紺野理香

 蔓草のような横文字がからみついたトランプケースは、一本の薬指を収める柩としてふさわしく見えた。

 かつて燦然たるスポットライトの注目のなかで、華麗なるワルツを踊ったこともある指が、往時の輝きをまとったままの優雅さで、金属光沢を放つ軽い柩を扱うのを、都筑未來つづきみらいは息を詰めて見守った。

 つい最近になってようやく、会社勤めの知人友人と同程度の収入を獲得することに成功したフリーライターの娘の前には、白磁のティーカップが、上質な葉で入れられたことを暗黙のうちに示す香気を立ちのぼらせている。若い訪問者のために紅茶を手ずから入れた主人は、一時間程度のインタビューののち、「珍しいものをお目にかけよう」と言って席を立ち、書斎から古びた金属のトランプケースを携えてきたのだった。

 都筑未來は、子供っぽい高揚感と世過ぎのうちに身につけた警戒感をないまぜにして、サンルームに差す冬の日をひっそりと吸い込むトランプケースに興味深く目を注いだ。縁日に連れ出される前の子供のような幸福な緊張感は、より金属の小箱の中身に、欺かれた驚きで無様に尻餅をつくことを恐れる疑り深さは、ケースを弄ぶ老いた手のほうに、より関心を向けていたかもしれない。歴戦の知将めいた微笑とともに、てのひらのうちのトランプケースを見せびらかす老主人は、ライターのひよっこが生まれるはるか前から、欧州大陸の夜会のシャンデリアの下を渡り歩いてきた名マジシャンであったから。

 事前にアポイントメントを取り、鏡宮かがみやハヤセを彼のつつましい城に訪ねると、引退した魔術師は、奇をてらった趣向で若い客人の意表を突くようなことはせず、親しみやすい物腰で自慢のサンルームへと招き入れた。老マジシャンは十年以上前に妻を亡くしており、三人いる子供もそれぞれ独り立ちして久しかった。

 ガラス張りの温室から中庭に目をやると、保水力が高く黒々と湿った地面に、名前もわからない薬草が、互いに絡み合いながら生育している。繁みには冬薔薇が一輪、赤く滴るように咲いている。薔薇からの連想で、日本人離れして大柄なマジシャンが、「吸血鬼ヴァンパイア」と呼ばれていたことを、都筑は思い出した。目の前で黒いタートルネックのセーターを着こなすマジシャンが、舞台上では、時代がかった闇色のマントという衣装を好んでいたからだった。

 香り高い輸入茶葉の紅茶をお供にしたインタビューの話題は、名だたる国際マジック大会における老マジシャンの華々しい戦績に尽きた。ほどよい自慢と謙遜を織り交ぜて語られる思い出話から、インタビュアーは、雑誌の記事の材料を十分すぎるほど手に入れることができた。

 見開きページの左右を帯状に飾るはずの、カード消失マジックの連写も手に入れて、都筑未來が満足しつつカメラの記録をチェックしていると、老魔術師は、いっとき中庭に面した書斎に姿を消して、戻ってきたときには薄い金属のトランプケースを手にしていた。

「これは、私の幸運のお守りなんですよ」

「へえ、中には何が入っているんですか?」

 カメラを握る都筑の手に力が入ったのを見て、鏡宮ハヤセは、「申し訳ないが、写真はご遠慮いただきたい。これは、非常に大切な品なのです」とものやわらかな口調で、しかしきっぱりと断った。

「このトランプケースに収めているのは、かつて私を愛してくれた女性の薬指なのです」

「指ですって?」

 都筑未來は、ぎょっとして低い叫び声をあげる。ライターの娘は、瞬時に胸に浮かんだ二、三の現実的な解釈を声に乗せるよりは、老マジシャンの説明を待ったほうが賢明だと判断した。娘の予想は半分当たって、魔術師はすぐに言葉を続けた。が、それは即座の判断を要する問いかけを含んでいた。

