シタイカザリ

 白いレンガ道、広がる古めかしい建物の数々。人並みに逆らい、青年は一人遠くを見つめて歩いていく。彼が歩くたび、大きなスーツケースがガラガラと音を鳴らす。行き交う人々は、その音もさることながら、その臭いに顔をしかめ、彼から離れていくのだった。

 路地裏へと消えると、もう廃れて閉店したアンティーク店が並んでいた。その一番奥、突き当たりには、ブラックボードが置かれている。カフェかレストランが本日のメニューを書いているようなそこには、ただ「オープンド」の文字だけが書かれている。店の正面には大きなショーケースがあり、頭から上が花束になった、女型のマネキンのようなものが飾られている。サテンの白いドレスは、日陰の中でもきらりと光っていた。

 青年は汗を拭い、ネクタイを正すと、震える手でドアノブを回した。きらきらとチャイムが鳴る。天井からは頼りなく黄色い電灯が垂れ下がっていて、昼間でも少し仄暗い。青年はきょろきょろと辺りを見回したあと、カウンターに立つ黒髪の男に気がついた。スーツケースを引っ張って、青年はカウンターの赤いシートに座る。

 バーテンダーのような見た目をした男は、黒く長い前髪の下から、生気の無い目で青年を見つめた。垂れ下がった口角に、青白い肌。特殊清掃用のマスクで、口元は隠れている。青年は彼を、死神のようだと思った。むろん、根拠も無くそう思ったわけではない。彼のスーツケースの中、体温を残したまま眠っている、友人の死体を思ってのことだった。

「……ようこそ、『シタイカザリ屋』へ」

 「シタイカザリ」はボソボソと低い声でそう言った。黒縁眼鏡の下から、じとっとした視線を感じる。青年はごくりと息を呑んでから、襟に手を掛けて背筋を伸ばした。

「あんたが『シタイカザリ』だな。ここでは死体を綺麗にしてくれると聞いた。どんな死体でも、か?」

「はい……ある程度の原型が保たれていれば、ばらばらでも構いません……御客様の御要望に合わせて、装飾を施します」

「……分かった。それじゃあ、これでも良いんだな」

 青年はスーツケースに手を伸ばした。意を決したように頷くと、勢い良くスーツケースを開ける。刹那、辺りに広がるもわっとした熱気と腐臭。青年は思わず鼻をつまんだ。シタイカザリは感情の無い目で、スーツケースの中の死体を見つめる。

 その死体は、顔がぱんぱんに腫れ上がっていた。片目は閉じ、唇は切れている。ところどころ皮膚がめくれて肉が見えている。体も体で、内出血で痣だらけだ。ブロンドの髪がぶらぶらと揺れ、中身が出た頭からは、鼻が曲がるような鉄の臭いが漂ってくる。

 青年はシタイカザリにスーツケースを預け、自らはカウンターの席に着いた。手を組んで俯き、シタイカザリに、どうだ、と尋ねる。シタイカザリは、死体を抱き上げ、傷を一つ一つ目視しながら、大丈夫ですよ、とくぐもった声で言った。

「これを綺麗にすれば良いのですね……どのような装飾を施しましょうか」

「良いんだ、何も要らない。ただ、普通に安らかに眠っている顔になってくれれば、それで……」

「この方は、ご友人か何かでしょうか」

「親友だったよ。良い奴だった。不良どもの喧嘩を止めようとして、リンチされたらしい。此奴の顔を見たとき……こんな酷いことは無い、と思った。あんなに良い奴が、こんな無様な死に顔になるなんて、そんな不幸な話無いだろう?」

 シタイカザリは感情の無い目で青年を見ると、そうですか、とだけ答えた。肯定も否定もしない。その代わりに、青年に名前を尋ねた。死体の名前と、顧客の名前を、だ。青年は少し言い淀んだあと、アルフレッド、と名乗る。

「アルフレッド。此奴はジェイソン」

「そうですか。普段は御客様の要望を聞きながら、装飾を施していきますので……彼との思い出などがありましたら、仰っていただければ」

「話すさ。話すけれど、何も要らないよ。そうそう、元の顔の写真なら渡しておく」

 そう言うと、アルフレッドはスーツの胸ポケットから一枚の写真を取り出した。昨今には珍しく、ポラロイドカメラで撮ったものだった。そこには、青い海を背景にして、少し焼けた肌をした二人が満面の笑みを浮かべているのが写っていた。金髪に青い目をした青年がアルフレッドならば、隣に立つブロンドの青年がジェイソンだ。白い歯を見せて、顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 シタイカザリは写真をカウンターに置くと、工具箱に手を入れ、ゆっくりと針を肌に突き刺した。どろりとした血が流れ出れば、生臭さはさらに強くなる。アルフレッドはその光景から目を逸らし、えずいて口を押さえた。

「臭いは苦手ですか。生憎、私は慣れてしまったので」

「……分かってはいたが、死体にメスを入れるのは……キツいものがあるな」

「そうですか」

 アルフレッドが低い声で答えるのに対し、シタイカザリはさほど興味が無さそうに軽く答えた。針の次は、鋏を入れる。装飾を施す姿に嫌気が差して、アルフレッドは別の物へと注意を向けようとした。

 そうして目についたのが、カウンターに置かれた一枚の写真だった。黒い七三分けの男の隣に、金髪の女が立っている。青い目を垂れさせて微笑むその女性は、町中で出会えば目を奪われるだろう。隣に立つ男も、下手くそに笑い、女の白い手を握っていた。瑞々しく笑う二人の背景に映るのは、一面のネモフィラ畑だ。この国にそんな場所はあっただろうか……

 ふと、視線をシタイカザリにやれば、写真に写る男と瓜二つだった。しかし、写真に写っているほど若々しくは見えない──顔立ちはあまり変わっていないのだが、どこか窶れて、萎んだように見えた。まるで、魂を吸い取られてしまったような、そんな抜け殻にさえ見えた。

 アルフレッドは意を決し、この写真について話すことにした。黙々と腫れた頬の中身を抜いて縫い直している男に、できるだけ平静を装って声をかける。

「そこに置いてある写真は、あんたと奥さんのか?」

「……はい、そうでした」

「仲が良いんだな。どこか旅行にでも行ったのか?」

「はい。彼女は旅行が好きでした」

 会話は続かない。全て過去形から始まる文章だ。アルフレッドはそこに、どことなく離別の過去を感じさせられる。それ以上を問い詰めることはできなかった。

 シタイカザリと向き合っていることもできずに、彼は店を出る。ショーケースに置かれたドレスのマネキンを見ながら、煙草に口を付けた。ライターの火が燃え上がると同時に、不意に、あることを思い出した。

