第141話 閑話 ヨシュア追放後のルーデル公国 61日目
聖女は祈る。
生きとし生ける者の安寧を願い。
彼女に託された役目は、祈ることだけであった。
神託に従い、政務という名の署名を行なっているものの、彼女が何かを判断することはない。彼女が自ら何かを決めているように見える時は、全て神託の下知だった。
ヨシュアを公国から追放したのも神託のよるべに従ったまで。そこに彼女の意思はない。
決めるのは神、彼女は神の言葉を伝える。そこに誰かの意思が介在してはならないのだ。もちろん彼女自身の意思も。
聖女に個人的感情があってはならない。だが、胸が締め付けられるような夜を過ごすこともある。
そんな時、いつも彼女の頭の中にいるのは、涼し気な笑みを浮かべるあの人の顔……。
これではいけないと思えば思うほど、彼女の胸は締め付けられた。
苦しい夜に決まって彼女は教会に向かい、朝までずっと祈りを捧げるのだ。
全ては神の元に。全ては神の……。
だが神は、政務に関わる所々全てにお言葉を下賜してくれるわけではない。
だからこそ、公国だけでなく聖教を信奉する各国は何かしらの政治管理機関を持つ。
たとえば帝国では「神から俗世の決定権を委託された」として皇帝が全ての権限を保持している。
神に代わって皇帝が官吏を選出し、彼らは皇帝の手足となり政務を執り行うのだ。
一方公国もまたヨシュアに全ての権限が集中していた。彼の手によって、強力な官僚組織ができあがる。
他国と異なるのは、地位と能力の差が非常に少ないことであろうか。
ところが、公国は組織が出来上がった後、制度改革を行った。
衛生局なら衛生局が、農業なら農業が、それぞれが大臣や局長単位で議論を交わし、決めたことをヨシュアにあげる。
ヨシュアは最終決裁をするのみ。
彼は改革後の新制度について「立憲君主制」と呼称していた。
先鋭的な仕組みを取った公国は政務の速度があがり、細かなことに対しても現場が先手先手を打って対応できるようになったのだ。
頭がヨシュアから聖女に変わったとて、トップが決済を行うだけという制度自体は変わっていない。公国の仕組み上、彼女はサインするだけで政務が滞りなく進む……ことになっていた。
あくまで仕組み上は。
制度はともかくとして、実態が異なっていた。大臣たちはヨシュアに事あるごとに頼っていたのだ。
また、ヨシュアが自ら動いて実施したことも数え上げればキリがない。
このままヨシュアの治世が続いていたら、制度と実体の乖離が無くなっていたかもしれない。
しかし、仕組みが成熟する前にヨシュアが追放されてしまった。そのことが、現在の公国における一番の問題である。
公国の官吏たちは一時大混乱に陥ったが、優秀な大臣たちの奮闘もあり立て直すことに一応は成功した。もっとも、ヨシュア追放前までの状態にまでは回復していないが……。
ヨシュアが不在になってからの混乱が収束する兆しを見せていた。
しかし、「神の慈愛」が原因となって、もはや彼らだけでは支えきれない事態になり始めていたのだ。
話は変わるが、聖教を信仰するのは公国だけではない。
公国の北にある帝国。帝国に西にある都市国家連合。帝国より更に北にあるナセル王国。
これらの四か国が聖教を信仰している。
もちろん、聖教を信仰していない国や宗教的中立を守っている国もある。
一つは新興のカンパーランド辺境国。この国は、辺境伯ヨシュアが宗教に対する定めを行っていない。
故に街の中には領民がそれぞれ信仰する神々の神殿や教会を作っていた。
他には公国の東、辺境国から見て北にある部族連合国家レーベンストック。かの国は部族ごとに信じる神が異なる。
また、辺境国に近い体制を持つ国も存在していた。
それは、帝国の東にあるロンギット共和国である。共和国は人間、エルフ、ドワーフが支配者層にいる種族に隔たりが無い国家だ。
それ故、宗教的平等が叫ばれている。
