二十一日目

「もう一杯持ってこいやァ!」

「久しぶりの酒、最高だよなァ」

 テーブルでくつろぐ二人組を眺め、秋桜は苦笑して酒の瓶を持ってきた。酔いどれ二人組に酒を注ぎ──決して、女性が酒を注がなければならないという決まりがあるわけではないのだが──秋桜は小さく息を吐く。もう何杯目だろうか、と考えているのだろう。

 つい一昨日、開催が決定した「自己収容記念日」。毎月始めの休みに催されることになったこの晩餐会では、日頃酒を呑まないようにしているあたしたちが──あたしは呑めないのだが──飲酒を楽しむ。というのも、あたしたちのほとんどが日々抗うつ薬を服用しているから、アルコールを摂取できないのだ。

 アルコールの有無など、あたしたちの精神にはさほど影響しない。一度だけ酒で痛い目を見たこともあるけれど、あれはあたしたちが悪いのではなくて、酒を呑ませて軟禁した奴らが悪い。あたしたちは悪くない。そのときのあたしは、泣いて帰りたいと言ったものだ。あたしの口を押さえた秋桜の手に噛み付いて、帰る、と泣いたものだ。その一連の流れを見た者はいなかったのだけど。

 お酒が嫌いなわけではない。むしろ、ゲラゲラ笑って流暢に会話している牡丹や雛芥子のように、あたしたちはお酒が好きな方だった。羽目を外せるからでも、テンションが上がるからでもない。お酒を呑むというその行為そのものに、あたしたちは二十年間焦がれてきたものだ。

 高校生が大人の真似をしてブラックコーヒーを飲むのと同じ。高校生が男優の真似をして煙草を吸うのと同じ。ただ「お酒を呑んでいる」という感覚に、あたしたちは充足感を覚えるもので、ブラックコーヒーが苦いだとか、煙草が臭いだとか、そういうのはどうでも良い。その苦さと臭ささえ、これこそ大人の味、なんて思うのだろう。あたしたちもそうだ。

「ちょっとー、ヒナゲシぃ? 明日学校なんだから、あんまり騒がしくしないでよね」

「ったって最悪二時から始まるんだろォ? だったら思う存分寝ちまえよなァ、課題だってあらかた終わってるんだしよォ?」

「そうそう、あとはノートまとめだけだろうがよォ。邪魔すんなよなァ」

「チッ、酔っ払い男どもが。羨ましいねェ」

 薊はそう吐き捨てて缶をゴミ箱へ投げ捨てる。薊が呑んでいたのは、甘い蜂蜜レモンのリキュールらしい。あたしも一口だけ分けてもらったことがあるけれど、お酒とは思えないくらい甘かった気がする。なかなか呑みやすいお酒だったな、と思う。

 一方で、大人組が呑むのは──もちろん、薊と蜜柑と秋桜もお酒を呑めるくらいには大人なのだけど、雛芥子と牡丹とは年がかなり離れているから、そう呼んでいる──苦い苦いビール。のどごしが良いとか言うけれど、あたしには全く分からない。苦い汁なんて呑まされて喜ぶ奴がいるだろうか。そう思うのだけど、これもまたブラックコーヒーと同じで、呑みたいと思って呑んでいるうちに慣れてしまうんだそうだ。

 大人は酸いも甘いも噛み分ける、なんて言うけれど、格好つけてるだけで、実際は慣れてしまって舌が馬鹿になってしまっただけだと思う。

「アタシはみかん味のリキュールだよ。秋桜は?」

「私は少し弱めのワインを。何かつまみは必要?」

「アタシたちは良いかな。リンドウは? 何かお菓子食べる?」

「今日はいい……お腹いっぱいだもん」

 倦怠感のせいで長い息を吐く。最近分かったことだけれど、ご飯ばかり食べているとお腹が早く空いてしまうのだけど、肉や野菜を食べるとお腹が空かないみたいだ。お腹の中でかさ増しされた食べ物のせいで気持ち悪い。サバイバル生活でもそうだけれど、毎日じゃがいもを食べても生きていけはするけれど、やはり品が増えるとさらに心が豊かになる気がする。逆に肉ばかり食べていても体に悪そうではある。