「さよう。見てみますか?」

 都筑はためらったが、老マジシャンの誘うような色素の薄い目にうなずいた。魔術師は我が意を得たりとばかりに微笑して、貴重な中世の祈祷書を紐解くように、ところどころ銀メッキのはげた小箱の蓋を開いた。

 小箱の中には綿が敷き詰められていた。そしてその波打つ綿雲は、白樺の枝をいましがた削ってつくったような瑞々しい一本の指を抱いていた。

魔術師は、すぐに蓋をぱたりと閉じてしまったので、指が目に映じた時間は短かった。それでもライターの娘には、ローズクウォーツにも似た、血色のよい小さな爪まで見て取ることができたのである。都筑は、あれは生きた指だ、と思って戦慄した。

 ガラスの天井が、冬の明るい日を何倍にも増幅しているにも関わらず、都筑未來が手をついている青銅のテラステーブルは、非生物の温度を肌に直接伝えていた。

「二十歳になりたての私は、修行のためにドイツを旅していました。深緑によどむライン河のほとりで知り合った、黄昏色に光る金髪の娘は、愛の証として、血の通った大理石のような白い薬指を、私に預けたのです。一年ののち指とともに必ず戻ってきて、彼女を妻とする。別れ際に娘と取り交わした約束でした」

 驚愕に目を見張った都筑の視線の先で、鏡宮ハヤセは懐かしむような目つきをした。

「ここに指があることから明らかなように、約束は果たされませんでした。神聖な約束を破ったのは、私のほうです。一年のうちに首都で名を挙げ、預かった薬指に藍宝石の指輪をはめて、彼女を娶りに帰ると誓ったのに。彼女は若く愚かな私の誓いに、彼女自身の身体の一部をもって応えたというのに」

「ですが……、そのケースに入っているものは、まだ血の通っている指です。四十年以上も前に切り落とされた指じゃありません」

 都筑は唾を飲み込んで、声が震えないようにできる限りの注意を払った。

 魔術師はゆっくりと笑った。ライターの娘は、おぞましさによる震えが背筋を駆け上がるのを覚えた。半世紀近くも前に切り離された指が今なお生きているなら、その元の持ち主が、尋常の人間ではありえない。

「私を愛した娘は、ライン河の精霊、ローレライでした」

「ローレライ、ですか?」

「河をゆく船頭を深い淵へと誘う、美しい死の精霊。娘は指を渡すとき、金塊を溶かしたような長い髪をしとどに濡らして、私にこう言いました。自分と結婚するなら、私に新しい生命をくれると」

「新しい生命……?」

「彼女と暗い水底の生活をともにするための生命です。この世のほかの生命です。しかし、私は彼女の元には帰りませんでした。ライン河のほとりの、岩の崖の狭まったその土地には二度と訪れぬまま、私は日本で安穏と暮らしている……」

 若いライターの娘は、自分の身体の一部を預けてもいいと思えるほどの想いを抱けるだろうか、と自問した。たとえば右耳を、小指を、片腕を、積極的に預けられるほどの人を持てるだろうか。けれど、どこをどう探してみても、うなずいている自分を胸の中に見つけ出すことはできなかった。

 老マジシャンは、かつての恋人の薬指を収めた柩の蓋を、愛おしむようにさすった。

「ローレライの座る岩の下には、ラインの黄金が眠っているのだそうです。その伝説を真実と証明するように、娘の指を持ち逃げした私は、その後の奇術師コンクールで次々と、莫大な賞金を我が物としました」

 鏡宮ハヤセは、勝利に疲れた老将軍のように、青銅の椅子に重たく背を預けた。

「指が錆びついて、舞台の上を退いてから、考えるようになりました。あの娘は、まだ私のことを、いえ、私が持ち去った彼女の薬指の帰りを待っているのではないかとね。このサンルームで日を浴びて、うつらうつらと夢うつつをさまよいながら見る幻は、どこかの街の、黄昏に沈む運河を泳ぐあの娘のぼんやりとした影ばかりです。死ぬ前にはもう、彼女に指を返すことはできんでしょうな……」

