第52話 牛乳……な件
ペンギンはぐっすりとお休みだったから、起きたら俺に知らせてもらえるようエリーに頼んでおいた。
さっそく朝食をとり、食後のグアバジュースに口をすぼめていたらルンベルクが顔を出す。
朝の報告会は俺の朝食後しばし経ってからになっていたはずだけど、少し早いな。
食事のお世話をしてくれているアルルはともかく、エリーとバルトロはまだ食堂に来ていないし。
「ルンベルク。みんなが揃うまで少し待っていてもらえるか? 紅茶でも飲んで」
「いえ、会議の件で参ったのではございません。ヨシュア様へ急ぎご連絡がございます」
「そうだったのか。朝からありがとう。何だろう?」
「お客様が訪ねて来ておられます。いかがなさいましょうか?」
こんな朝早くから領民が?
何やら深刻な事態でも起こっているのだろうか。領民が各自持ってきてくれた食材や燃料はまだ余裕があるとルンベルクから報告を受けてはいるけど……。
「すぐに会おう。場合によっては会議を遅らせよう」
「かしこまりました。すぐにお連れいたします」
もし、不測の事態になっていたら事だからな。
特に急ぎの案件でなかったとしても、それはそれで何事も無くてよかったとなる。
しかし、ルンベルクの言葉尻が少し気になるぞ。「連れてきます」じゃなくて、「お連れいたします」か。
ん、そういや。起床時に鳥のさえずり以外に何かの鳴き声が聞こえた気が……。
あの鳴き声、いや、まさかな。
あれは牛の鳴き声で間違いない。
ふんもお。
あの鳴き声を聞くと俺の心がささくれ立つ。
心の中にとあるやり取りが自然と浮かんできた。脳裏に刻まれた酷い思い出が。
『閣下。牛乳です』
『シャル、ちょっと、待……』
『やはり朝は牛乳を飲むことで、一日の仕事を捗らせてくれますね!』
『お、おう?』
『牛乳を飲んで仕事をして、牛乳を飲んで仕事をして、無限に働くことができると思いませんか?』
それは違ううう!
いやーなことを思い出してしまった。
これは何かの前触れかもしれん。
となれば、はやく何とかしないと。
「ま、待て。ルンベルク」
「ルンベルク様。もう出て行かれましたよ?」
嫌な予感が背筋にびびびっときた俺は喘ぐように手を伸ばし、執事の名を呼ぶ。
しかし、コテンと首をかしげたアルルは彼が既にこの場にはいないことを無常にも告げる。
俺の嫌な予感ってのは当たるんだ。
ああああ。普通の領民であってくれ。彼女は領地に帰ったじゃないか。
元気に領地で辣腕を振るっているさ。何ら問題ない。問題な……。
「お待たせいたしました」
早いな!
もうルンベルクが開けっ放しの扉の前で深々と礼を行う。
「通してくれ」
「ハッ! ガーデルマン伯爵令嬢シャルロッテ様、どうぞこちらへ」
ルンベルクがさっと体を引き、どうぞと見事な会釈と共に腕を横に振る。
嫌な予感が的中したあああ!
