幕間『朽ちた玉座に座す者』

幕間『朽ちた玉座に座す者』

 彼とのファーストコンタクトは、正直言って最悪だった。僕は一切の好意を抱かなかったし、彼も僕に一切の好意を向けなかった。

「初めまして、瑠衣の弟です」

 確かに彼は僕の知り合いの弟だった。知り合いによく似て顔立ちも良く、双子だというのは本当らしかった。でも、彼は最初、自らのことを瑠衣の弟──まるで瑠衣の付属品のような扱いをした。

 それを聞いたとき、彼はずいぶんと卑屈だということがすぐに分かった。面白くなかった。じとりと光の無い瞳で見上げられるのが、どうも嫌だった。

「初めまして、榊原拓馬君。僕は龍宮寺未音、『瑠衣君の先輩』だ」

 僕の自己紹介に、拓馬はそっけなく、よろしくお願いします、とだけ言った。そして、眉を寄せて泣きそうな顔をしてみせる。

 急に泣かれても。慌てて隣の瑠衣に目を向けると、彼は乾いた笑い声を上げた。

「顔、凄いことになってますよ」

 女子に向かってそれは何だよ、と言おうとしたところで、はっと気がつく。自分は眉を寄せて厳しい顔つきになっていた。傍から見れば、三年生の先輩が新入部員に睨みをきかせている図になる。

 謝れば、拓馬はおどおどした様子で、す、すみません、と言って頭をぺこぺこと下げる。僕のことなんて覚えなくても、と続ける。

 嗚呼、ますますつまらない。後輩が先輩を敬うのは当然なのだ。当然すぎて、つまらない。

 かたや、隣の兄はケラケラ笑って僕をからかう。むしろ、こちらの方が面白い。僕は敬意なんて求めていないし、いっそ傲慢なくらいが丁度いい。

 それに、拓馬の死んだ目を見ていると、心の奥底で燻る、酷く臭くて熱いものを感じる。怒りや悲しみ、嫉妬などでは表し得ない、痛みを伴ったもどかしさと絶望。ゆっくり脈打つ心臓が腐って、壊死して、それでも動いているような、不快な感覚。

 拓馬が目を逸らしてくれて助かった。自己紹介が終わると、彼はまた机に戻ってレポートに数式を書き始める。彼はこの部室に来てからずっと、出された課題をこなすことしかしていない。真面目だなぁ、と言う他の部員とは違い、僕は少し苛々していた。

 すらすらとペンを動かし、止まること無く数式を書いていく。その答えは全て正しい。三年にもなって、文系の僕は数学が苦手だし、並の理系だってこんな複雑な問題を迷わずに解けやしないだろう。

 噂通りの秀才だ。だから何だ。僕が求めているのは、真面目に学校から出された課題をこなしているような、そんな天才じゃない。むしろ、課題なんて出さないくせに、いつもテストでは満点を取るような、わくわくする天才だ。

 きっと、拓馬は酷く模範的な優等生で、かつ、卑屈でふさぎ込んだつまらない人間なのだろう。別に僕はクラスの大多数のように、ノリが良いだけの生徒を面白いと称しているわけではない。

 僕が見たいのは、普通の人間が隠す、ぎらつくものなのだ。



「後輩には優しくしなきゃ駄目だよ?」

「評価が厳しいな」

「だって、何だか気に食わなくって」

 昼食の時間は、いつも如月飛鳥と世良晴彦のもとに行って雑談をしている。彼らは僕の目から見れば、非常に面白い人間だ。

 飛鳥は後輩を可愛がるタイプだし、晴彦も堅物そうに見えて価値のある後輩には非常に甘い。僕だって、価値を見出だせる面白い人間であれば猫可愛がりしたことだろう。

 毎日自分で弁当を作ってくるらしい飛鳥は、晴彦と僕の弁当箱に自信作のハンバーグを勝手に乗せながら、口を尖らせて言った。

「だって、噂通りの天才君だったわけだよ? 全国模試でもトップクラス、人並み外れた才能の持ち主。未音ちゃん、天才君大好きでしょ?」

「そうだけどさぁ……別に、自我の無い勉強まっしぐらな量産型を見ても」

「ふむ……貴様が気に食わないのは、量産型を見たからではないと思うが」

「え?」

 ハンバーグを箸でそっと掴み、晴彦はそう言った。ソースの香りがこちらまで漂ってくる。返答は無く、彼は飛鳥に貰ったハンバーグを食べている。何か言ってよ、と僕と飛鳥が返した。

 量産型──つまり、どこにでもいそうな人間ということだ。僕がクラスでの行動を嫌う理由はここにある。量産型の人間達が、量産型らしく何も考えずに何かに取り組む様が本当に嫌いだ。

 それ以上に、後輩を好きになれない理由があるとは思えない。僕は面白みのある人間ならたいてい好きになるのに。

 白くぼやけた光が晴彦の眼鏡に映っている。なかなか返答の無い晴彦の代わりに、飛鳥が口を開いた。

「でもさ、その後輩の話を聞いてると、未音ちゃんと似てるなって思うよ」

「どこが?」

「真面目なのに、自分を見下してるとこ」

 飛鳥は僕の机の上を指差す。机の上といえば、テストに向けて勉強している跡がある。単語帳、ノート、参考書。在り来たりな勉強手段達。

「未音ちゃんってやりすぎなくらい頑張ってすぐ体壊すし、クラスで一番取ったって、僕はまだまだだから、とか言って誤魔化すよね。私、よく分かってるよ」

「いや、だって親を黙らせるには全然足りないし、志望校にはまだまだ届かないし」

「まだ四月だよ? そんなに焦らなくたっていいのに」

 確かに、他のクラスメイトでこんなに真面目に勉強をしている人なんていないだろう。晴彦は根っからの天才だし、飛鳥は頑張らなくても器用にそれなりの点数を取ってみせる。

 しかし、僕に限っては違うのだ。点数は生命活動を左右する。僕のライフラインが切られるか否かの問題なのだ。だから、卑屈とは違う。決して自分の能力が劣っていると思っているわけではない。

「本人は気がついていないようだが」

「なに、世良はさっきから何を言いたいの」

「あ、分かるかも。どっちかっていうと、自分を大切にしてない感じ? そうでしょ?」

「そうだな、如月の言うとおりで合っている」

 晴彦と飛鳥はさすが幼馴染と言わんばかりの以心伝心である。二人とも言葉が足りないのだ。僕は呆れてものも言えず、天を仰いだ。電灯の冷たい眩しさに目を細める。

 だが、考察することはできる。僕は自分の理想に向かって身を削りがちなのだ。人間は少なからず理想主義であるし、理想のために自己加害に至り、理想とのギャップに身を焦がすものだ。

 しかし──僕が本当に面白い人間なら、受験生らしく勉強なんてしないだろうに。



「君、普段は何してるの? 趣味は?」

「趣味、ですか……? えっと、ゲームも好き、ですし、ギターも弾きます、し、勉強も好きです」

「多趣味なんだね」

「えっと、その……無理して話さなくても、いいんですよ……? 僕のこと、気に入ってないのは分かってるので……僕に付き合う利益も、無いですし」

 僕は数学の問題に頭を悩ませながら、拓馬は缶コーヒーを両手で持って飲みながら話していた。

 結局、飛鳥と晴彦が仄めかしたことが頭から離れなかった。自分の燃えたぎる好奇心が、なぜ彼を厭うにあたるかを突き止めたいと叫んでいるのだ。それに、どこをもって似ているのか、僕にはまだはっきりと分かっていない。

 もちろん、退屈な人間と話すのは退屈しのぎにすらならない。有益なことは何も無い。しかし、この観察と研究が終わった暁には、何かしら有益で面白いことも見つかるだろう。

 会話も生まれないので、拓馬に目もくれず、数学の課題を進めていくも、なかなか解けない。理系で三年間やってきた人間には、やはり計算速度で負けてしまう。単純計算ですら手間取るようでは、複雑な入試問題には叶いそうもない。