「そうか。お前、結婚するって言ってたな」

 目を閉じた彼の脳裏に過ぎったのは、明るい笑顔で結婚を伝えてきた親友の姿だった。彼は真面目だったから、彼を愛した女も真面目だった。二人で並ぶと、どこかよそよそしくなって、それをからかうのが面白かった。さきほど渡した死体にも、薬指に指輪が付いたままだ。彼の婚約者は、数晩経った今も連絡がつかないそうだ。

 きっと、受け入れられないのだろう。急激な別れを、凄惨な死に様を。真っ当に、誠実に生きた男が、捻くれた不良どもによって惨めに殺されたことを。

 第三者のことを考えると、気持ちが整理されるのに、自らのこととなると、必死になってシタイカザリ屋を探したことを思い起こす。アルフレッドもまた、彼の凄惨な死を受け入れられない一人だった。

「お前さ。嫁さん残して死ぬなんて、悪い奴だよ」

 ショーケースに向かい、独り呟く。途端に目頭が熱くなって、アルフレッドは腕で目を覆った。熱い雫が、スーツの袖を濡らす。

 彼は、まるでいつも仕事に行くような格好で、ここを訪れた。平穏で無事な日だと、スーツが騙っている。彼の死を日常に溶かして忘れようとしたことを、濡れた袖が語っている。

 せめて、幸せな顔で死んでほしかった。未練なんて残さないで、生を全うしてほしかった。

 アルフレッドは涙を強く拭い、店の扉を開けた。シタイカザリの手さばきは早く、多少グロテスクな見た目をしていながらも、腫れた頬はマシになっているし、施術途中の眼窩からは、潰れた緑の目が見えている。店を離れているうちに、カウンターには義眼が並べられていた。片目はもう義眼に置き換わっているようだ。

「そんな、目を閉じるから見えなくなるのに……」

 つい呟いた言葉は、喜びと憐れみを溶かした紫混じりのグレー。シタイカザリは顔を上げないまま、静かに答えた。

「全て、元の形に戻さなくてはなりませんから。たとえまぶたを閉じたとしても」

「そう、か……」

 そう言って、どろりと粘ついた神経を削ぎ落とし、義眼を埋めていく。両方の目が美しい緑でシタイカザリを見上げたところで、シタイカザリは彼のまぶたを閉じた。

 それから、歪んだ顎を力強く──彼の細い腕から出るとは思えない怪力で──歪め、元の形に戻す。剥がれた頭皮には、似た色の布を被せて縫い付ける。だんだんと彼の死に顔が整っていくうちに、アルフレッドはその行程を直視できるようになっていった。

 二、三時間は経っただろうか。時が経つのも忘れて、アルフレッドはシタイカザリの装飾に目を奪われていた。透明な糸で縫われて作られた「安らかな死に顔」に、気がつけば彼は、再び涙を流していた。それを見て、ようやく彼が死んだという事実が、腹に降りてきて、溜まったような気がしたのだ。

「……お前、死んじまったんだな……」

 アルフレッドの独り言に、シタイカザリは答えない。死体を運びやすいように折り曲げ、スーツケースへと入れた。アルフレッドはしゃくり上げながら、スーツケースを受け取る。長財布から紙幣をカウンターへと置いて、深く深く頭を下げた。

「ありがとう。これで、彼奴の両親にも、嫁さんも、見せることができる」

「……そうですか」

「でも、もうきっとここには来ないさ。酷い臭いがする部屋にいるのは御免だからね」

「そうですね」

 シタイカザリは淡白に言葉を返すだけだった。アルフレッドはもう一度お辞儀をすると、重たいスーツケースを引きずって店から出ていく。そのまま人並みに紛れて、当たり前の日常へと戻っていく。これから向かうのは、葬儀場だ。親友の保護者とも、シタイカザリを訪れる話はしてある。彼らもまた、安らかな彼の顔を眺めて、その死を受け入れることだろう。彼が見上げた空は、写真で見た青い海のような、ネモフィラ畑のような、清々しい晴天だった。

 スーツケースの中には、顔を歪められた死体が一つ、腐臭を放っている。



 きらきらとチャイムが鳴って、一人の客が入ってくる。まるで、カフェ巡りをする女性のように。待ち合わせの時間に遅れてきたように。腹と肩を出したカットソーに、ホットパンツ。少し乱れたブロンドの長い髪。女性はスーツケースを引き、カウンター席へと着いた。

 彼女が持っているビビッドピンクのスーツケースには、様々なステッカーが貼ってある。この国のもの、そうでないもの。それだけ見れば、彼女は今から旅行に行こうとしているのだろう、と人々は勘違いするだろうか──否、しなかった。そう考えようとして、必ずぶち当たる違和感があったからだ。

「ねーねー、ここってシタイカザリのお店で合ってる? あたし、方向音痴でさー」

「はい、合っています。いらっしゃいませ」

「シタイカザリさんってー、どんなふうにもできるんだよね?」

「一応、できる限りでは」

「そっかー。じゃ、あたし、彼氏をどこにでも持ち運べるようにしてほしいんだけど」

 そう言って、女性はスーツケースを開いた。赤ん坊が胎内でしているような、蹲ったポーズをした男性が、スーツケースに所狭しと詰まっていた。カフェのような空間をした店内に、酷い腐臭が満ちていく。むろん、開かなければ良い話ではなかった。一見すると普通の若い女性の見た目をしたこの顧客は、店内に入ってくる前からこの臭いを漂わせていたのだ。

 シタイカザリは力無く死体を見つめ、分かりました、とだけ返した。スーツケースを受け取り、カウンターの後ろにある扉を開け、倉庫らしきところに消えていく。しばらくして、彼は工具箱と大きな鳥籠を持って帰ってきた。

 女性は両手に顎を乗せ、足をぶらぶらと揺らしてシタイカザリを見つめている。子供が新しい玩具を買ってもらったときのように、彼女の青い目は爛々と輝いていたのだった。

「うわ、凄いね。もしかしてそれに入れてくれるの?」

「はい、そのつもりです……他に御要望があれば、と思います。お名前を伺っても?」

「あたし? あたしはパトリシア。今日はお仕事お休みだったんだー。だから念願のシタイカザリ屋さんに来ちゃった、って感じ」

「この方は、彼氏さんですか」

「そーそー。なんか死んじゃったんだよね。警察の人は、熱中症とかなんだとか言ってたけど……此奴、金無かったから、節約とか言ってクーラーとか使わない奴だったんだよね。マジヤバいなって。そんなんで人って死ぬんだね」