◇◇◇
衛生局は人員を増やし、懸命に作業を続けていた。
オジュロの懐刀ことヘルムートが全体の指揮を執っていたが、疲弊の色がありありと見て取れた。
一方、オジュロといえば、日夜薬の改良に精を出している。
そんな折、グラヌールとバルデスが衛生局を訪れていた。
頭髪が乱れに乱れているが、口髭だけはくるんといつもの調子だったオジュロは血走った目で、彼らを迎え入れる。
奥に通された二人は深々と頭を下げ、グラヌールが代表して口を開いた。
「オジュロ伯。衛生局に多大なる負担をかけ、申し訳ない。各大臣を纏める者がいないため、人員の移動も滞っている」
「そこは、仕方ありませんな。どこも人手が足りないのでしょう」
「市井から集めるにも限界がありましょう」
今度はバルデスが口を挟む。
ところがオジュロはおどけた仕草で人差し指を左右に振り否定する。
「学校から引き抜いております。若手揃いですな」
「薬学に詳しい者を?」
「それもありますが、魔法学を学んでいる学生が主力になっておりますな。オジュロXの生産には魔法が欠かせませんでな」
「ふうむ。国内だけでも薬の生産が精一杯の状況の中、聖教国家にまで……はやはり無茶です」
「であるからして、吾輩がどうにかオジュロXの生産効率化を目指しておるのですが、優秀な助手まで薬の製造に回っていますでな。いや、吾輩だけでも必ずや成し遂げて見せますぞおお」
興奮したオジュロは二人を置いて、研究室へ走って行ってしまった。
残された二人は顔を見合わせ、大きなため息を吐く。
「慈悲問題は深刻です……農業の方はどうですか?」
「綿毛病で一時的に働けなくなった人たちの影響が出ております。早期治療のためにも、各領地に薬を行き渡らせたいところです」
グラヌールの問いかけにバルデスが暗い顔で応じる。
そこでぶんぶんと首を左右にふったバルデスは、無理やり笑顔を浮かべ軽い調子でグラヌールに返す。
「しかし、グラヌール卿。他国へ薬を輸出するとなると大儲けではないですかな?」
「いえ、逆ですよ。国内分さえ確保できない中、同じ聖教を信仰する民として安寧を分かち合おうなんてことは不可能なんです」
「と、申しますと?」
「少ない薬の配分を巡って、却って国家間に緊張が走っております。できれば他国にもそれぞれの国で薬を生産してもらいたいところなのですが……」
「派遣する人員はおらず、派遣されてきたとしてもこの状況ですからな。過剰な酷使で薬を生産し続けるなど無理があるのです」
薬を他国へ輸出するなとまではグラヌールとて考えてはいない。
ただ物事には順序というものがあるのだ。
綿毛病は公国だけでなく、帝国やその他の国にまで広がりを見せている。
病に苦しむ領民を抱える各国に、公国が治療薬を開発し実用化したことが知れ渡るまでに時間はかからなかった。
すぐに公国へ薬の提供を願う各国に対し、公国側には交渉を行える人物が存在しないのが仇になる。
各国から陳情を受けた聖女は「神の名のもとに民の安寧を願います」とだけ告げたのだ。
この言葉を利用しない各国ではなかった。
所謂「慈悲問題」はこうして発生する。公国では何ら準備もできぬままに……。
「辺境でも綿毛病が流行しているのでしょうか」
ふと、グラヌールは敬愛するかつての主人のことを思い出す。
「何をおっしゃるか。オジュロ伯がおらぬとも、ヨシュア様が対策を打てぬはずはないでしょうに」
「確かに、バルデス卿のおっしゃる通りです。ヨシュア様ならば鮮やかに解決してみせるでしょう」
そう、ヨシュア様ならば、慈悲問題であっても軽々と解決してみせるに違いない。
ならば、あのお方の大臣たる我らに何とかできぬはずはないのだ。
グラヌールは心の中で決意を新たにし、バルデスと共に衛生局を辞す。
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