはせずに大人にする尋問を行った。そしてその時クリストファーがネリネに対して魔女だと言い放った時に彼女の態度は急変した。いつから気付いていたか、誰に教えてもらったのかとさも愉快そうにひとしきり笑うと一言「でも法では裁けないでしょう?」と勝ち誇ったような笑みを浮かべて言ったという。




「その後、ネリネ……いや、キャッツアイから聞いたのだが、彼女は娘を産むことで魂を分割し、死ぬことによって、その娘に魂を元の形に戻し、完全なる死を、克服しているのだという……。正直、にわかには信じられない、話だったが、彼女が何世紀も前の出来事を詳細に、見てきたかのように話されたから、信じるしかなかった」


 アベルはそこで大きくため息をつく。カルトじみていた、とルキウスは言っていたが宗教を信じる者には魔女という存在は受け入れ難いのかもしれない。しんと急に静まり返った廊下はもう夏が近いというのに妙な肌寒さを覚える。


 アベルの口が何かを言おうと開いては閉じるのを何度か繰り返しているのを、私はどこか他人事のような目で見ていた。


 きっと彼は何か私にとって重大なことを伝えようとここに来ているのだろう。そのことはわかるのだが、どうしてだか頭に霧がかかったような感覚に襲われていく。アベルの話を聞いたほうがいいというのは彼の深刻そうな顔を見たらわかる。それでも何故か自分の意思とはどこか違うところでそんな話は聞かずにキャッツアイの待つ部屋に戻ろうと足が勝手に動こうとする。


 この感覚に私はデジャブを覚えた。そうだ、退職届を書こうとした時もこんなふうに。そこまで考えが至ったところでついに決心がついたのかアベルが重々しい口を開く。


「夏八木さん、君は魔女の術中に囚われている」

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