 沈黙が続く。他の部員の談笑の中、異質な気配。顔を上げれば、缶コーヒーを持った拓馬は、ずっとこちらを見つめていた。すぐに顔を下ろし、再びペンを動かす。

「何か?」

「ひっ、いや、何でもないです」

「はっきり言いなよ」

「……その、四則計算も間違えるのかな、って」

「は?」

 顔を起こせば、拓馬と目が合う。すぐに手を止め、計算式に目を移せば、最初の計算から大きく間違えていることに気がつく。すると、他の式に代入しても答えは出ない。僕が必死に解の公式を使う必要も無い。

 大きく溜め息を吐き、改めて解き直す。エックスの値は一桁の整数。今までの苦労は何だったのか。

 再び拓馬に目をやると、缶コーヒーを一口飲んで息をついていた。この分野は一年生の初期で学ぶことの応用であるから、現役ができるのは当然だろう。

「ありがとね」

「え? はい、いえ、お気になさらず」

「君って数学が得意みたいだね。さすが、真面目にやってる現役は違うよ」

「やればできるでしょうに」

 拓馬の言葉使いに、ふと、冷たいものを感じる。思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまった。彼とまた目が合えば、僕の映る目が僅かに光を持った。その後、彼は手で顔を覆って、すみません、と二回言った。

 その慌て方に、他の同期が、彼のことを可愛いと称した理由を察する。なるほど、確かにこのような照れ方をされれば愛くるしいと感じるのも妥当だ。

 しかし、僕はむしろ震えた。あの、うじうじして自分を卑下する拓馬から、一瞬でも突き離すような言葉が出たのだ。今までに見たことがない新しい顔だった。

 僕の知っている、ただつまらないだけの彼とは違った。



 家に帰っても、ただいまは言わない。僕がいようといまいと奴らには関係が無い。奴らが欲しているのは年頃の女性ではなく、お目々をきらきらさせて言うことを聞いてくれる少女だ。

 何も言わないまま、自室に向かう。何の音もしない。荷物を置いて、ノートを出して、また座る。携帯は弄れない、あまり触りすぎると通信量でバレてしまう。やっと高校になって自由に使えるようになったのだ、屁理屈をつけられて通信手段を切られては困る。

 シャワーも睡眠もそっちのけで、再びノートに目をやる。今度は世界史だ。暗記は回数が物を言う。流れを理解するのも忘れないように、時々教科書を開く。

 オレンジ色の文字を赤いシートで隠す。緑のシートで文の一部を隠す。要らない紙に単語を書き綴る──つまらない。非効率的だ。それでも、僕は平均点では許されないのだ。

 集中も極まった頃、ノック音で我に返る。冷たく鼓膜を震わせる。

 ぷつん、と集中の糸が切れればそこまで。扉を開けば、険しい顔をした母親がこちらを睨みつけていた。

「ただいまくらい言いなさいよ」

「ただいま」

「こんなに遅く帰ってきて、どこかで遊んできたんでしょう? 夕飯は?」

「図書館に勉強をしにいってた。夕飯要らないって朝言ったよね?」

「連絡もよこさなかったじゃない」

 怪しいな、と言い、母親は扉を乱暴に閉める。凍てついた金具の音。悍ましいことだ、誰が携帯を触らせないようにしたと言うのだか。

 再び机に向き合い、今度は物言わぬ教科書と睨み合う。何も話さない。小説はたくさんの物語を僕に話して聞かせてくれるが、教科書は歴史の内容を無感情に語るだけだ。僕を叙述トリックで騙してもくれないし、安っぽい展開で泣かせてもくれない。

「つまらないなぁ」

 ただ、面白くない、それに尽きる。

 勉強が嫌いなわけではなく、むしろ好きな方だ。知らないことを知るのは常に魅力的だ。さながら、僕自身が探偵になって殺人事件を解き明かすような感覚に襲われる。

 しかし、受験勉強は違う。我々人類がAIに負けない貯蔵量と活用力をどれだけ持っているか示す、いわば人類の品定めにすぎない。答えは最初から分かっていて、いかに早くその答えを得られるかのかけっこ大会だ。しかも、走るときの風すら感じない。

 それを押しつける我が家庭も非常につまらない。進学実績に何の意味があるのか。医学部に行ってほしかった、文系なんて馬鹿みたいだ、と嘲笑った彼らは、所詮有名校の出でしかない。学校に行けば、もっともっと上、留学やら日本一の大学やらを好奇心のみで目指す最高に面白い人間が僅かにいるのに。

 苛立ちが熱になって手にこもって、シャーペンの芯が折れた。あ、という声を上げたのを最後に、今度こそ集中力が跡形も無く消えた。

 時刻は十一時。ペンを置き、大きく伸びをする。冷蔵庫の中のような、ライトの白い光が目に突き刺さる。冷たくて息ができない。

 今日はもう限界のようだ。廊下が静かであることを確認して、両親に会わないように部屋を出た。



 僕は何も言えずに英語の解答用紙を見つめていた。

 有名私大の入試問題から多く出されていたのだが、尽く間違えた。ケアレスミスなどでは決してない。本当に理解が及ばなかったのだ。

 残り十分を迎えて、僕には珍しく冷や汗をかいていた。何度も瞬いた。

解けない。分からない。どういう構造になっているのか、読み解けない。分かる単語と分からない単語の組み合わせで、どう訳せばいいかが分からない。

 他の科目は目標に届いていたのだが、英語だけは手が届く希望すら無かった。僕よりも点の高い人間など探せば何人も見つかるだろう。

「でもさ、英語の平均点ズタボロだったじゃん? 気にしなくていいよ」

「でも、世良は点数高かったでしょう」

「所詮八割だろう。お前だって平均点を超えてるんだ、別に良いだろうが」

「良くないんだよ。六割なんて見せたらどうなるか……」

 自分としては、問題が解けないという良い経験が早いうちにできて良かったと思っているのだが、現実はそう甘くはない。この点数を見せればどんな反応をされるかは明らかだ──絶対評価と題した相対評価で点数を見て、平均点も難易度も考慮せず、情けない、遊んでいるからだ、と文句を言われ、挙句の果てに小説まで取り上げられるだろう。

 それに、良い経験であったとはいえ、落胆していないと言ったら嘘になる。実力が及ばず、努力は報われなかった。目標に届く実力を親に見せつけるのが目標だったというのに。

「やっぱり焦ってるよね、未音ちゃん」

「焦ってはいるかもね」

「体壊さないでね? 私、本当に心配してるんだよ」

 何を他人事みたいに、と返す。飛鳥は保健室の常連であり、体調不良という言葉を擬人化したような人間である。いつも無理をしてからかわれているのは飛鳥の方だ。

 効率的に行うなら、これしか無い。倒れたって死にはしない。親からの目もあるから、うかつに倒れることもできない。

 本当に気をつけてね、と飛鳥は繰り返した。晴彦はまた飛鳥自慢の料理を食べさせられつつ、僕のことをじっと見つめている。心配されてしまっているらしい。

 喉奥に溜まっていた息を大きく吐き出し、伸びをする。細長い白熱電球が僕を冷たく見下ろしていた。頭が痛んで体が重たい。



 部活動に集まれば、今日も価値ある後輩達は話に花を咲かせている。僕はただ伏せて、時々話しかけてくる後輩に笑顔で返しつつ、英語の問題用紙に目を落とした。

 間違えた部分は早めに直しておかないとならない、受験勉強の基本だ。のんびりとした文化部独特の雰囲気や、お菓子パーティも大好きだが、今日ばかりはお休みするしか無いようだ。