 自らを収容する生活では、何事も最小限に、贅沢はしないというのが常套手段だし、戦時中の人たちもそうやってしのいできたのだろう。でも、幸運なことに、まだ世界は終わり「かけている」だけで、終わって「しまって」はいない。あいも変わらず、あたしたち中流階級の日本人は、食べる物にも飲む物にも困らない。そういう人間が我慢をして、それこそラマダーンをしても良いのだけど、しょせんそんなの、自己満足だ。食べられるなら、残さず食べる。呑めるのなら、余すところ無く呑み尽くす。烏滸がましいと言われそうだけど、あたしたちにできることなんてそれくらいだと思う。

 とはいえ、サバイバル生活中に酒で酔いつぶれるのは感心しない。世紀末の世界、寂れた街角で、酒でも呑まないと生きてけないよ、と漏らす老人みたいだ。雛芥子と牡丹は、いよいよよく分からないことを言い出して、雛芥子は牡丹を膝枕しているし、なんてダメ男たちだろう。

「ホント、酒って人をおかしくするよねー。あたしは呑まなくて正解かも」

「人間の心を狂わせるものは、金と恋と薬だとアタシは思うよ。煙草も酒も、ある意味では薬だし。ヒナゲシもダリアも、金と恋には困ってないから、薬だろうね」

「そいつァ違うな。人間の心を狂わせるのは、ひとえに孤独だと思う」

 蜜柑が半笑いで言ったことを、薊があっさり一蹴する。得意げに顎を突き出した薊に、その心は、と蜜柑は優しい声をかけるのだった。

「金を求めるのも、愛を求めるのも、薬を求めるのも、全部全部孤独のせいだとボクは思うよ。渇望した人々を潤すのが、金と恋と薬ってだけでね。

そうでもなけりゃァ、最近の人間どもの暴動の説明がつかねぇだろ」

「そうね、感心できないことね。人々は満たされないから壊れてしまうのかしら。ヒナゲシも、ダリアも……」

「聞いてないことを良いことに言わせてもらうが。毎日毎日誰かと呑みに行きたい大学生も、それにのこのこついて行ってる奴も、みーんな狂っちまってんだよ、足りないから。今の御時世、足りないものだらけな人間たちが多すぎる。感染症騒ぎが広がって、人と接することさえできない、金も手に入らない、そんな孤独ゆえに狂ってんだよ。酒に呑まれないためにゃァ、そういう渇きを潤す方法を見つけなきゃいけないのかもしれんなァ」

 薊は最後の一口を飲み干し、ご馳走さん、と言ってコップを戻しに行った。その背中が少し小さく見えて、なんだか老けてるなぁ、と思ってしまう。

 孤独を選んだのは、他ならぬあたしたちだ。

 他の生存者たちは、感染のリスクを恐れつつ、さりとて不安に負けたくないがゆえに、誰かと群れたがる。ときには仕事を理由に、ときには息抜きなんてホラを吹く。誰かと触れ合うことを恐れながら、誰かと接する。それって、別に世界中が感染者だらけになったからではなくて、元からそうだったのが顕在化しただけじゃないかと思う。

 あたしたちはその流れに真っ向から逆らってしまった。世界が滅ぼうと滅ばなかろうと、あたしたちだけを信じることにした。そうしてしまったのは、もちろん自分を守るためなのだけれど、そうしかできなかったのは、たぶん──薊のことを、老けてるなぁ、と思ったのと同じなのだろう。

 アルコールの臭いは、今もつんと鼻を突く。雛芥子と牡丹に近づいてしまえば、その臭いは鼻が曲がるほどになる。あたしはこの臭いがあまり得意じゃない。でも、得意じゃなくても良いのかな、とも思う。ブラックコーヒーの良さなんて分からなくても良いし、ビールののどごしだって分からなくていいや。食べたいときに食べて、食べたくないときは食べない。あたしが寂しくない限りは、それで良いかな。

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