だらだらと冷や汗が流れ落ち、背中がぐっしょりになってしまう。
気を確かに持つんだ俺。大丈夫、大丈夫だ。今は公国時代とは違う。そうだそうだー。
心の中の小さな俺が声援を送ってくれたけど、まるで気が休まらない。
動揺する俺のことなど露知らず、カツカツカツときびきびした靴音を響かせて件の令嬢がさっそうと姿を見せる。
情熱的な赤毛をアップにした髪型もあの頃のまま。中央に鷲の家紋が施された白銀の鎧に紺色のスカート、黒のブーツ。
スラリとしたどちらかというと小柄な女の子。彼女の中には有り得ないほどのエネルギーが詰まっていることを俺は嫌というほど知っている。
「久しぶりだな。シャル」
「お久しぶりです! 閣下! 息災でしたか?」
赤毛の女の子――シャルロットはビシッと軍人のように両足を揃え、額に手を当てる。
この令嬢らしくない口調……変わってないな。
「一応な。一体どうしたんだ? こんな僻地まで」
「閣下が一人、カンパーランドで奮闘されておられるとお聞きし、居ても立っても居られず」
「様子を見に来たってわけか。大丈夫だよ。何とかなりそうだ」
「様子を見るなど畏れ多いであります! 閣下が降臨されれば、どのような辺境であれ瞬く間に華麗なる
「あ、うん……」
「ですが閣下!」
声がでかい……耳がキンキンする……。
再び敬礼したシャルロッテは懐をゴソゴソし始め、何かを取り出している。
そして、突然片膝立ちになって、高々と小瓶を掲げたのだ。
蓋をした小瓶には真っ白い液体が入っている。
「牛乳……」
「はい。牛も連れて参りました! 世話はお任せください。必ずや毎朝閣下に新鮮な牛乳をお届けいたします」
「え、待って。毎朝?」
「はい! 毎朝、しかと確実にお届けするであります!」
「えっと。シャル。領地は?」
「領地のことは問題ありません! 信頼できる者を育て上げ、次期伯爵である弟に全て引き継ぎました」
引き継いだって、え。ちょっと待って。
まさか、俺に牛乳を届けるためだけにネラックへ留まろうとか。いやいや、まさか彼女に限って、そんなノンビリとした暮らしをするはずがない。
俺は牛と戯れて眠りたいがね。
「それで、シャルはどうするつもりなんだ?」
聞きたくないが聞くしかないだろ。
俺の言葉を受けたシャルロッテは片膝をついたまま右手を床につけ頭を垂れる。
「お願いいたします! 閣下! どうか私を手元に置いていただけませんでしょうか!」
うわあ……。やっぱりそうなのねえ。
シャルロッテは俺が接した文官の中でも相当優秀な一人であることは間違いない。
特にプロジェクト管理能力に優れ、複雑な進捗管理を同時に三つくらい受け持っていても余裕でこなす。
今は喉から手が出るほど文官が欲しい。
見目麗しく、そこにいるだけで場が華やぐ美少女。こんな子を秘書みたいにいつも傍に置いておけるなんて、なんて思うかもしれない。
一目見ただけなら羨ましがる人だっているだろう。
だがしかし! 事実はまるで異なる。
彼女は。
彼女は――ワーカホリックなのだ!
だから悩む。彼女を引き入れていいものだろうか、とね。
横で聞いていた二人はどう思っているんだろうとまずはルンベルクへ目を向ける。
シャルロッテが俺の盟友だと勘違いしているルンベルクは、彼女が俺の危急に駆け付けたとか考えてたのか絹のハンカチを目に当てているじゃあねえか。
もう一人のハウスキーパーであるアルルは……何も分かっていない様子だった。
にこにこして耳をくたーっとリラックスした状態で、俺の言葉を待っている。
迷って言葉を返せないでいたら、顔をあげたシャルロッテが真っ直ぐに俺を見つめてきた。
彼女の目元には涙がにじんでいる。
「閣下! 私では力不足なことを重々承知しております! ですが、どうか、末席に加えていただけませんでしょうか。閣下のお力となりたいのです!」
「あ、う、うん?」
「ありがとうございます! 身を粉にして働かせていただく所存であります!」
ハッキリと否定も肯定もできなかった俺が悪い。
曖昧に相槌を打つもんじゃあないな。
こうなったら腹を括ろう。彼女は「使える」。
俺の目標は三年でネラックの街を安定させ、後進に全てを託し、惰眠を貪ること。
彼女がいれば、目標に大きく前進できることは確か……だ。
事が完了した後、彼女を説得して領地にお帰りいただければよい。
よし、これだ! これでいこう。
「わかった。よろしく頼む」
「はい!」
彼女を立ち上がらせ、固い握手を交わす。
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