 そんな心構えでしばらく問題を注視していたが、集中も切れた。やはり喧騒の中では集中できない性分なのだろう。顔を起こして辺りを見渡す。

 何人かの二年生に囲まれた真ん中で、拓馬があわあわしながら先輩の話を聞いている。新入部員は可愛がられるものらしい。

 拓馬は僕の視線に気がつくと、ぺこりとお辞儀をした。相変わらずの気弱そうな様子だ。

「こんにちは」

「こ、こんにちは……?」

「ちょっと話に付き合ってくれよ」

 いくら落ち込んでいるとはいえ、彼との共通点を解き明かしたいという願望は変わっていない。瞳孔が小さくなる感覚が分かる。腕に手を当て、目を逸しながら、ぎこちない動きで彼がこちらに近づいてきた。

 座っていいよ、と言って、目の前の椅子を指差す。拓馬はおずおずと着席し、俯いた。

「まるで面接じゃないか。肩の力を抜いてよ」

「は、はい……」

「別に君のことを嫌がったりしてないからさ」

「そ、その、何でしょうか」

 拓馬は僕に目も向けず、代わりに机の上のプリントを見ている。以前彼と話したときと同じで、彼は問題に興味津々らしい。本当に優等生様は勉強がお好きなようだ。

「何か言いたいことでも?」

「え? いえ、いえそんな」

「君は人よりも問題の方が興味深いんだね?」

「そ、そこまで言わなくても……」

 確かに言いがかりだったかもしれない。だが別にからかっているわけではないのだ。むしろ、面白がってほしかったのだが。

 拓馬は僕に指摘され、改めてテストを見ている。解いてみるか尋ねれば、僕の顔色を伺い、ペンを手に持った。

 僕が解くよりも遥かに早いペースで解いていくと、見直しもせずに僕に解答を渡してきた。答え合わせをすれば、全問正解。もちろん、この問題は私立大学の入試問題だ。本来、高校三年生になったって解けやしない。

 拓馬は机にペンを置き、じっとりとした死んだ目で僕を見つめた。返答を待っているらしい。僕はと言うと、すぐには言葉が出ず、口を噤んでいた。

 血が沸き立つような感覚は、決して正の感情だけではない。様々な負の感情を、好奇心でコーティングしただけの熱い感情だ。沈黙が続くと、喉が焼けて動かなくなってしまいそうで、息ができなくて、なんとか言葉を捻り出した。

「君、本当に頭がいいんだね」

「あ、いえ……そんな」

「もっと自信を持ちなよ。君は賢いんだ、天才なんだ。だって、僕が五十分もかけて解いた問題を、ものの十分で解いてみせるんでしょう?」

「僕をあまり買い被らないでください」

 拓馬は眉を下げ、僕から目を背けた。今度は彼のほうが口を結んだ。僕は無意識に髪をかき上げる。

 さすがに強く言い過ぎたかもしれない。いくら興味があるからといって、距離を詰めすぎても良くないだろう──そう思って謝ろうとしたその瞬間、彼が発した言葉は、決して拒絶などではなかった。

「当たり前にできることじゃないですか」

「当たり前……え? これ、私立大学の入試だよ?」

「はぁ、そうですか」

「『はぁ、そうですか』? 本気で言っているのかい?」

 別に怒っていたわけではない。今度こそは他の何の感情も無い、純粋な驚愕だった。彼は無感情な顔で首を傾げる。

 彼の中の基準がズレているのだ。なるほど、彼は並外れた秀才らしい。

「君が秀才なのは分かったよ。でも、僕たちは苦しみながら解いたんだよね」

「なぜ勉強で苦しむ必要が?」

「え? なるほど、君は勉強で苦しんだことが無いのかな」

「論理の飛躍にも程があります」

 髪を指で触り、目を背けた。拓馬の目が見られなかった。

 拓馬は変わらない無表情で答えた。嗚呼、確かに論理が飛躍している。動揺が露骨に現れてしまっている。もっと落ち着いて話せば、きっとまともなことが言えたろうに。

 彼の顔が少し歪んだ。苛立ちか、哀れみか。

「悪かったね」

「お気になさらず。僕にとっては、勉強はそんなに苦ではないので」

「僕にとっては受験勉強って苦痛でしかないんだ。だからびっくりしただけだよ」

「そうですか」

 言葉尻は冷たい。気弱さも恭しさも見られない、砕けて気取らない様子で、迷いなく話している。前に見た彼の姿と同じだ。模範的でつまらないだけではないのだが、妙な苛立ちは消えないままだ。喉に熱が引っかかったままで、部室にある衣装の布の香りが嫌に鼻をつく。

 卑屈なのは建前で、物事をはっきり言えるのが本性であるならば、それで十分ではないか。

 拓馬はまた黙ってしまった。しかし、忙しなく目線を動かしていた様は無く、非常に落ち着き払った様子で僕を見つめていた。

 勉強が苦痛でないのは素晴らしいことだ。もし僕もそうなら、もう少し受験勉強と良い戦いができただろうに。とはいえ、彼はまだ高校受験が終わったばかりの一年生なのだが。



「未音さん、私の従兄弟とは仲良くなれましたか?」

 特に何かがあったわけでもなかった。僕の愛する後輩は、さきほどまで僕の世間話を聞いていたし、彼女はそれにこくこくと頷いて楽しそうに相槌を打っていた。

 これだから彼女は、神崎美香は面白いのだ。唐突に僕の懐に潜り込み、冷たい刃を僕の喉元に突きつけてくれる。

 もちろん、兄の瑠衣とは仲良くしている。彼は美香とは違って距離を詰めてくるタイプではないし、八方美人で飄々としているから、ある程度まで仲良くなるのは容易い。

 一方で、弟の拓馬とは、まだ仲良くしているとは言い難い。当初ほどの苛立ちは無いが、彼と話していて不都合が無いとはいえない。相変わらず彼のことは理解し難く、見ていて複雑な気分にならざるを得ない。

「そうだね。特に、瑠衣君は面白い子だと思うよ」

「まぁ、貴女なら拓馬君の方をお気に召すと思っておりましたが」

「え?」

 美香は星を詰めたような黄色い瞳を爛々と輝かせ、クスクスと可愛らしく笑った。

 彼女の鋭い洞察力には敬意を払うが、現に僕は拓馬の方とは開襟できていない。彼女の考えが間違っているとは言いたくないし、おそらくは僕が彼女の期待するほど良い人間じゃないのだろう。

 あら、まぁ──美香は感嘆を漏らしながら、さきほど淹れた紅茶に砂糖を流す。上品な動作だが、今の一挙動で角砂糖三つ分は入っただろう。

「彼は貴女にとても近しい存在で、人間らしい歪んだ矛盾を抱えております。貴女を飽きさせない人格をお持ちだと思いますが」

「か、彼が僕に近いって……僕、あんなにふにゃふにゃかい?」

「いいえ? 貴女もご存知でしょう、彼が卑屈を装っているだけの自信過剰な方だと」

 卑屈を装っているだけで、自信過剰。僕はそう思ったことは無いが、時折卑屈の金メッキが外れるのは見ている。特に、自分の能力について言及されると、彼は途端に卑屈な態度を改める。自らを卑下することもあるが、能力の足らない自分を貶めるのと同時に、自分より格下の人間も見下すのだ。

──僕をあまり買い被らないでください。当たり前にできることじゃないですか。

 彼はそう言って僕の称賛を突っぱねた。その問題が当たり前にできなかった僕ごと謙遜した。

 僕が宙を見つめて考えに耽っていると、美香はティースプーンをくるくると回しながら続けた。

「彼は、皆様が御存知の人格とはかけ離れ、振る舞いが傲慢なのです。彼は歪んでいるのですよ」

「歪み、ねぇ。僕も、傲慢ゆえに卑屈になる人間を知っているよ」

「あはは、それならばつまらない人間だったでしょう。彼はおそらく、傲慢ですらありません。というか、彼は一途なんです」

 美香はそう言うと、ティーカップに口を付けた。一口飲むと、慌てて口を離す。どうやら猫舌らしい。

 一途の意味を辞書で引いてみたら、拓馬のような人間が出てくるだろうか。健気とは違う、忠実ともまた違う、一途な人間なのだろうか。そもそも、僕から見て彼は一貫していないのだから、一途という言葉が当てはまらないのだが。

