「人の役に立つ」「人を喜ばせる」といった言葉に未だに馴染めない理由

「人の役に立つ」、ちょっと意味合いを強めたら「世のため人のため」。

 なんとなく「お国のために」を連想してしまって違和感がある。



 こんなひねくれた受け取り方をするのは私が対人恐怖症だからである。

 私が人の役に立つ、人を喜ばせる場面があるとすれば、大抵それは私が何かを我慢しているときだ。


 何度も書いた覚えのあるエピソードだけれど、私はドッジボールが苦手なのに小学校や中学校の生徒たちはやたらとドッジボールが好きだった。お楽しみ会や時間が余ったときなど事ある毎にドッジボールを推薦する。


 こういうとき、私が「人の役に立つ」「人を喜ばせる」選択は、私の「嫌」を抑えてみんなの楽しみのために我慢することだろう。



 ドッジボールに限ったことではない。大抵人の喜ぶことというのは私の苦手なことなのだ。だから「人の役に立つ」「人を喜ばせる」という言葉が嫌いなのである。



 そりゃ、私もひどいヤツだし、性格を変えた方が良いのかなとは思っている。

 たとえばバスに乗るとき、よく重い荷物を持ったお婆さんがバスに乗ろうとして上りにくそうにしているのに手伝わない。



 なぜ手伝わないかというと、まず対人恐怖症で人に話しかけるのが怖いからだ。怒られたらどうしようとか、何て言ったらいいんだろうとかビクビクしてしまう。


 次に私は動作がトロく、人から「遅い!」といった注意をよく受ける。私がモタモタ手伝ったりして、余計に時間がかかりバスが出発できないような事になったらどうするのか。


 最後に私は不注意でよく物を落とす、壊す。吹奏楽部のときはクラリネットを落としたし、他にもハサミを使っていたら急にパキッと持ち手が割れて壊れたこともあった。他にも備品を壊した覚えがある。


 お婆さんの荷物を落として道にぶちまけたらどうするのか? シルバーカー(?)を持ち上げた途端壊れたらどうすればいいのか? そんなことを考えると冷や汗が止まらない。



 ……と、こんな調子なので、「気安く『人の役に立て』とか『人を喜ばせろ』とか言わないでよ!」と思ったりもするのだ。



 それに……人の役に立たないとお金がもらえない、つまり人の役に立つことをしないと生きられないというシステムもなんだか怖い。



 ペットとして人気があるといった理由で可愛い動物が密猟されていたり、漢方薬にするためにサイが殺されたり、象が象牙を取られて死んでいたり……

 そういった問題がなぜなくならないか? なぜお金になるか? というと、それは「誰かが喜んで買うから」つまり「人の役に立つから」だろう。


 私が虫の命を救ったところでお金にはならない。

 木を切ることを阻止したところでお金にはならない。

 でも珍しい虫を捕まえて売り、木を切って売ればお金になるとしたら売るかもしれない。



 金、金と言いたくないとは思う。でも金がないと生きられないシステムになっているじゃないか。仮に生き物を喜ばせたとしても生き物からお金は貰えないだろう。お金は人間が意味を見出すことをしないと受け取れない。



 だからなぁ……。「人の役に立つ」「人を喜ばせる」が軸である限り、環境破壊は止まらないんじゃないだろうか。「人の役に立つ」「人を喜ばせる」ことだけを目指していていいのか? と思う。


 大金を得た代わりに地球がぶっ壊れたら元も子もない。お金なんてのは人間が勝手に意味を付けて使っているだけであって、自然のサイクルには関係ないだろう。生物が滅亡するほどの大パニックが起これば、お金を持っていたってきっと意味ない。



 でも私は物臭だから、結局「人の役に立つ」「人を喜ばせる」に乗り気じゃないのは人の役に立ったり喜ばせたりするパワーがないだけだと思う。


 それを世界のせいにするなんて卑怯だなぁ。

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