第104話 閑話 ヨシュア追放後のルーデル公国 26日目
兆しはあった。
魔力には川のように流れがある。上流から下流へ川が流れるように、空気中にある魔力も高いところから低いところに動くのだ。
水は高低差によって流れる向きが決まる。魔力もまた魔力密度に依存して動く。
川はしっかりとした大地の上を流れるため、地震などによる大規模な地形変化がない限り、そうそう流れる向きは変わらない。
だが、魔力は違う。
魔力密度を決定する項目は、もちろん地形も含まれているがそれだけではない。木々や動物、モンスターや人間、この世界にあるありとあらゆるものが魔力へ影響を及ぼすのだ。
それ故、ちょっとしたきっかけで魔力の流れは変わる。原因となる要素が多すぎ、魔力の流れの変化を予測することは極めて難しい。
それを知るは神のみである。
そう、兆しはあった。
セコイアのような大魔術師と言われるほどの稀有な魔法的才覚を持った者がつぶさに観察すれば、たとえ微妙な魔力の流れの変化であっても感知することができる。
しかし、小さな変化は数が多すぎ、セコイアの場合、いちいち流れの変化を見ることはなかった。
公国の公都ローゼンハイムにも、魔力的感知能力に優れた者がいる。
その人とは日々神に祈りを捧げ、人々の安寧を願う聖女だ。
彼女は世界の変質……ちょっとした魔力の流れも人々の安寧のためとできる限り拾い上げるようにしていた。
しかし、彼女は感知するだけで今後の魔力密度を予測する、なんてことはしない。
コツコツコツ。
規則的な靴音を立て、聖女は歩く。
彼女が歩くのは大聖堂の渡り廊下だった。
毎日この道を通り、神のおわす祭壇へ向かう。
祭壇の前まできた彼女は、両膝をつき、指先でひし形をきってから胸の前で両手を組む。
大きな目をつぶり、長い睫毛を震わせ、彼女は祈る。
祈りが終わると、魔力の流れ、市井に淀んだ何かがないか探るのだ。
これを繰り返すのが彼女の日常であった。
ヨシュアが辺境へ追放されてからは、書類にサインをする仕事が加わってはいるが、彼女にとって祈ることが全てであることに変わりはない。
「魔力の流れが……」
言葉にした後、聖女は右手で自分の口を塞ぎ小刻みに肩を震わせる。
先ほどの彼女の声……感情が籠っていたのだ。
聖女は自分に向け諭すように心の中で呟く。
アリシア。あなたは聖女になったのです。名を捨て聖女になったのです。聖女は私心を持ってはいけません。神に仕え、人々の安寧を願うのです。
しかし、彼女が心の中で呟けば呟くほど平常心を無くしていく。
一度芽生えてしまった感情の動きはそうそう消えるものではない。
そんな時、彼女はいつも思い出すのだ。
あの人との記憶を。
◇◇◇
聖女とは神託のギフトを持つ無垢な少女である。長い歴史の中で神託のギフトを所持していたのは全て女性だった。
ギフトとは生まれながらに持つ神からの贈り物であることが常なのだが、例外が一つだけある。
それが神託のギフトだった。神託のギフトはギフトの中でも特異中の特異な存在だ。
極々稀にだが、幼少期にギフトを授かる者がいる。更に、神託のギフトは年齢を重ねると突如消失してしまう。
神の寵愛を最も受けた神託のギフトは無垢な少女に与えられる。それ故、神託のギフトを持つ者は20-23歳までの間に神託のギフトを失うのだ。
現聖女アリシアは生まれ持ったギフトに加え、6歳の時に神託のギフトを授かる。ローゼンハイムの小さな宿屋が実家であった彼女は普通の少女として育てられていた。
それが神託のギフトを授かったことで、突如生活は一変する。
教会に引き取られ、聖女としての教育を受けることになった。7年の時が過ぎ、先代の聖女の神託が失われ彼女が聖女となる。
未だ13歳の少女にとって聖女という役目は重荷であったことだろう。しかし、彼女は私心を捨て神託を人々に伝え、立派に聖女としての責務を果たし続ける。
明るい無邪気な幼女は、静粛な神に仕える少女に変わっていた。
誰もが彼女を敬い、恭しく接するのだ。
唯一人の例外を除いて。
その人は、彼女より5歳年上の柔らかい女性的な顔をした青年だったのだ。
彼は彼女より幼いうちから「神から与えられし頭脳」と称えられ、大人に混じって政治を取り仕切っていた。
いや、大人が彼に教えを乞い、彼が指導していたというのが正しい。
アリシアは相手が王だろうが、大貴族だろうが、接し方を変えない。彼女は聖女なのだから。
逆に帝国の皇帝であっても、彼女には恭しく接する。
それが、この青年だけは違った。
彼だけが、彼女のことを名前で呼んだのだ。
アリシア、と。
名を捨てた彼女にとって、ただ名前を呼ばれるだけでも心が動いてしまう。
これはいけない。
彼女は一人誰も見ていないところで、自らを律しふるふると首を振る。何度も何度も。
だが、心地いいのだ。
彼女の感情が叫んでいた。
「アリシア。たまには息を抜くのも大事だぞ」
「アリシア、君も食事か。一緒に食べようか」
アリシア、アリシア、アリシア……。
彼女はそのたびに心が動いた。
嬉しいのだ。この気持ちを抑えることができなかった。
ヨシュア様。わたくしは……いえ、私は……と思いの丈を叫びたくなったことも一度や二度ではない。
彼ならばきっと、弱い私の言葉でも聞いてくださる。
しかし、彼女は耐えた。
自分の想いを胸の奥にしまい込み、聖女とならんと律したのだ。
時が過ぎ、彼は公爵となった。
彼も公爵になってからは、周囲からたしなめられたのか彼女のことを聖女と呼ぶようになる。
名を呼ばれなくなったことで、彼女の動揺も収まり、彼女は以前にも増して聖女として振舞うことができるようになった。
極まれに胸にチクりとした痛みを感じることはあったが……。
◇◇◇
「ヨシュア様……わたくしは……」
神託のギフトが消失すれば、どれほど楽になれるか。
ハッとなり、自分の中に浮かんだ昏い感情を押し殺すように聖女は指先でひし形をきる。
すっといつもの微笑みを湛えた無表情に戻った彼女は再び祈りを捧げ始めた。
しかし、この時はまだ魔力の流れについて神託が下ることは無かったのである。
コツコツコツ。
彼女の元へ靴音が近づいてくる。
きっと書類へサインを求めにきた大臣だろう。
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