 紅茶に息を吹きかける美香を眺めつつ、そんな疑問を投げかける。

「彼には芯が無いよ」

「彼には何かしらの行動理念があるのでしょう。どうしても、彼がお気に召しませんか?」

「気に入らないわけではないよ。なんというか、納得できない」

「まぁ、鏡を見てはいかがでしょうか。貴女の行動理念は、何なのでしょうか。彼にあって、貴女に無いものは?」

 投げかけた視線に対し、彼女は実に妖しげな笑顔で応えた。口角は端正に上がり、目は綺麗な弧を描いている。模範的な笑みなのに、その表情には不思議と含みがある。瞳はどこか仄暗い。

 目を逸し、そうだね、と答える。僕の行動理念は、一つと言えるだろうか。拓馬のように、何か強い理念があるだろうか。そもそも、信条は幾つあるのが模範解答なのだろう。

 僕が目指すのは、愉快で、効率的、そう、効果的なことだ。その二つに、辻褄はちゃんと合っているだろうか?

「おっと、少々傲慢な物言いをしてしまいました。私はただ、従兄弟をよろしく頼みたいだけなのですが」

「いいよ、面白かったし。美香ちゃんは、どうして僕が彼と仲良くできないんだと思う?」

「彼を見ていると、虚ろになるから」

 美香はティーカップを微かに傾けると、目を伏せて口角を下げた。あぁ、愉快だこと。彼女の呟いた言葉は、紅茶の水面に落ちた。

 彼女の残した、詩的で比喩的な言葉を反芻する。柔らかい日差しとアールグレイの香りで、少し眠たくなってきたから、謎を解くのは昼寝の後にしよう。



 瑠衣は足を組み直し、ケラケラと笑った。盤上に広がる、真っ黒な駒達と、彼が手にした白い駒。その対面に座り、一言、煩い、と憂鬱そうに呟く拓馬。

「やっぱり、俺はオセロが苦手みたいだな」

「君は思慮が甘いんだ。角を取れるからって誘いに乗るのは初心者までだ」

「はいはい、相変わらず耳の痛いご指摘だこと?」

 拓馬の鋭い指摘に、また笑い出す瑠衣。普段は気弱に見える拓馬だが、兄に対しては当たりが強い。瑠衣もそれを華麗に皮肉で返すから、食卓がひやりとするタイプの漫才のようだ。

 八かける八のマス目にはまだ空きがあるが、駒は全て拓馬の色、黒に染まっている。オセロは後手が強いと聞いたことがあるが、瑠衣は置ける場所を失って詰んでしまったようだ。

 瑠衣はふと僕に気がつくと、やりますか、と声をかけてくる。

「未音さん、オセロとか強そうですし」

「挙句の果てにチェスやら将棋やらも強いとか言うんでしょう?」

「まぁ、聡明な者同士、ちょっとやってみませんか。俺は見てますから」

「何だい、君はやらないのか」

「未音さんに勝てる気がしないので」

 瑠衣は席を立ち上がり、紳士がするようにお辞儀をして座るように促す。顔が少しもすましていなくて、むしろ愉快そうににやりと微笑んでいるのが愛らしい。僕を敬ってるんだか、からかってるんだか分からない。

 他方、椅子に座ったままの拓馬は、おろおろと落ち着かない様子でこちらを見たり、盤上を見たりしている。相変わらず卑屈で弱気な様を演じるつもりらしい。

 受けて立とう──僕は瑠衣の空けた席に座ると、盤上の駒を軽く取っ払い、最初の陣形を作った。聡明な者同士、ゲームで互いを測れば良い。

 後攻を拓馬に譲り、ゲームを始める。オセロは卓越して上手いとはいえないが、普通の人間よりは得意としているし、こういう頭を使ったゲームは大好きだ。負けると悔しいので決して口には出さないが。

 駒を置いて、ひっくり返して。拓馬は角を譲って、一列目を譲って、ほぼ間を置かずに駒を並べていく。僕がひっくり返し、途中で拓馬が大きくひっくり返すが、僕は彼の作った陣形の中に黒を置いて、そこを起点に再び取り返す。

 全て打ち終わったとき、そこには黒で埋め尽くされた盤面があった。自分の色に染まった地平を見ても、僕は笑わない。

「早いなァ。未音さんは強いみたいだな?」

「……君に、分かるとは思えないけど。強いよ」

 瑠衣が拓馬の背後から顔を出す。携帯を弄っていた彼は、残念ながらここまでに至る過程を見ていないようで、僕が大差をつけて勝った、ということしか知らない。

 満足げな瑠衣を黙らせるように、僕は、もう一回、と言った。拓馬のじっとりとした瞳が、僕を憂いげに見つめる。

「もう一回やるよ。僕は納得しない」

「未音さんは勝ち筋にもこだわるんですねェ?」

「そうじゃないよ、接待プレイなんて癪に障るだけさ」

 瑠衣は目を丸くすると、なんだ、そういうことか、と言って、口元を手で隠して笑った。拓馬の表情は変わらない。

 ノータイムで打ち込まれる機械的な一手、後先を考えない素人のような打ち筋。オセロのプロでないから詳しくは知らないが、他人を少ない手で詰ませるプレイヤーが次の一手を読まずに打つはずが無いのだ。よほど僕はつまらなかったようだ。

 もちろん、気に食うはずが無い。他人の手のひらで踊らされて勝利を味わうなんて、ちっとも名誉あることではない。だからこそ、再戦を申し込んだのだ。

「……わ、分かりました。では、次は未音さんが後攻で」

「いいよ。本気でかかってこないと怒るからね」

 僕の言葉を聞くと、拓馬は瞳を奥で一度光らせ、盤上を見つめた。

 拓馬が打った一手に応答し、僕も返していく。一つ打つごとに、彼は結んだ髪を指で弄りながら盤上を眺める。少し考えた後、打ち返される。

 そんなやりとりを何度も行った後、拓馬は唇に指を当て、目を細めて盤上を眺めた。僕が、あ、と声を出す。彼は少し悩ましげに眉を寄せ、目を逸して黙った後、静かに言った。

「……詰みですね」

 拓馬がそう言い、打ちどころの無くなった僕の白をひっくり返した。パスを繰り返させ、僕が築き上げた白の領土を全て黒く染めていく。終わってみれば、そこには孤軍奮闘する僅かな白の兵と、その周りを囲んだ無数の黒き兵があった。

 ああぁ、と情けなく声を上げ、机に突っ伏す。読みを誤った、可能性の考慮が甘かった。落ち着いて考えればまずい手だと分かるのに、彼の手に弄ばれた。

「負けました」

「何だよ、マジで手を抜いてたのか」

 伏せたまま声を出す僕と、喉を鳴らして心底愉しそうに嗤う瑠衣。拓馬は僕の言葉に返答しない。

 やっぱり憎たらしいくらい強いな、と瑠衣は言うと、さきほどから引っ切り無しに鳴く着信音に溜め息を吐き、教室から出ていく。突っ伏した僕と、それを無言で見ているだろう僕が、部室の一角に取り残されていた。

 今日はオフだから、部室には何人か遊びに来た人だけがいる。瑠衣は呼ばれてしまったし、残りの部員はお菓子を買いに行ってしまった。僕と拓馬は、盤を挟んで二人で黙っている。

