フィルター

 ぐえぇ、と嘔吐するような声。抱える腹。口から溢れ出した黒いオイルのような液体。腹には深々と黒曜石のナイフが刺さっていて、抜けばまた吐き気が込み上げるのだろう。

 頭がひんやりと冷えて、目の前がくらくらする。それでもなんとか這って前に進んで、スマートフォンを握りしめる。

 画面に映るのは、怒った彼の言葉。大丈夫よと笑い返す私はこのザマだ。

 誰かが教えてくれた。その関係は間違いだと。深く踏み込んではいけないのだと。その分傷つくのはあなたなのだと。

 もう何度目だろう、こうして黒い液体を吐くのは。だんだんと腹には傷痕が残っていって、吐くのには慣れてしまっていた。

 びちゃり、黒い液体を踏む。手が真っ黒になって、次第に色は消えていく。液体もまた揮発していく。シンナー臭さに嗚咽を漏らし、またその場に倒れ込む。

 一人で泣いている。それはどうして? 頼れる誰かがいないから? それともこの傷に酔っているから?

 嗚呼、でもシンナーは確かにクセになるかもしれない。自分の不幸なんてそんなもの。吐き乱して苦しんでいるのが一番気持ちいいのかもしれない。

 そうだとしても。どうして僕は吐瀉物に倒れ込んで泣いているのだろう。

 黒い液体は、シンナーの香りを残してだんだんと消えていく。まるで最初から何も無かったかのように、僕の道化を助けるように。

 世界で一番不幸なのは自分みたいに思って泣いている。自分で招いたことなのに。自分が飼い犬に手を噛まれているだけなのに? 嗚呼、哀れで無様で滑稽。

 この黒々とした何かを吐き出している姿なんて、相手には一生分からないのだろう。だがそれで良いと思っている僕だからこそこんな目に遭い続けるのだろう。

 だからこそこんな文章が書けるんだろう。作家は不安定でないと物語を生み出せないのだから。

 なんとか立ち上がって、ベッドに寝転ぶ。何もかもを忘れるように眠りに就く。シンナー臭い部屋でイカれた夢を見て、その甘美さに酔う。僕はそうでしか生きていけないのだと、心から思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る