 パトリシアは、自分のネイルをした爪先を見ながら、淡々と説明してみせた。細長い爪は、少しもはみ出さずにビビッドピンクに塗られている。黄色いライトに照らされて、つやつやに光っていた。

 シタイカザリは鳥籠のサイズを測りながら、目の前の呑気な顧客を、前髪の向こう側から見上げる。片手にはすでに、大きな鋸を持っていた。

「……どうして、持ち運べるように、と?」

「いや、さ? あたし、此奴とはいろんな約束してたんだよね。此奴が定職着いたら、いっぱい国内旅行しようね、って。まぁ、国内旅行、ってのが貧乏なんだけど。でも、正直楽しみにしてたんだ。それなのに死んじゃった。だから、あたしもいっぱいお休みとって、彼氏と一緒に国内旅行しようかなーって。そのとき、この臭さと見た目じゃ持ち歩けないでしょ?」

「そうですか。防臭加工も必要ですね」

「え、マジ? それってお金かかる?」

「はい。専用のケースに入れますので」

「えー。まぁ、いっか。お願いしまーす」

 シタイカザリはぺこりと頭を下げると、再び後ろのドアへと消えていく。次に彼が持ってきたのは、中身が見えないようなガラスの箱だった。それで死臭が防げるかどうかは、パトリシアも知らない。しかしながら、彼女は特に迷うことも無く、いいねー、と言って携帯を弄りだした。

 そして、作業が始まる。ゴリゴリと音を立てて、骨と肉が絶たれていく。シタイカザリは顔色を変えること無く、箱に合うようにして死体を細かく切り分け始めた。

 携帯を見るのも飽きてしまったのか、そんな光景を後ろに、パトリシアはぼんやりと店内を見回した。ドリッパーがあったり、カウンター席が並んでいたり、皿が並べられていたり──彼女がよく行くカフェにそっくりだった。強いて違う点を挙げるとすれば、窓が一つも無いことだろうか。

 壁に掛けられた鳩時計が、昼下がりを知らせてポッポと鳴く。パトリシアは頬杖をつくと、作業中のシタイカザリに話しかけた。

「ここ、カフェみたいだねー。コーヒーとか出してくれるの?」

「……はい、元々はカフェでした。今はスイーツは出せませんが、コーヒーくらいなら別料金で提供します」

「あ、そうなの? じゃあ、コーヒー貰おうかなー」

 シタイカザリは鋸を置くと、血のこびりついた手を洗い流し、アルコールで消毒する。それから、分厚いゴム手袋を付けて、コーヒー粉をドリッパーに注いだ。お湯を入れて、カップをセットしたところで、パトリシアの方に寄せる。ここから好きなタイミングで飲んでくださいね、と言い、また切断の作業に戻った。

 カビたチーズのような香りに、コーヒーの香りが混ざり合う。むせ返りそうな室内でも、パトリシアは顔色一つ変えない。あたかも、死臭に慣れてしまっているかのようだ。カップにコーヒーが満ちれば、何でもない顔で口を付ける。衛生的にどうかなんて、彼女の眼中には無かったのだ。口内に広がるコーヒーの香りに、彼女は頬を赤くして花唇を描いた。異様な女性の姿には目もくれず、シタイカザリはマスクの下から、無感情に話しかける。

「次からは、死体処理の前に頼んでくださいね」

「美味しい! シタイカザリなんてやめて、またカフェやれば良いじゃん!」

「……そうしたら、あなたは今、こうして彼氏を持ち運ぶ必要が無いでしょう。死者を悼む人々のためにも、必要なのです、こういう仕事は」

「そっか。結構お客さん来るの?」

「そうですね。大切な人の死を美しく飾りたい人がよく来ます」

 へー、と相槌を打つパトリシアだったが、それ以上を尋ねることは無かった。コーヒーを飲みながら、彼氏だったパーツを箱に入るかどうか測っているシタイカザリを眺め、遠い目をしていた。

 彼女は笑顔を潜めると、そういえばさ、と誰に向けてでもなく語り始める。

「彼奴、金は無かったけど、結構良い奴だったんだよね。他のオトコ、みーんな体目当てっつーか、ヤりたいだけっていうか……だから、こんなに長く付き合ったの、此奴くらいだったな」

「……優しい人だったんですね」

「うん。一生でも一回くらいしか会えないんじゃないかな。たぶんこれからも、此奴以外と付き合うの、なんか考えらんないや。此奴の笑顔、好きだったんだよね。金出すのもあんまり嫌じゃなかった。あたし、財布扱いされてたのかも」

「そういう人には、この店はぴったりですね」

 そだね、と答えて、パトリシアはふつふつと笑った。シタイカザリは鋸を死体の首に据え、切込みを入れた。骨が削れる音に、肉が千切れる音に、パトリシアは光の無い目で愛おしそうに微笑んだ。

 首が切り離されると、一仕事終えたシタイカザリは、ガラスの箱に次々と死体のパーツを入れていった。片足、片腕、片足、片腕、何個にも切り刻まれた体、最後に、顔。死骸のパーツの上で、切り落とされた顔が笑っていた。幾分か臭いもマシになったようだった。

 パトリシアの大きな目に、ガラス越しで見えない顔が映った。パトリシアもまた、自然と笑顔になる。

 シタイカザリはガラスケースに布を掛けて渡した。人一人分の重さの箱だ。パトリシアは、重いね、と言って、箱を抱きしめた。

「あはは、お前、ホント重いよ。でも、前に会ったときより軽くなったんじゃない? ちゃんと食べてないからだよ、この貧乏人」

 パトリシアは箱の中身にそう笑いかけて、カウンターに置いた。それから、あんがとね、と言って、カウンターに紙幣の束を置いた。こんなに要りませんよ、と言ってシタイカザリがその何枚かを返す。パトリシアはおとなしくそれを受け取って苦笑した。