「……何か、勝ち誇った一言は無いのかい?」

「いえ、ありませんが……オセロのチャンピオンでもあるまいし、自慢できたことでもないので」

「あぁ、またそれだ! 君は自分を卑下すると同時に、僕たちのことも見下すでしょう! オセロのチャンピオンでもない人間に負けるなんて、って含みを感じさせるよ!」

「はぁ……」

 嗚呼、呆れた。また似たようなセリフを聞く羽目になるとは。彼は無自覚に他人を怒らせる天才らしい。振る舞いが無自覚に傲慢なのだ。

 顔を上げて、眉を寄せて見つめ返してみる。拓馬は死んだ魚のような目で僕を見つめ返す。そんなに僕のことがつまらないのだろうか。

「君は人より賢いんだ、その能力を誇るべきだよ。どうして卑下なんかするんだい、つまらない」

「……そ、それは」

「だいたい、君は僕の解けない問題だって簡単に解けてしまうでしょう。君はこの学校には相応しくないくらい、才能溢れた人材だ。全国模試でもトップクラスって、」

「わ、分かりました、一つ言わせてください」

 拓馬は僕の言葉を遮り、目を背けて片腕にもう片方の手を添わせる。僕が言葉を待って黙っていれば、彼は小さく口を動かし、何かを言った。

「……何? もっとはっきり言って」

「定義不足です」

「はぁ?」

「『賢さ』とは何か、定義をせずに語るなど、『賢くない』人間がすることだと思いませんか?」

 返答に困る僕の瞳を、今度はしっかり見つめ、彼は少し吊目がちな目を開いてそう言った。酷く真面目で、真剣な口調だった。

 あはは、と意図せず笑い声が漏れ出した。お腹が痛い。面白くて仕方が無い。本当に心底真面目で、聡い人間らしい。テストの点だけで僕を値踏みするような親とも、漠然とした「賢さ」で彼を判断しようとしていたつまらない僕とも似つかわしくない、「賢い」人間のようだ。

 僕の笑い声に対し、拓馬は固く張っていた肩を下ろし、元のジト目に戻って溜め息を吐いた。馬鹿にしたわけじゃないって、と言っても、無表情のままだ。

「いや、君の言うとおりだよ、本当に。点数が取れるだけで天才なんて、なんて狭い基準だろうと」

「未音さんは、僕が思うに『賢い』人間だろう。だが、それが学業の出来には直結しない。一方、頭の回転は遅いが、勉学だけでいえば良い成績を得る馬鹿も存在する、違うか?」

「そう……そうかい?」

「そんなに僕を『賢い』人間とみなしたがり、理由を聞き出したくば、『賢さ』の定義をいただこうか」

 拓馬の最後の言い方は少々遠回りだ。彼の言葉には常に含蓄がある。本来彼が言いたかったのは、自分では自分のことを賢いと思っていない、だろう。であれば、拓馬が言った「馬鹿」とは、彼自身のことではないか──そこまでは、余分に推理できる。

 しかし、それにしても。やはり、客観的に見たって、拓馬は自分自身の評価を、「愚かにも」間違えている。どうしても不自然に見えるのだ。

「じゃあ、まずは勉学に使う能力の話を聞こうか。どうして君はそんなに成績優秀な人間なのかな?」

「教科書を読み込み、休み時間も返上して勉強する。参考書など、教科書を読み込んですらいないのに使える代物ではありません……と言えば、陳腐な秀才であることは分かっていただけるかと」

「君は、君自身を『何もしなくても何でもできる』天才とは思っていないんだね」

 また、自分の能力を正当に評価したあと、卑下した。彼の論法はいつもそうだ。まだ僕が何も言っていないのに、先回って自分の力を見下す。

 であれば、勉学ではない方の能力についてはどう思っているのだろうか。

「一般的に『頭の回転が速い』と呼ばれる能力についてはどう思う?」

「僕には審美眼はありませんが、頭を使うゲームについては少し得意な方かと。理由は特に無いだろう。しかし、またその言葉も曖昧なものですね」

「まぁまぁ、凡人の僕に合わせてよ」

「僕も並外れた人間ではありません」

 拓馬の癖ある返答がまた返ってくる。彼も凡人であり、決して賢くないと言いたげだ。眉を寄せて目を逸している様も、少し不機嫌なのが見て取れるし、わがままな王様か何かに見える。

 この様を推理すれば、彼が不自然な自己評価をする理由に、このようなものが考えられるだろう。

「拓馬君ってさ。賢いって言われるの、嫌い?」

「……ご明答……? いや、嫌いではありませんが、近しいでしょう」

「どうして? 自分で納得できない理由でも?」

「……理由は主に二つあります」

 拓馬は口の端を緩め、わずかに微笑んだ。本来は少し吊った三白眼になるだろう彼の顔は、瑠衣によく似て端正だ。無意識な表情はかなり似ているらしい。

 彼は片手で駒を弄り、それを見つめながら、穏やかなトーンで言葉を続ける。

「一つ目。賢明さは人を傲慢にします。知識というのは飾りであるはずなのに、権力と誤認する愚かな人間が多いのです。とはいえ、知識を軽視する人間は同様に愚かなのですが。テストの点が高いだけで、人間の価値が決められるとでも言うならば、愚鈍というほか無い」

「君は、傲慢な方?」

「おそらくは。君は、どちらの愚かさに手を染めますか」

 不思議と大人びた、教授のような語り方。回答を求めるわけではない、自分に言い聞かせるような口調。嗚呼、結局自虐しているのだ。彼は、賢い自分自身が傲慢であると自覚している。

 だから、美香は拓馬のことを、傲慢に振る舞う、と表現し、根から傲慢であることを否定したのだ。さすれば、僕に突きつけられた謎、彼を見ている空虚さを感じる意味は──

「二つ目は?」

「僕は、理想のために生きているだけです。堕落し、他者に口を出されることを酷く厭う。僕はいまだ理想には近づいていない。そんな人間を『賢い』と称すのは、なんとなく皮肉めいているかと」

「……あぁ、うん、理解したよ」

 真面目に生きていない人々は幼稚だとか、痛いだとか言いそうな、一途な価値観だ。自らは知識しか持っていない、理想的ではない人間だと、彼はそう言いたいのだ。

 いったいなぜ才能ある人々に惹かれるのだろうか。なぜ良い点を取ろうとしているのか──僕には、そこが欠けている。ただ、焦って生き急いで、結果だけを求めている。すると、自分と彼は何が違うのか、無い物ねだりをしはじめる。

 自分の能力を卑下する理由がある拓馬に、もう文句は言えない。彼は傲慢だから卑屈になっているのではなく、自らの理想に服従するから謙遜するのだ。そこに、他者からの評価は入らない。だからこそ、羨ましい。

「君、本当に面白いね」

「あまり買い被らないでください」

「本当だって。とっても勉強になった」

 僕が笑いかければ、拓馬は頬杖をつき、目を伏せた。怠そうな彼の目に、僕は映らない。多分、それでいいのだろう。どうせ彼の目には、自分の理想しか映っていないのだろうから。

 謎が解けた達成感に、昼下がりの白んだ日差しが嘲笑った。浅い息のせいでとても眠たくて、愉快で、非効率的な気分だ。



 期末テストはあっという間にやってきた。

 中間テストの後、親は散々僕を罵った。劣等生で役立たず。遊び呆けた不良。思い出すだけで苛々してきて、持っているシャーペンを折ってしまいそうになる──もちろん、僕にそんな握力は無いが。

 使っている参考書はもうくたくただった。ルーズリーフはどんどん減って、親には、絵描きにでも使ってるの、と嫌そうな顔をされた。前回の結果を反省し、英語の問題を何周もした結果だとは、とても言いたくはない。これで取った点が酷かったら笑いものだ。