 ひとりごとのようなセリフを打ち切って、魔術師は突然、思ってもみない方向に話の舵を切った。

「私は死んだら、土葬にしてほしいのですよ。なすすべもなく焼かれて、もろく汚い骨なんぞを子供や友人たちにさらしたくないのです」

 苦笑まじりの言葉には、もしかしたら、「吸血鬼」という自身のイメージを守ろうとする意思も込められているのかもしれなかった。

 老マジシャンの前を辞そうとして、ライターの娘は呼び止められた。マジシャンが、「おや、こんなところに何か……」と何気ない仕草で、短く切りそろえた娘の髪に手を伸ばす。

 目の前に差し出された手には、紅の冬薔薇が開いていた。魔術師は微笑している。はっとしてサンルームの外に目をやると、先ほどまで繁みに咲いていた一輪の薔薇はどこにもなかった。

 小さな水晶宮クリスタル・パレスを出た都筑未來は、外の空気を吸い込むと、極寒の野外から帰宅して熱湯のシャワーを浴びた者のように、急速に現実感を復活させた。

 真紅の薔薇を指の間で回しながら、薬指の柩は、老魔術師の手品の一つだったのだろう、とライターの娘は自分に言い聞かせた。よくできた小道具と類を見ない演技力に、すっかり信じ込まされてしまったのだ。

 鏡宮ハヤセは、見送りはここで失礼、と断って、サンルームに留まった。

青銅の背もたれに体を預け、軽く目を閉じたマジシャンに、黄昏の薄闇をたっぷり溶かし込んだ、いずことも知れぬ街の運河の波が、眠りと手を取り合って走り寄っていく。


 魔術師が死んだのは、薄黄色のセロファンを重ねたような蝋梅が、道に香り出す早春のことであった。

 夕飯時の各局のニュースはこぞって、故人が生前に立った舞台の映像をバックに、老マジシャンの輝かしい戦勝リストを読み上げ、二分後には、今週末の春一番の予報に移っていた。

 葬儀の気味の悪い顛末について、都筑未來に一報をもたらしたのは、雑誌の編集者をしている筒井曜だった。

 あらゆるヘアアレンジをはねつけるまっすぐな黒髪を一つに結んだ、読書家の編集者は、都筑の大学時代からの友人である。学生寮の相部屋で、四年間背中合わせの机で勉強していた。

 彼女が編集に携わる旅の情報誌には、依頼を受けた都筑もしばしば原稿を寄せている。次期編集長を目されるやり手の編集者次第で、都筑は、奄美大島でハブの餌食になりかけたり、北海道でヒグマの餌食になりかけたりするのであった。

 待ち合わせのカフェに遅れていくと、筒井曜は、ホットミルクにコーヒーリキュールを垂らしたものを飲んでいた。友人は、毒舌なくせに甘党なのである。

 都筑の遅刻癖にひとしきり訓戒を垂れたあと、若手編集者は切り出した。

「告別式に顔を出したうちの編集長が、葬儀場の隅っこで親族がひそひそ話してるのを聞いたって言うんだけどね」

 生前の意思に反して、故人は仏教式に火葬に付された。そもそも、鏡宮ハヤセが、子供に対して土葬を主張していたのか、都筑にはそれさえわからない。

 青白い死者の寝顔の周りに生花が詰められ、柩の中には新品のトランプが華麗に散らされた。ドライアイスで冷たく硬直した遺骸を、生前に舞台上の彼を気高く見せた闇色のマントが覆った。

 長女を筆頭に、親族が涙を抑えながら、重い柩の蓋を閉める。故人よりも年上の者から、小学校に入学したばかりの年少者に至るまで、小ぶりの金槌が手から手に回され、柩の蓋を打った。一昔前なら本物の釘を打ち付けたところを、現在では遺族の心情に配慮して、儀式的に金槌を振り下ろすことで済ませるのだ。