「なんか、金銭感覚分かんないんだよね。此奴のせいかな」

「……大切にしてくださいね」

「うん。死ぬまで大事にする。頑張って旅行してみるよ」

 布のかかった箱をスーツケースの上に置き、パトリシアはシタイカザリに振り返った。たいそう幸せそうに顔を咲かせ、手を振る。シタイカザリは手を振り返すことも無く、恭しく頭を下げた。

 死体の箱を持った女性は、町中へと戻っていく──家に帰り、箱をデコろうと考えながら。これからの旅行の日取りを決めるのを心待ちにしながら。

 通りの人の目を奪い、女性は鼻歌を歌って歩いていく。鳥が囀るような、綺麗な声だった。人々は布に隠れた箱を見ていたわけではない。彼女がブロンドの髪を揺らすたびに、死臭を振りまいているのを見ていたのだ。



 チャイムが鳴り、シタイカザリは呼んでいた本から顔を上げた。マスクを付けて、眼鏡越しに気力の無い目を向ける。扉の前には、白髪交じりの男が立っていた。その後ろに、黒いスーツを着た男が控えている。しかし、控えていた男が入ろうとすると、壮年男性は眉間にシワを寄せ、追い払うようなジェスチャーをした。従者はぺこぺこと頭を下げ、店内に大きな棺を運んで、素早く扉を閉めた。

 ルベル色のベストとスラックスに身を包み、真っ白なワイシャツを下に着込んでいる服装だけで、育ちが良いのだろう、と思わせるのに充分だった。男は険しい顔つきでカウンターテーブルに着き、少し顎を上げてシタイカザリを見下ろした。シタイカザリは黒い眼鏡に手を当て、首を引っ込めた。

「……いらっしゃいませ、シタイカザリ屋へ」

「どんな怪物がいるかと思ったが。そこらにいそうな陰気な男だな、お前は。本当にショーケースの女性のように芸術作品を作れるんだな?」

「はい、御客様の御要望に合わせて死体を装飾するのが私の仕事です」

 気圧されたように弱々しい声で答えるシタイカザリを見下ろし、フン、と鼻を鳴らすと、壮年男性は棺を勢い良く開けた。棺の中には、寝息を立てて眠っていても良いような、安らかな顔をした女性の死体があった。顔の半分には痛々しい火傷の痕があり、肌が爛れている。壮年男性は席に着き直すと、うちの家内だ、と言った。

「うちの家内が先日亡くなった。病弱だったからな、日和見感染で亡くなったらしい。肌に黒斑があったりするのが気に食わない。

私の家内を美しく彩り、飾ってくれる人を探していたのだが、どの芸術家も使えたもんじゃない。そうしたら、ここに死体専門の芸術家がいるではないか。金なら出す、私の部屋に置いても良いくらいに美しくしてくれ。棺を立てて置くつもりなんだ」

「……畏まりました。御客様、御名前をお伺いしても? カウンセリングを行いながら、どのように飾ろうか考えさせてください」

「私か。私はルイスという。嫁の名前はエリザベートだ」

「ルイス様、ですね。ルイス様は、装飾する素材に御要望はございますか?」

「家内は花が好きだった。まさにショーケースと同じような装飾を頼む」

 ルイスが指したショーケースとは、店の表に飾られた死体のことだった。純白のドレスに身を包んだ女性だが、首から上は色とりどりの花が咲いている。まるでマネキンのような出来に、死体など持っていなくても魅入られる者が多い。

 シタイカザリは、分かりました、と言い、後ろの倉庫に消えていく。戻ってきたときには、裁縫道具と溢れんばかりの花々を持っていた。ルイスは掛けられた鳩時計を見やると、どれくらいかかる、と尋ねた。

「分かりません。今日中に終わることでしょう」

「そうか。私は外出しても?」

「構いません。ですが……その前に、カウンセリングの続きを。あなたにとって、エリザベート様はどんな妻だったのですか」

 はぁ、と大きな溜め息を吐き、ルイスは首を振った。彼にとっては、何度も何度も答えた内容だった。倦みを顔に滲ませ、顔にさらにシワを刻んで語る。

「最初うちに来たときは、その火傷痕に驚いたもんだ。大して美しくもない、金も無い。歳も離れている。どう考えても親がうちの富を受けたくて嫁入りさせようとしてきたのだろうと思ったさ。だが、うちもうちで早く子供を作ってほしいと言われていた。私はそんなつもりなど無いのにな」

「それでも結婚なさったのですか」

「仕方無く、だ。結婚するだけで良い、と父が言ったのでな。一番家事ができるマシな奴を選んだつもりだ。子供はすぐに作れなくなった、病弱なもんでな。短い間だったが、良い夫婦でいたつもりさ」

 吐き捨てるように言って、ルイスは目を逸らした。シタイカザリは、そうですか、と小さな声で返しただけだった。

 視線の先、とある棚に目が向く。カウンターの隣にある棚だ。一見ガラクタだらけのそれは、海外の土産やアンティーク品らしかった。ルイスは席を立つと、そちらに近づいていく。一つひとつ目を凝らしながら、感心したように溜め息を吐いたのだった。

「ほう、これはなかなか。お前は海外旅行が好きだったのか?」

「……いえ、うちの家内が。私自身はあまり。学に弱く、語学にも長けていませんでしたから。ほとんど彼女に頼りっきりでした」

「では、それもその家内が選んだのか」

「そういう物もありますし、そうでない物もあります。彼女は、私が選んだ物は何でも良いと言ったもので……そこにあるガラクタは、ほとんど私が選んだ物です」

「悪くはないな。確かに、高く買わされたんだろうか、って物もあるがな。これなんか、そこでしかとれない宝石があしらわれている」

 ルイスは一つのネックレスを手にとった。シルバーは錆び始めているが、真ん中の石は光に合わせ、緑色になったり、橙色になったりと色を変える。シタイカザリは死体から顔を上げると、マスク越しにほんの少し口角を上げた。

「それは、私が彼女に似合うだろうと思って買ったものです」

「付けて歩けば貴族と見紛うだろうに。付けないなんて、なかなか見る目の無い家内だな」

「……そうですね」

 シタイカザリはそれ以上口を開かなかった。死体のように口角を垂れさせて、目の前の皮膚に鋏を入れる。ジャキジャキと音を立てて切り裂かれる光景に不快さを覚えたのか、ルイスはネックレスを棚に戻し、棺を置いて店の外へと出ていった。

 まだ路地で待っていた従者に、車を出すように指示する。しかし、死臭を微かにさせた状態で行ける場所など無い。彼はその状況に呆れながらも、自らの家に一旦戻るよう指示した。