 食欲も無いから、三人で机を囲んでいても、僕は数学の問題を解き続けている。他の生徒たちは、相変わらず騒ぎながらご飯を食べている。

 飛鳥と晴彦は、そんな僕の様子を見ながら、二人揃ってパンを食べている。今日は午前で帰れるから、コンビニで買ってきたらしい。

「未音ちゃん、そんなに頑張らなくてもいいんだよ。ご飯食べないでやったりしたら、さすがに倒れちゃうよ」

「毎日錠剤を八個飲んで生きている人間に言われたくないかな」

「えへへ、未音ちゃんは私のことをいっぱい知っててくれるんだねぇ!」

「笑いごとではない。薬漬けの状態を健康体とは呼べないだろう」

「世良はきついなぁ」

 体調不良の擬人化・飛鳥は世良を上目遣いで見つめるが、何の効果も無かったようだ。乾いた笑い声で応対して、また問題集に目を戻す。漢文の解き方は今年初めて教わったにもかかわらず、早速必要とされているから困る。

 集中してペンを動かしていたが、背に走る寒気で顔を起こす。パンを食べ終わってうとうとしている晴彦はいいのだが、飛鳥がむっとした顔でこちらを見ていた。あ、これは──僕が先手を打つ前に、飛鳥は口を尖らせて言った。

「私はこんなに未音ちゃんのことを思っているのに……未音ちゃんの努力も認められない親の方が存在する意味の無い人間なのに……」

「始まったか、面倒臭い発作が」

「いや、あのね? 僕はまだ頑張り足りないんだよ。それに、限度は分かっているから」

「私の方が未音ちゃんの限度も知ってるのにぃ……そんな親殺してやるぅ」

 飛鳥は駄々をこねる子どものように泣きそうな顔で僕の肩を掴んだ。気持ち悪い、とその様を一蹴する晴彦も、面白がるように笑っている。

 なぜだか分からないが、飛鳥は僕たちへの愛が重い。それはヤンデレとか言われる次元に近いかもしれない。飛鳥にとっては面白い人間以外は死んでも良いらしい。優しいというか、重たい。

「本当に、思いつめすぎないでね。未音ちゃんは十分頑張っているんだから」

 飛鳥が緩い笑顔でそう言うと、手元のお菓子を差し出してきた。小袋の中には、ミルクチョコレートが入っている。口に放り込むと、舌の上で溶けて踊り出す。少し肩の力が抜けて、甘い味に溺れていく。

 二人が僕を、静かな海を思わせる穏やかな瞳で見つめている。二人のほうが、余程僕の親より大人びていて、母親らしい。僕を見守り、正しい道を勧めるのに相応しい。本来は非効率的な時間かもしれないが、甘い味は無駄だなんて思いたくない。



 僕は二人のおかげで、だいぶ肩の力が抜けていた。返ってくるテストにも覚悟ができていた。受け取った点数は、そのほとんどが期待以上だ。

 ただ一つ、疵があった。



 冷えたリビングには、難しい顔をして言い合う両親の姿があった。昨今の政治について討論しているらしい。奴らはこてこての保守派だから、僕とは決して話が合わない。

 畳を踏みつけ、無視して強引に通り過ぎようとすると、不機嫌そうな父親の声で呼び止められた。どうやら母親に圧されているらしい。

「お前、テストの点はどうだったんだ」

 僕には未音って名前があるだろう、君たちが名付けたんじゃないか──まるで離婚の危機に立たされた妻が言いそうな台詞だ。

 何も言わずにリビングに入り、リュックをソファに投げ出して素点表を明け渡す。これを渡さないと、余程悪い点だったと勘違いされて外出禁止に追い込まれるからだ。

 僕個人としては、ちゃんと点数を取れた方だ──もちろん、数学を除いて。模試では前回より高得点を取れるだろう。

 しかし、親の顔色は変わらない。気難しそうな顔をして、僕を見つめる。見つめられるなんて反吐がでるから、すぐに目を逸らす。

「数学が全然駄目じゃない」

「お前、やっぱりまともに勉強しないで遊び回ってたんだな」

「っ、はぁ? これを見てそう言えるわけ?」

 もう一度素点表を叩きつけて叫ぶ。まぁ、でも、三教科はできて当然だ。そんなことを奴らは抜かす。そう、昔から奴らは奴らにとっての「当然」はイコール常識であると考える。

 自分は三教科ができずに、有名私大止まりだったのに、僕に医学部卒業から成る出世コースを進ませようとする。自分だけの人形を仕立てようとする。

「やっぱり、期待した私達が馬鹿だった」

 母親が、眉を下げて嘲笑った。

 効率的に、効果的に。全ては出世の計画のため。我が子のため。リスクを選ばず、良い成果を残す。僕はそういうつまらない、模範的な人形だ。嗚呼、こんなことでは駄目だ!

 そして、勝手に期待して、勝手に失望する。勝手に僕の自尊心を低いまま固定させる。僕の親は、そういう人間なのだ。

 こめかみに熱が溜まって、瞳孔が縮まる。目を見開く。その殺意はふつふつと湧き上がると、急に冷たくなって、刃物となった。

 なるほど、何が効率的で、何が理想的なのか、理解した。僕は奴らと違って賢いから、そう育てられたから、すぐに分かってしまう。ここで僕がどうすべきか、そんなのは最初から分かりきっていた。

「もういいよ、勝手にして」

 テスト用紙を親に預け、自分は踵を返す。階段を浮足立って上る。つまらないくらい、自分の思いついた結論は完璧だ。

 部屋の白熱電球を嘲笑い、微かに痛む頭を押さえて、携帯に目を落とした。飛鳥と晴彦から、僕を心配する連絡が届いていた。きっと人間嫌いな彼らなら、僕の意見に納得してくれるはずだ。親だってそうだし、皆だってそうだ。だって、確実に幸せになれるのだから。

 嗚呼、息もできない。窓の外から見た三日月は、物欲しそうに笑っている。



 人間というものが嫌いだ。しかし、人間は面白い。それは、自宅という閉鎖された檻の中から見た物語ゆえの発想であった。

 小学校受験に落ちた後、朝から晩まで監視下に置かれた生活は終わると信じていた。もう普通の子が読める本も、遊べるゲームも触らせてもらえると思っていた。

 中学生の僕は、親の連絡先だけが入っている携帯と、たくさんの文庫本を持って学校へと通い始めた。リュックの中はいつも図書館で借りてきた本だらけだった。

 僕の逃げ場は、本の中にある。親の検閲から逃れた、残酷なサスペンスもの。不思議なミステリー。現実離れしたファンタジー。全ては非日常で、出てくる人間は情緒豊かで、僕が生きる世界は見劣りする。

 他者と関わることを許されてこなかった僕は、その面白い人間を観察することしか知らない。親の言いなりになって生きてきた僕は、人間として生きる方法を知らない。人間として生きるのは難しくて憎たらしい。

 僕は、人になり損なったロボットだ。常に最善の策を導き出し、効率的手段でそれをこなす。それが僕のアイデンティティだ。

「へぇ、ミステリーが好きなんだね! 私も本を読むのが好きなんだよ」

 親の望みどおりの高校に受かって初めて話しかけてきた彼は、見るからに垢抜けた雰囲気で、親なら決して関わることを許さない人間だった。

 色の無い沈んだ教室で、色の無いつまらない僕の瞳が、彼を見つめた。今まで参考書か教科書か小説にしか向けられなかった目が、初めて一人の人間に向けられたのだ。

 まだ髪が長かった頃、喧騒の中、飛鳥に出会った。無口でいつも面白みの無い顔をしていた僕に対して、彼も、彼の親友も面白く、物語の中の人間のように煌めいた瞳をしていた。

 白群と鶯色が交互に僕を見た。様々な漫画や小説──僕が読むのを禁じられていた、少し猟奇的な内容まで──を持ち寄った。面白かった、と尋ねる彼らは、ウィンドウ越しにおもちゃを見るがごとくに期待を膨らませている。