 火葬場に送られた棺桶は、再度親族によって囲まれ、頭の部分に設けられた窓が、最後にもう一度だけ開かれる。

 遺族たちは、写真と映像を除いては、二度と再び見ることはかなわぬ故人の顔と対面した。火葬場の職員の白手袋をはめた手によって、音もなく窓が閉じられたとき、すすり泣きが一際高く響いた。

 故人が一〇〇〇度の高温で焼かれている間、親族は控え室に移動し、ビールと煎茶で喉を潤しながら、奇術師の死を悼んだ。どれほどの人格者といえども、真剣にその死を嘆き続けるには一時間は長い。四方山話に脱線してしばらく、お骨上げのために再集合を求められた親族たちは、粛然とした態度を作り直して、控え室を出た。

 喪服姿の人々の前で、火葬炉が開く。引き出された台車の上には、老人の細い骨が、生前の体内における配置を保ったまま、散らばっているはずだった。

台車の取手を引いた火葬場の職員が、押さえきれぬ驚きの声をあげた。その驚愕は、すぐにお骨上げの立会人たちにも伝染した。

 柩の灰で白く汚れた台車の上には、一片の骨さえ見当たらなかったのである。

いかな末期の骨粗鬆症患者の身体でも、火葬炉の台車の上に何の痕跡も残さずに焼き尽くすことなど不可能だろう。遺族たちは、収めるべき遺骨を見失って虚ろな骨壷を抱え、途方にくれた。

空想上とはいえど十数本もの杭を打たれた柩と、ロックのかかった火葬炉。稀代のマジシャンは、以上二重の密室から、自身の遺骸をさっと鮮やかに脱出させてみせたのである。

 柩は人生で最後にまとう鎧だと言ったのは誰だったろう。都市伝説として笑い飛ばしてもよさそうな筒井曜の話に耳を傾けながら、都筑未來は考えた。鏡宮ハヤセはついの鎧を利用し、今生最後の華々しいマジックを演じて、衆人の度肝を抜いたのだ。

 もしくは、老魔術師の身体はすでに彼の支配のもとにはなかったのかもしれない。四十数年前、永遠の愛の対価として、新しい生命を与えようと約束した精霊の娘は、若き野心家の青年が彼女のもとから逃げ去る前に、一足早くマジシャンの身体に、人ならぬ性質を授けていたのではないだろうか。

 老魔術師が遺体すら残さずこの世を去ったあと、気になるのは、あの美しいローレライの薬指を収めたトランプケースの行方である。家を整理した遺族が発見して気味悪く思うだろうか、中庭に面した書斎の奥にひっそりと眠ったままだろうか。それとも、やはりあれは、ライターの小娘を騙すための、奇術の小道具の一つに過ぎなかったのだろうか。

 ライターの娘の目に映じるのは、薄暮の淡い闇に満ちた書斎の風景である。埃をまといはじめたカーテンの隙間から、浅い春の夜の冷気が忍び入ってくる。落ち着いた色合いの書き物机に寄り添うように、重厚にきらめく黄昏色の髪を長く垂らして、魔性のひとが影のようにひっそりと立っている。その表情は濃い陰影に塗りたくられて、見ることはかなわないが、繊細で美しい造作をしていることが察せられる。

 薬指の欠けた白い左手にのせられているのは、鈍色に光るトランプケースだ。不意に、濃い河のにおいが夕闇の室内を満たす。腐りかけた水草と、盲いた魚のひそむなまぐさい淵のにおい。何世紀にも渡って船と人の屍体の溶け込んだ冷たい水が、金属の小箱を濡らした。

 そこに生命を保つための甘やかな空気がないとしても、深く暗い淵の底へと引きずりこみたかったひとは、もはやこの世のどこにもいない。半世紀を経て戻ってきたのは、指輪の締め付けの跡もない、まっさらな白い指だけだ。

 ひさしぶりに取り戻した薬指は、錯覚とはっきり悟っていてもなお、ラインの黄金よりも重たく感じられた。その重みと永遠の虚無を引き受けてくれる者は、有史と名づけられた時のなかを探してみても、たやすくあらわれはしない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紺野理香 @hoshinooutosamayoerumizuumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