 ルイスの家は、一般に豪邸と呼ばれるに相応しい広さを誇っている。使用人が数人、主人が一人。指で数えられるほどの人しか住まぬこの館は、彼にとっては無駄に広いだけだった。それと同じだけ広い庭も、もう花々が枯れ始めて存在意義を失っている。彼は自室に戻り、一人アルバムを眺めていた。母が彼に送りつけたお見合いのカタログであった。そのどれもがエリザベートより美しい顔をしている。顔が良いほど金銭への欲が高いことも知っている。優しそうな顔を浮かべる美人ほど、彼の体さえ掴めてしまえば金は簡単に手に入ると信じている。ゆえに、ルイスはオンナというものが嫌いだった。

 エリザベートがかつて眠っていた部屋へと赴く。広いベッド、少ないメイク道具と衣服、掃除機、本棚、枯れた観葉植物。実に無駄の無い部屋だ、と彼は一人思う。美しいネックレスも、宝石のついた指輪も、やけに派手な香水も、その部屋には無い。火傷の痕を無理に隠そうと着飾ることも無い。厨房に立って、使用人と共に食事を作り、庭師と共に花の世話をして、館中を掃除する──誠に、貧しい女であった。

 翻って、自室を眺める。ルイスの部屋もまた、珍しい調度品も、無駄なブランド品も、有名な絵画も無かった。ベッドもシングルの大きさしか無い。よって、エリザベートと共寝をしたことなど無い。

 酷く、空虚だ。ルイスは独り呟く。見た目ばかり綺羅びやかな館は、空虚だ。そこに一つ装飾品を置くとするならば──棺に眠る、愛しい姫君しか無いだろう。

「……お前。このカタログ、母上に返してこい」

 従者を呼びつけ、カタログを放り投げた。使用人が作った質素な食事をとり、夕方には再びシタイカザリ屋へと車を走らせた。ルイスの愛した妻の、美しい姿を求めて。石レンガの地面を硬い革靴で鳴らし、ルイスは硬い表情で扉を開いた。

 シタイカザリは、ルイスがはじめやってきたときのように読書をしていた。本から顔を上げると、お待ちしておりました、と暗い声で言い、隣の棺を指す。ルイスは大股で歩き、シタイカザリの真ん前に立つと、咳払いをしてから話しかけた。

「装飾は終わったのか。なら、見せてみろ」

「はい。お気に召しましたら幸いです……」

 ルイスは固唾を呑んで、シタイカザリが棺に手をかけるのを見守った。最初ここに来たときよりも、ずっと煩く心臓が鳴っているのを感じながら。ずっと死臭が増しているのを知りながら。

 シタイカザリは扉を開く。その途端、腐臭に混じって、甘い花の香りが広がった。花の詰められた棺の中、一人の女性が眠っている。美しいルージュのドレスを纏い、手を胸で結んで。火傷の痕があった右半分の顔には、たくさんの赤い花が咲き乱れていた。傷の無い女性は、ルイスが知っているよりはるかに美しい顔で眠っていた。

 ルイスの片手が震える。彼の顔から血の気が引き、シワが伸ばされていく。あ、あ、と威厳の無い声を上げると、彼は腰を抜かして後ろに倒れた。目は血走り、棺を指した指は揺れていた。

 彼は、嗄声でこう言った。

「……誰だ、これは……貴様、私のエリザベートを、どこにやった⁉」

 シタイカザリは困惑するルイスを、真っ黒に塗り潰した目で見下ろす。マスクを外し、色の褪せた唇を動かして答えた。

「美しい死体を、との御所望でしたので。エリザベート様の醜い部分を、全て花で隠しました。そちらの方が、ショーケースのものに近かったので」

「違う……違う、これでは、これでは、極普通のオンナじゃないか! あの醜い顔も無い! 貧相な服も無い! 違う、絶対に違うッ! これは私のエリザベートではない!」

「しかし、御客様……これは、確かに御客様がお持ちした死体でございます。受け取っていただけなくては困ります……」

 ルイスは目を剥いたまま、財布に顔を突っ込んだ。紙幣を投げつけ、従者に怒号をぶつける──これを持っていけ、と。シタイカザリはそっとその紙幣を手に取り、棺が持っていかれる様を諦観していた。

「こんな死体、私の妻じゃないッ! 早く埋葬所へ持っていけ! こんなもの、うちに置いておけない!

──嗚呼、私のエリザベートは、どこに……!」

 叫び声は徐々に涙に呑まれて消えていく。従者に連れられて、棺とルイスは埋葬所へと運ばれていく。棺の中の女性と二人で並ぶと、それはそれは美しい夫妻に見えたのだったのだが──シタイカザリはそう思いながら、読んでいた本へと目を落とした。



 店の前に置かれた、作り上げられた花嫁の前で、黒い髪を切り揃えた女性が立ち尽くしていた。片手には大きなスーツケースを持っている。黒いパンプスの先を揃え、仰ぐようにその花嫁の顔を見つめた。

 一目見ただけでは、綺麗に作られたマネキンか人形だ。しかし、手にはめられた白い手袋の下には、色褪せてぐちゃぐちゃになった指の肉が並んでいる。針金で綺麗な形を保っているだけだ。首から上は切断されていて、代わりに花がたくさん差し込まれている。まるで女性の体を苗床として咲いているかのようで、背筋を撫でるような恐怖に襲われる。

 奇妙で奇怪なその死体には、何か人の目を奪う魅力がある──一度脳に焼き付いたら、決して離れないような。目なんて無いのに、花の中心が無数の目となって、生者を見つめているのだ。

「……あの、御客様、ですか」

 耳元に吹きかけられた声に、女性は、きゃあ、と甲高い声を上げた。咄嗟にスーツケースを自分の後ろに隠す。バーテンダーのような格好をした男は、後退りする女性にふらふらと手を伸ばして、怖がらないでください、とひ弱な声で言った。

 下手に出る頼り無い様を見て、女性は恐怖心が拭い取られたような気がした。息を整え、急に何ですか、と少し強い口調で返す。男はへこへこと頭を下げると、自らの役職を名乗り出た。