「あぁ、うん、とても面白かった」

 中性的な見た目に、子どもみたいな笑顔。硬派で不器用な笑顔。僕は初めて、面白い人間に出会った。

 彼らと共に回ったとある中学の文化祭で、のちのトラブルメーカーとなる可愛らしい少女に。彼らに連れられて見学に行った演劇部で、目が眩むような天才少女に。浮世離れした怪しげな少女に出会った。親の反対を初めて押し切り、加入したその部活で、頭脳明晰でダウナーな少女に出会って、僕と同じように開花した探究心旺盛な少女に会った。

 現実は小説よりも奇なり。いつもの三人で集まって食べるご飯は、栄養摂取以上の意味を持っている。三人で巡る学校は物語の舞台に。仲間と行う推理ゲームはフィクション以上の刺激を与えてくれる。

 昼下がりのティータイムも、昼食の会合も、非効率的で愉快で、有意義で、最高に面白い。

 非効率的だからこそ、無駄で、無意味で、不必要だ。



 階段を上がり、ドアノブに手を掛ける。この学校では屋上の扉は施錠されていない。生徒が自由に入っていいことになっているから、ドアノブは呆気なく動く。

 昼休みを抜け出し、人の少ない方へと彷徨った。脳裏には、口数の少ない僕を心配する飛鳥と晴彦の姿が浮かぶ。

──ねぇ、何かあったの? 分からないなんて、嫌だよ。

 飛鳥の言葉に、僕は曖昧な返事をした。眉を寄せて、寂しそうな顔をした飛鳥と、僕の全てを見通さんがばかりに鶯色の瞳で見つめた晴彦。二つの表情は、頭の中でサイレンのように鳴り止まない焦燥感が黒く塗りつぶしていった。

 軋んだ蝶番の音の後、曇り空が見えたそこに、見慣れた陰があった。柵の向こうに立つ、背の低い少年。扉の音を聞いて、ゆっくりと振り返った。

「君、まさか」

「お気になさらず」

 ぎらりと輝く赤い目と、一切の感情を示さない口元。僕を見ると、彼は器用に柵を乗り越え、こちらへと戻ってきた。そのあまりにもその挙動に躊躇いが無く、自然だったもので──僕は思わず笑った。口元が綻んだ。

「結構慣れてるね」

「……素晴らしい審美眼です」

 そこに立っていた人物、拓馬は、普段より滑らかに、流暢にそう言った。

 僕が歩み寄れば、彼は柵に寄りかかり、ぼんやりと僕を見つめ返す。そこに感情の起伏は無い。

「君こそ、なぜここに?」

「なぜ……? いや、その」

「僕と同じですか?」

 拓馬にじっと見つめられると、言葉も出なくなってしまう。彼の顔立ちは双子の兄によく似て美しく、万人が目を奪われる端正さを持っている。視線に射抜かれてしまったようで、立ち尽くすことしかできない。

 彼は感情の失せた表情のまま、黙る必要がありますか、と言った。

「……今、一瞬で死ぬ気が失せたよ」

「あぁ、自殺をしようとしていたのですか」

「遊びにしたって、そういう遊びは良くないと思うよ」

「では、共に死にましょうか?」

 思わず驚嘆の声を漏らした。普段は垂れて見える目を見開き、兄によく似た大きい吊目で僕を見つめた。僅かに首を傾げ、僕に手を差し伸べる彼の目は生きているけれど、顔は死んでいる。マネキンが曇天の元にポーズを取っているかのようで、息遣いすら感じない。

 遠くから雨の匂いがする。息が詰まるのは、偏頭痛のせいか、気圧のせいか。非人間的に美しい彼の姿は、僕にとっては恐怖さえ感じた。

 彼はあまりに整いすぎているのだ。今までの落ち着かない様子も、むしろ自信有り気な様子も無い。彼には、何も無い。

「救われたいのではなくて?」

「は、救い……? どういう意味だい、それ」

「自分の背負うものが苦しくて、苦しくて、死んで全てを無にしたい。叶わぬ理想への愛着も全て無にしたい。違いますか?」

「そう……そう、だけど」

「左様ですか。なら、ここで僕と飛び降りましょうか」

 きょとんとして問われたって、首を縦には振れない。突然先輩の自殺願望を打ち明けられて、自分の未来を投げ捨てるようなことを簡単に言えてしまうなんて、意味が分からなくて、面白くて、恐ろしい。

「……君が死ぬ理由は?」

「僕の尊厳のためです」

「は?」

「僕は誰かに死を押し付けられるくらいなら、自ら死を選びます。僕は僕のためだけに死ぬんです」

 そう言って、拓馬は柵に寄り掛かる。曇天を背負うその様は、さながら死神に取り憑かれているかのようだ。たとえ鎌を喉元に突き立てられても、彼の表情は変わらないだろう。

「僕が死ぬのは、自らの理想のため。理想的な死を迎えるため。さて、君が死ぬ理由は?」

 拓馬に問われるまま、僕が死ぬ理由を思い浮かべる。

 僕が死ぬのは、それが全体にも個人にも実に効率的で、効果的だからだ。僕は生きているだけで無駄を積み重ねる存在だ。誰も僕が死ぬことを厭わないし、むしろ喜ぶ奴もいるだろう。それに、僕自身だって、生きて苦しむより死んで楽になった方が素晴らしいじゃないか。

 そう、そんな理想的な死を迎えられたら、幸福じゃないか。

「僕が死ぬのは、幸せのため。僕自身も、他の人々も、そちらの方が幸せだから」

 鼻のあたりがぼんやりと熱くなる。息が詰まって、冷たい空気が喉を絞めあげて、涙を絞り出させる。慌てて袖を目に押し当てて、嗚咽を強く噛み締めて黙らせた。

 返答は無い。僕にも、続ける言葉が無い。何かを言おうとしても、ただ、死なねばならないという強い焦燥感が舌に釘を打つ。頭の中では完璧な効用計算式が僕を追い立てる。

 頭ごとはちきれそうになって、顔を上げた。目眩の隙間に、拓馬の顔が、見えた。彼もまた、薄氷を踏みつけて踊っていて。

 割れやすい暗いガラスの瞳と、冷ややかで妖艶な嘲笑。

「つくづく、愚かな人間だなァ」

「……なに、それ」

「他者に生殺与奪権を差し出して生きるなど、誇りの欠片も無い」

 拓馬は、片手を開き、もう片方の肘を柵に掛けた。クク、と喉の鳴る音が聞こえる。それは、獲物を見つけた僕の声か、泣きそうな彼の声か、分からない。

「理想的な生と、理想的な死を推奨しよう。君は、誰かに許可が貰えなければ、息も、生きも、逝きもできないのか」

 ヒュウ、と呼吸音が聞こえる。

 拓馬は、あまりにも恐ろしい表情をしていた。甘い死の誘惑と、救済への蠱惑を携えた、悲壮だ。彼は、僕を見ながら、僕の瞳に映る自分を見ていた。僕は、彼の瞳に映る僕自身を見ていた。

 風を受けて、重たい雲が速く流れ始めている。

「拓馬君、君は。君こそ、どうしてそんなに苦しそうなんだい」

「僕の愛する理想は、いつだって僕の死を一番に望んでいるんだ」

 おそらく、彼は、玉座に座っている。他人の言葉も聞かず、一国の王として、一歩高いところから人間を見下ろしている。眼下に広がる理想郷には彼の姿が無いし、座っている玉座だって、つついたら崩落してしまうのだ。