 シタイカザリ。死体を装飾し、その最期を彩る者。女性はそれを聞いて、はっと我に返ったように顔を上げた。

「す、すみません! ここのお店の人だったんですね……」

「……ずっと、この作品を見ていたようだから……御客様かと思って」

 男に導かれるままに、女性はスーツケースを引いて店内へと入った。カフェのような見た目をした店内に、女性は一瞬呆気にとられる。上に居住スペースが続いているのか、階段があるが、その先は暗くて見えない。暇潰しのための本棚と、土産物が置かれた棚がある。女性の予想をはるかに下回る光景だった──彼女の頭にあったのは、似たような芸術作品が所狭しと並んだアトリエだったからだ。

 その間に、シタイカザリはカウンターの向こうへと足を運ぶ。スーツケースから臭うカビた臭いに気がつくと、すぐに傍らにあった特殊清掃用のマスクを口に当てた。

「そちらのスーツケースに、死体が入っているんですね」

「は、はい。そうです。その……私、全然お金とか、無くて。凄い高いんですか?」

「いえ……あのような剥製を作るとなるとそれなりのお値段とお時間をいただきますが。ただ死体を飾るだけでしたら、ブランドのバッグを買うよりお安いかと」

「よ、良かった……名画くらい凄いのを買わなければならないのかと、てっきり」

 女性は一息つき、椅子に座った。足を揃え、カーディガンの袖から白い手を出して重ねる。シタイカザリは、開けても良いですか、と穏やかに尋ねた。女性は少し俯いたあと、こくこくと頭を下げた。

 黒いスーツケースの中には、片腕の無い女性の死体が入っていた。何かに巻き込まれたのか、失われた腕は無残に千切られている。透けるような色の無い金髪に手を当てると、シタイカザリは顔をゆっくりともたげ、女性の顔色を伺った。

 御名前をお伺いしても、と尋ねれば、女性は小さな声でそっと答えた。

「リン、といいます。この子は私の彼女だった、セシリア」

「リン様とセシリア様、ですね。どのような装飾をお求めですか」

「……ウエディングドレスを、着せてあげたくて。綺麗な純白のドレスを。ついで、っていうか、別の話なんですけど、片腕も付けてあげてほしいんです」

「かしこまりました。カウンセリングをしても良いですか」

 シタイカザリは死体をお姫様抱っこして、作業台に乗せた。隣には、大きなネジやペンチの入った工具箱が置いてある。リンはシタイカザリの顔を見上げると、指を合わせてもじもじと語り始めた。

 彼女の声には、どこか湿り気があった。しとしとと降り続ける、雨のような言葉の羅列。悲しげで苦しげな、曇天の語り。シタイカザリは、彼女には目もくれず、ゆっくりと死体のぐちゃぐちゃな肉を削ぎ始めた。

「……セシリアは、工場勤めだったのよ。彼女が言うにはね、発達障害で、あまり良いところでは働けなかったそうよ。それでも、彼女はとても真面目に働いていた。劣悪な労働環境でも、めげないで働いていたわ。だからこそ、事故で亡くなった、って聞いたときは、私、悲しくって一晩中泣いたわ」

「そうだったんですね」

「働いてお金貯めて、一緒に挙式しましょうって誓い合っていたの。だから……少し遅いけれど、二人並んでウエディングドレスが着たかった。それだけなの」

「ウエディングドレスなら、取り揃えております。無くなってしまった腕も、代用が効くものを持っていますよ」

 ありがとうございます、と呟く彼女の顔は晴れない。シタイカザリはマネキンの腕を握っていた手を離し、珍しく彼女の顔色を伺った。

「……どうか、したんですか」

「あの。あの、ショーケースの人形、本当の死体ですよね。あれは、シタイカザリさんがやったんですか」

「……はい。私の、最初の作品です」

「あれを作っているとき、どんなことを考えていましたか」

「どんな……ただ、私は。彼女があんな死に方をするなんて、酷い、と思っていました」

 シタイカザリはマネキンの手を切断口に押し付け、工具で大きな穴を開けた。歯医者で聞くような、キィーン、と高い音がすると、リンは痛々しそうに顔を歪めた。ぽっかりと空いた腕とマネキンの穴に、ボルトを差し込んでいく。

 リンは顔を顰めたまま、じっとりとした口調で続けた。死体に手が加えられていけばいくほど、彼女の表情は土砂降りへと変化していく。

「……私、頼んでおいて思うんですけど。私、一生セシリアのこと、引きずるのかな、って」

「そうでしょう。大切な人の死は、背負って生きていくものですよ」

「分からなくなるんです。あのショーケースを見たとき、凄く迷ってしまった。私がもしもセシリアと結婚式を行ったなら……私は、一生セシリアを他の人に重ねて生きてしまう。そんなの、あの子が望んでいるのかな。これは、私のエゴじゃないかな、って──」

「──大切な人の死を抱えないで、何が『大切』ですか。私たちは、一生背負っていくんですよ」

 声を荒らげたシタイカザリに、リンはびくりと肩を揺らした。彼はドリルを持ったまま、眼鏡の下から零れんばかりの黒目でリンを見つめた。ブラックホールのような引力に、リンは目を逸らせなくなる。深い深い、何も光を灯さぬ、暗い暗い重圧の感情に迷い込む。

 シタイカザリは慣れぬ大声を上げて、捲し立てるように言った。

「わ、私たちは大切な人の死を刻み込むために、飾るんです。一生忘れないために。一生背負うために。そ、それを、埋葬なんてして忘れてしまうなんて、最悪だ。そっと思い出を閉ざすなんて、最悪だ。独りだけ前を向いて置いていくなんて、最悪だ。最悪だ……」

「す、すみません、そんな、馬鹿にする気なんて──」

「あれは、あの作品は、私の過去なんです。私が背負わなくてはならない過去なんです。忘れてはいけない過去なんです。妻を、マリアを、過去のものにしてはいけないんです」

 リンはすっかり怯え返り、がたがたと体を震わせる。獲物に選ばれた小動物のような様に、我に返ったのか、シタイカザリははっと目を見開いた。逃げるように目を逸らし、すみません、と早口で言う。それからは、ずっと黙って義手を組み合わせていた。

 二人の間に、埋めようの無い沈黙が生まれる。独り俯くリンは、眠るセシリアの顔を見つめて、彼女との記憶を脳内再生していた。半ば強制的に、無理やり記憶の海から引きずり起こすようにして、セシリアとの日々を思い出そうと努める。

 どんなに仕事が忙しくても笑顔を欠かさなかった彼女。自分が偏っていることを知っていながら、それと戦い続けた彼女。無個性で根暗な自分を引きずり上げてくれた彼女。親から嫌われて、結婚するだなんて言った日には勘当されてしまった彼女。心を晴らしてくれた太陽は、ある日機械の轟音に呑まれて曇ってしまった。今残っているのは、曇天の空だけ。外ではざあざあと大粒の雨が降り出した音がする。傘を持ってきていないリンはきっと濡れてしまうだろう。傘を持ってきてくれる太陽の少女はもういない。

 飾られていくうちに、だんだんと花嫁らしくなっていくセシリアを見ても、リンの心に光をもたらすことはできない。目の前にあるのは、曇天に呑まれた記憶の結果だからだ。彼女の見てきた晴天の過去は、もう現実には無い。彼女は、死んでしまったのだから。私は、それを受け入れなければならないのだから──

 雨が降ってきましたね、とシタイカザリは話しかけた。これもまた、彼にしては珍しいことだった──普通、彼は相手に向かって話しかけないからだ。それは、彼なりの気遣いだった。それでもリンは、だんまりを決め込んだままだった。

「……強く言ってしまって、すみません。でも、死に納得がいかない人だらけ、ですから。だから、目を背けるんです。あなたも、私も……」

「そう、ですよね。私、目を逸らしてるんだわ。セシリアの死体をこんなに飾って、綺麗に見せて。本当は、セシリアは醜く死んだの。それは、私だって分かっているの……」

 横になった死体が着ている衣服をゆっくりと脱がしながら、シタイカザリは彼女の言葉を聞いていた。隣には、汚れなき純白のドレスが置かれている。

「醜い死が、理解できてないのね、私。だから、こんなことをあなたに頼んだんだわ」

「……やめ、ますか。全て、元に、戻しますか」

「いいえ、いいの、もう。これ以上、セシリアを甚振るなんて、最悪だから」

 リンは顔を上げ、シタイカザリの目を正視した。暗澹を貫くような視線に、シタイカザリは眩しそうに目を細める。彼女と目を合わせないようにして、死体にガラスの靴を履かせた。ショーケースの妻がしているように、腐乱を隠す手袋をはめた。白飛びするようなウエディングドレスを着せた。出来上がった眠り姫は、誰が見ても美しいと感嘆の声を漏らすことだろう。

 鳩時計がポッポと鳴く。沈黙は二人の肩に重苦しくのさばり続け、数時間の経過を忘れさせた。シタイカザリは死体を抱き上げ、そっとリンに手渡した。リンは死体を抱き上げるが、よろりと揺らめき、重いなぁ、と呟いた。

「魂の重さが無くなるなんて、嘘だわ。とっても重いんですね、人って」

「……お代をいただきましょうか」

「分かりました。私が払えるだけですが、それでも良いですか」

 財布からしわくちゃの紙幣をいくつか並べ、シタイカザリへと見せる。彼はこくりと頷き、それをジャケットの中へと入れた。

 扉の外では、まだ雨が降り続けている。優しく折りたたみ、死体をスーツケースに戻すリンに、シタイカザリはマスクを外しながら尋ねた。

「傘を差し上げましょうか」

「いいえ、要りませんよ。お気持ちだけいただきます」

 リンは大きく深呼吸をすると、背筋を正し、スーツケースを転がして店を出ていく。その間、一度も振り向くことは無かった。シタイカザリは何か声をかけようとして、結局何も紡げず口を閉じたのだった。

 チクタク、時計の針が鳴る。ざあざあ、雨が降る。時は動けど、シタイカザリは動かない。一歩たりとも、動くことは無い。



 少女は歌う、覚えきれていない鎮魂曲を。足を鳴らす、不安定なリズムで。ねぇ、見て、あそこがシタイカザリよ。後ろの少年に語りかける。軽やかに歩み踊り、路地裏に迷い込む。金髪のツインテールを揺らし、緑の瞳をきらきらと光らせる。メロディには、ザッザッ、とノイズが混ざる。後ろの少年は引きずる、二つの棺を。二つの死体を。

 人々はそんな少女を指して、可愛らしいと、汚らわしいと、あどけないと、悍ましいと言った。

 扉が開けば、暗い面持ちの青年がカウンターに座っている。前髪で隠れた目を見開いて、二人の子供を凝視する。少女は跳ねるようにしてカウンター席に着いて、少年は閉じた扉の前に立っている。腰を上げ、シタイカザリは彼らに歩み寄った。

「……あなたたちは、どうしてここに?」

「シタイカザリさんね? ほら、本当にいたでしょう?」

 少女はそう言って足をばたばたと揺らす。少年はぷいっと顔を背けると、棺を置いて扉から飛び出ていった。少女はぷうっと頬を膨らませ、酷い、と呟く。

 シタイカザリは困惑を顔に滲ませ、棺をそっと開けた。中には、血まみれになった二人の男女が眠っていた。体中に刺し傷がある女性と、頭に風穴が空いた男性。二人の顔立ちはどこか小さなお客様に似ていた。

 二人の棺をそっと閉じて、シタイカザリは少女に向き合う位置に立った。少女は大きなキャンディポップの瞳でシタイカザリを見上げると、シタイカザリさん、と甘く呼びかけた。

「お金さえあれば、死んじゃった人を綺麗にできるんでしょう? 私、知ってるわ!」

「……そう、ですね。そこに死体とお金があれば……私に、できることならば」

「ねぇ、そうしたら、私のママとパパを『仲良し』にしてあげてほしいの!」

 身を乗り出し、ほんの少しふらつきながら、少女は言った。シタイカザリは気圧されたように肩を上げ、数歩後ずさる。少女は満足げに腰を下ろすと、頬に両手を当てて、にこにこと微笑みながら続けた。

「私のママとパパ、喧嘩したら死んじゃったの。でも、天国では仲良しでいてほしいのよ。だから、シタイカザリさんならできると思ったの!」

「……『仲良し』、ですか」

「いっつも二人とも言い争っててね、仲良くして、って言うと凄く怒ったのよ。でも、もう何も言わないわ。私に怒ることも無い。だから、二人が仲直りできるとしたら、今しか無いの。燃やされてしまったら、もう仲直りできないわ」

「でも、あなたにはお金なんて──」

「いいえ、ほけんきん? を持ってきたわ! いくらでも使ってちょうだい!」

 そう言って、少女は封筒から紙幣をぶち撒けた。その多さに、ぎょっとしてシタイカザリは情けない声を上げた。それから、黒い髪を掻き、分かりました、と絞り出すように答えた。少女は、ほんと、と言って嬉しそうにツインテールを揺らした。