 ならば、僕は。今の僕の姿は、決して王様などとたとえられない。強いて言うなら、奴隷だ。権力者の気まぐれな一声で殺されてしまう、卑しい奴隷だ。

 僕は、きっと、本当に死にたかったわけではない。死ななければならなかったのだ。

「君はそうではない。君は理想ゆえに死ぬのではない。君は他人に生存を許可されないがゆえに死ぬのだろう。

ならば、僕が許可を出そう。生の希望にしがみつけ、生の絶望にしがみつけ」

「……君は、僕の何なんだよ、本当に」

 本当に何様なんだ──言いたかった言葉は、笑い声となって消えた。

 嗚呼、なんと面白い王様だろう。自分を王だと思い込んだ、死神に愛された理想主義者なんて、面白くて笑えてくる。どうしてそんなに理想を愛するのか、気になって仕方が無い。こんな早くに玉座が朽ち果ててしまったら、つまらない。

 愉快で、不必要で、非効率的な心中のお誘い。それでも、僕は、その無駄が大好きだ。だから、まだ生きて浸っていたい。誰かが僕の非生産的な生を否定したとしても、誰かが肯定してくれれば、それでいい。

 きっと、飛鳥も、晴彦も、そんな僕を教室で待っているはずだ。

「拓馬君」

「……何か?」

「死ぬんじゃないよ、お互いに。君は、死ぬには勿体無い」

 僕が笑い声とともにそう言えば、拓馬は憂鬱な赤い瞳をほのかに光らせて、口を閉じた。重たい雲が雨雲に変わっていくにつれて、彼の瞳は光を失い、元の均整のとれた非人間的な顔に戻っていく。

 手を差し伸べる。彼が僕の手を何も言わずに見つめる。手をとらないなら、僕から手をとってやる。彼が僕を生かしたように、僕は彼を死なせはしない。



「なんか、すっきりしたみたいね?」

「第六感は非科学的で信用ならないが、オーラが良くなったな」

「何それ、そんなにもやもやしてた?」

 コンビニで買った弁当を並べていると、飛鳥がタコさんウインナーを僕のご飯の上に置く。カニさんもあるよ、と彼は言い、誇らしげに鼻を鳴らす。

 しばらく何も言わないでいれば、カニさんは晴彦のご飯の上に乗せられた。黒い目が可愛らしい。

「どうも」

「そうじゃなくて、私は未音ちゃんが心配で仕方無かったんだよ? 結局あの日は失踪したままだったし、連絡もつかなかったし」

「あぁ、後輩とちょっとカフェに行ってて」

「お前……後輩と授業をサボったのか」

 カフェに行ったのは本当だ。雨が降っている中、僕と拓馬は近場のカフェへと向かった。授業を一つくらい休んだって誰も心配しやしないし、彼なら一日休んだくらいで授業に追いつけなくなることは無いだろう。彼も特に何も言わずに誘いに乗ったので、二人でコーヒーを飲みに行った。

 別に、何か大層な話をしたわけではない。彼の掲げる理想だとか、敬愛する兄の話とかを詳しく聞いただけだ。僕も家族の話をしたが、拓馬は一言、旧式の機械ですね、と吐き捨てた。その言い方が本当に痛快で、腹を抱えて笑ったのをよく覚えている。

 普段は感情を表に出さない晴彦も、僕の発言に目を見開いている。驚愕を示しているのだろう。

「後輩って、もしかして未音ちゃんのお気に入りの?」

「ううん、気に入らなかった方」

「あ、仲良くなったんだね!」

「うん、一線超えかけたから」

「え」

 冗談だよ、と言って返す。飛鳥の顔から笑みが消えたのが心配だが、晴彦は呑気に、男女の不純交遊は非推奨されているが、と答えている。

 一緒に死のうだなんて、人の倫理を超えてしまっている。きっと彼でなければ取り合おうともしなかっただろう。恋愛感情も依存関係も無かった、純粋な誘いであった──少なくとも、あのときは。

「後輩に手を出したりはしないよ」

「しかし、それほどに気に入った人間を見つけたのか。お前が面白いとみなした奴はたいてい興味深い人間だろう」

「えー、教えてほしいな。私も会いたい」

「君は僕について知らないことがあるのが嫌なだけでしょう」

 拓馬は、晴彦や飛鳥でも面白がる人間だろう。歪んだ理想主義者で、人並み外れた知性を持つ。その一方で、酷く傲慢で面倒臭い。僕はそんな彼を味わい尽くしたいと思った。晴彦なら、拓馬の脳を解剖して思考を解析したい、とか抜かすだろう。それか、彼の飛び抜けた頭脳で知恵比べをしたいと言うだろうか。

 もちろん、飛鳥と晴彦も味わい尽くしている最中であるが。

「まぁ、未音ちゃんが元気になって良かったよ。これからも頑張って勉強しようね!」

「え、休ませてくれないのかい」

「可愛い人間には試練を与えたいタイプなんだ」

 確かに、と晴彦も同情している。二人とも、人間への愛が歪んでいて、最高に愉快だ。こんな話、学業のためにもならないし、何の役にも立たないかもしれないが、ただただ愉快で、楽しくて。

 誰が何と言おうとも、タコさんウインナーは美味しいし、この時間は無駄なんかではないのだ。

「何でもいいけど、如月の方こそ早々にくたばらないでよ」

「大丈夫だよー」

「何も大丈夫じゃないだろうが……」



「拓馬君、ここが分からないんだけど」

「そこは……はぁ、また基本からですね」

「君は現役かもしれないけど、僕にとっては二年前の話なんだよ」

「一度学んだことを忘れるんですか。脳内のハードディスクは旧式でしょうか」

「君は人間のことをパソコンか何かだと思ってるみたいだね?」

 またそんなこと言って、と頬を膨れさせる。拓馬に悪気が無いのがさらに腹が立つ。しかし、きょとんとして僕を見つめる様は非常に愉快だ。

 拓馬は僕のシャーペンを受け取ると、すらすらと淀み無く式を解いていき、途中で詰まればすぐに隣に式を書き直し、実に簡単な解を導き出した。未知数は一桁。シャーペンを机に置くと、授業料として差し出した温かい缶コーヒーに口をつけた。

「はぁ、そんなに簡単に解けるものかい……?」

「……は、解けますよ。どこから説明しますか」

 置かれた缶の口からは、人を惹きつけるような誘惑的なコーヒーが香ってくる。拓馬には彼女がいるそうだ、カフェイン依存症の彼自身も、彼女を魅了し、舌なめずりをさせてしまうようなコーヒーの香りを仄かにさせているのかもしれない。

 水色の空の下、心地良い香りを感じながら、拓馬の説明を聞く。彼の説明は非常に分かりやすい。彼曰く、たとえどんな天才に話すにも、まるで馬鹿に話すように説明するらしい。その言い草が非常に彼らしかった。

「聞いてますか」

「とても分かりやすいね」

「それはどうも」

 謙遜しなくなった拓馬は、三白眼を曇った光で満たし、片方の口角だけを上げて下手くそに笑った。けれども、その笑い方のほうがだいぶ彼らしい。置いてある王様の衣装がお似合いだ。

 王様は王様らしく、玉座に鎮座していれば良いのだ。かのディオニスのように、改心してしまってはつまらない。蒼白で眉間にシワを寄せたまま、セリヌンティウスを殺してくれないと暴君らしくない。

 拓馬はきっと僕のことを、君も大概だな、と言って嘲笑うだろう。自分の好奇心に向かって突き進み、愉快さを第一に行動しながらも、計算高く計画を進められる──僕も、そんな王になれたら、きっと幸せだろう。

 僕はそんな理想を追いかける許可を、親友たちに、そして目の前の人間に貰っている。僕は目の前の人間に、王として愉快でくだらない玉座に座る許可を与えている。

「あぁ、僕にも解けたよ」

「この公式を使えば、多少簡単に解けるでしょう。頭のハードディスクのスペックが低いなら非推奨しますが」

「はいはい、そのうち買い替えておくよ。誰の脳なら安く買える?」

「麻薬患者、ですかね」

 拓馬は意地悪く嗤うと、カフェインという名の粉末麻薬の溶液に口をつけた。

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