 シタイカザリは二つの死体を持ち上げ、作業台に乗せた。壁に寄りかからせて、二人を座らせる。遠ざかったり近づいたり、倉庫を行ったり来たりしてデザインを模索しているシタイカザリに、容赦無く少女は質問と好奇心を降らせた。

「ねぇ、シタイカザリさん? シタイカザリさんって、本当はなんて名前なの?」

「……それは、守秘義務で……それより、あなたの名前は?」

「私? 私はメアリー! あなたは?」

「守秘義務が……はぁ、私は、マシュー=スズキといいます」

 ミスター・スズキね、と楽しそうにメアリーは繰り返す。スズキという名前はこの辺りでは珍しいからだ。綺麗な名前ね、と言われ、シタイカザリはいよいよ大きな溜め息を吐き、自らの作業に戻った。

 裁縫箱を手にして、無造作に二人の手に糸を通した。二人が手を重ねている状態で固定しようという試みだ。腕を、手を、縛り上げていく。メアリーはそうやって手を繋いだ二人が出来上がるのを、食い入るように見つめていた。されど、シタイカザリの手が止まると、集中も解けて、店内を歩き回り始めた。その様子がいっそう、シタイカザリの集中を途切れさせるのだが……

 メアリーは上へ続く階段へと一歩踏み出した。シタイカザリは声を上げ、駄目だ、と言うが、その制止を聞くことは無い。上の部屋へ軽快な足音をさせて上っていくと、暗い部屋を見回した。

 たった一つの窓から入ってくる光以外に、その部屋を明るくするものは無かった。乱れたベッドの隣に置かれたテーブルには、一つの割れた写真立てが置いてある。その隣には、すっかりくたびれた日記帳が置かれていた。しかし、それ以上の物は何も無い。クローゼットを開けても埃臭く、同じような服が並んでいるだけ。冷蔵庫を開けても、中には簡素な栄養食品が並んでいるだけ。まるで生活感が無い部屋に、メアリーは不思議と惹かれるものを感じた。端から端まで眺めて、床の埃でさえ見つめて、「何も無い」を見ていた。

 しばらくして、軽く柔らかい足音をさせて降りてきたメアリーを、シタイカザリはマスク越しに、への字に曲げた口で咎めた。メアリーは叱られたのにもかかわらずへらへらと笑い、シタイカザリのことを星を詰めた目で見上げた。

「私の部屋にそっくりなのね、あなたの部屋!」

「……そっくり?」

 シタイカザリは糸を針に通す手を止め、ぴょんと跳ねてカウンター席に着いた少女を死んだ魚の目で見つめた。少女は、うん、と軽く返した。

「私の部屋も、なーんにも無いのよ。保健所の人は、それが変だ、って言ってたわ。でも、普通よね?」

「……私は……意図的に、そうしているだけさ」

「どうして? どうして、何にも無いの?」

「……あなたには、分からないでしょうね。何も無い方が、気が楽なんですよ」

 静かに語るシタイカザリに、少女は首を傾げ、分かんないよ、と素直に答えた。だって、それが普通じゃない──メアリーの返答は、シタイカザリの口を閉ざした。

 シタイカザリはふと、彼女の細い腕に目をやった。触ればすぐ折れてしまいそうな腕の至るところに、黒ずんだ痣がある。手の甲には、煙草を押し付けられたような痕が残っている。彼は表情を曇らせ、二つの死体へと目をやった。

 一度固定した二つの死体は、仲良く寄り添っているようだが、その表情は苦悶に歪んでいた。切り傷や風穴を縫合していけば、メアリーは、お医者さんみたいね、と言った。

「きっとママとパパも喜んでるわ」

「……『メアリー』。二人は、死んでいるんだよ。だから、喜んだり、何かを言ったりは、しない」

「そうかしら。口がきけないだけで、眠っているだけかもしれないわ」

「死者は、蘇らないんだよ。だから、喜んだりはしない」

「そうかしら。本当に喜ばないのかしら。望んでいないのかしら。

──でも、良いの。私が仲良しでいてほしい、って願うだけで。自分勝手なの、私。本当は仲直りなんか望んでないかもしれないわ。ただ、私がそう信じたいだけなのよ」

 心に投げ込まれた、重たい石。波紋を広げるのは、メアリーの奇妙に大人びた言葉ゆえ。シタイカザリは手を止め、眠る二人の死体を見上げた。

 二人は相変わらず険しい顔をしている。緩解によって多少その緊張は解けているとはいえ、お世辞にも安らかとは表現できない。苛立ちに任せて刺殺した父。抵抗のつもりで銃殺した母。手を繋ぐには相応しくない顔をしている。これからその頬を切って、縫い合わせて、笑顔を作ろうとしているのだが──

 メアリーに声をかけようとして、シタイカザリは言葉を失う。彼女は疲れたのか、カウンターに顔を伏せて眠っていた。

 時計の針の音だけが、シタイカザリの問いに答える。彼が止まっていると信じたい時間は、刻一刻として進み続けている。ショーケースのウエディングドレスには、徐々に体液が滲んで染みが生まれ始めている。毎日取り替えている花を指す肉が腐って蝿を集らせている。お金だけが貯まり続けている。

 写真を見なければ、妻の顔を思い出せなくなっている。

 ……爆発事故だった。化学者だったマリアの美しい顔は、爆発で吹き飛んだ。焼け爛れた。無くなった顔の代わりに、マリアが愛した花を咲かせた。酷い死体の記憶は、美化されたマネキンの化け物に全て塗り尽くされた。

 思い出せない。マリアの醜い死に様を、思い出せない。だから、マリアはもう一度死ぬ。体が腐り落ちて、酷い臭いのするぶよぶよの軟体になって、また死ぬ。それでも美しく作り直す。それはいったい、なぜ?

 シタイカザリは大きく溜め息を吐き、徐に顔を上げた。あと少しで完成する、幻想の仲睦まじい夫婦に思いを馳せる。メアリーの心に焼き付いて、一生拭えないような、一生背負っていくような、偽りの幸せを、一針一針編んでいく。それが自分の使命なのだ、と独り言ちながら。

 外のショーケースに飾られた死体の顔から、一つ、また一つ、花が落ちていく。そのたび、酷く腐った肉の破片が落ちて、純白のドレスを汚していく。

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