第106話 九州は山陽の属国

『九州は山陽の属国』


 こんな風聞が九州北部に流れたのは最近の事であった。

「自分で流しておいて、何他人事のように語っているんですか?」

 とさねえもんからツッコミが入る。

「早い。ネタばらし早い」


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 豊前と筑前を占拠していた大内家は元々周防一国の領主だった。

 大内家は平安時代の末期、多々良盛房という人間が周防の有力者となり「周防介」に任じられたという。

 彼はその後大内介と名乗り、次の大内弘盛から「周防権介」を称するようになったという。

 鎌倉時代には幕府の御家人として、六波羅探題評定衆に任命されているが、この頃も周防一国の領主である。

 ところが南北朝時代になって周防と長門の2国を手に入れると、1391年には明徳の乱で、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名となり、朝鮮とも貿易を行い勢力を伸ばした。


 この時期に豊前を取られたのである。


 さらに大内持世の時代には、6代将軍 足利義教の信任を受けて筑前守護に任じられ博多と言う貿易港をゲットする。

 まあ持世は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱に巻き込まれ非業の死を遂げるが、それ以降も大内は九州北部を支配して今に至るわけである。


「この100年以上の支配の歴史は『豊前・筑前は大内領』という認識に繋がっていたようで、両国とも後の時代で毛利の味方になりますね」

 日本の前例主義と言うのは根深い。

 史実の宗麟が大内滅亡後、正式に豊前・筑前守護となっても、大内家を亡ぼした毛利家の味方をするくらいには。

 豊後から豊前へは地理的に山を隔ててて行きづらいという条件はあるが、もう少し九州人同士、仲間意識を持ってくれても良いじゃないかと思う。


 なので、『大内を亡ぼした陶晴賢は九州を自分の属国だと言い放った』というデマを飛ばして反発心と、九州の仲間意識を持ってもらおうという訳である。


 まあ、実際は経済が混乱した上に尼子と毛利と争ってて九州へ目を向ける暇もないのであるが…

「史実だと家臣や同盟国に傲慢な態度とってたみたいだし、こう書いても『あいつなら言いかねない』と判断されるだろ。と思ったら凄い効果があったな」


 デマは事実として認識され「大内様を害そうとした簒奪者が偉そうによくもいえたモノだ」と豊前や筑前でも反発を覚える人間が増えた。

 あと時代を200年ほど先取りして「下関の行商人が九州から帰った時に『日本に帰って来た気がする』と言ったそうだ。上が上なら下も下だ」と本州人の差別意識をネタにして分断を煽ったり、大友記に書かれたネタを利用して、『権力を握った陶は毎日酒宴を行い見た目の良い女は他人の妻でも奪い取り政治をサボっている。だから国が混乱しているのだ』とか、『陶は間違った邪宗をひいきし、信心が足りない。だから仏様が怒っている。国が貧しくなったのはそのせいだ』と経済封鎖を全て陶のせいにするような流言も流した。

 ここらのネタは大内から毛利に鞍替えした奴の子孫が創作したネタもあるそうなので、丁度良い仕返しである。


 やられたらやり返す。倍返しだ(※こちらの世界線ではやられてません)


 さらには「これは陶様の力を削ごうとする大友家の陰謀だ」とか「いや、反対側にいる尼子様の策謀だ」という一部事実を含んだ噂も流す事で黒幕が誰なのか分からない様に混乱させた。

 嘘をつくときは一部真実を混ぜるのがコツである。


「義鎮様は武略方便が達者でございますなあ」

 と詐欺師を見るような目で吉岡から言われたが、九州の安定のためである。

「と言いますか、あえて真実を混ぜて流言を飛ばすというのは1569年の龍造寺隆信討伐で吉岡様が使った方法(出典;大友記)なんですけどね…」

 とさねえもんが言う。

 じい様の方がよっぽど腹黒だったんじゃねーか。


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「今すぐ叛乱が起こるという訳ではありませんが、豊前や筑前の豪族は陶氏や山陽から送られた今の守護代に対してあまり良い感情をもたないようです」

 と甲賀忍者から報告が来るようになった。


「これで、豊後や筑後に攻め込んでくる恐れは減ったな」

 となると、今度は南方の憂いを取っておこう。

「まだ作物の収穫が少ないからそこまで感謝はされないだろうが、島津とは貿易を続けて繋がりを持つとして、そろそろ日向や大隅とも国交を開いておくか」

 そう言うと さねえもんが渋い顔をした。

 あれ?なんで?

「日向は現代に残っている史料が少ないので、どう動くか分からないんですよ」

 鎌倉時代に日向に入り、南北朝時代には守護だった島津家を追いだした伊東家は謎が多いという。

「宮崎北部は大友家に焼かれた。と言いますが、大友家は伊東家の本拠地である佐土原城までは行ってませんから、島津家も南方の史料焼きには加担してますし、1587年には秀吉の軍も来てるので単純に戦場となって領主も多数滅んだのが原因だと思いますが…」

 と、大友家の名誉のために言った。

 アフガニスタンみたいな激戦区なのだろうか?

「そこまでひどい戦場になると大変だなぁ。変に近寄らない方が良いのかな?」

 と言うと「逆です」とさねえもんから言われた。

 

 日向の守護である伊東家の情報は乏しいが、1550年代の伊東氏は島津家の内乱に乗じて、佐土原城を本拠に四十八の支城(伊東四十八城)を国内に擁し、位階は歴代最高位たる従三位に昇るなど最盛期を築き上げたという。また金箔をちりばめた寺、その名も金箔寺という寺を建立するくらいには貿易でかなり潤っており伊東家は最盛期を迎えていたという。

「つまり、国の運営がうまくいっているので協力者は不要と考えているのかもしれないんです」

 実際に大友家の文書で伊東氏とつながりが出てくるのは、宗麟の息子義統が家督相続の準備を始めた1576年位からで、1572年に島津軍と木崎原の戦いで敗れて家中の臣下が裏切ったり国が衰退してからだと言う。

「仮に貿易で潤っていたとしたら、何でそこまで負けたんだろ?」

 素朴な疑問を口にすると

「佐土原藩譜って江戸時代の本によると『和賀津留の屋敷を移し、宮殿を模した別邸を建てた。庭の池に河の水を引き、庭木や庭石は全て珍しいものを取り揃え、豪華の限りを尽くすものだった。昼夜酒色に耽り、遊び暮らし、更に薩摩大隈の制覇を目指して、鐘に”日薩隅三州太守”の銘を刻むほどだった(引用;http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo1.htm)』と書かれる位放蕩の限りを尽くしたそうですよ」

 と言われた。

 何その他人事と思えない悪評…

「とりあえず、内情調査。宗麟と同じように後世で造られた悪評の可能性もあるし、貿易のパートナーと成れるなら味方としておきたい」

「もしも、悪評どうりだったらどうします?」


「……………………………その時は、見なかったことにしよう」

「クソコラみたいなセリフで外交を行わないで頂けますか?」

 

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本当はこのあと、龍造寺への話に進む予定でしたが

『宮崎の史料は宗麟のせいで焼けたって言われているけど、大友家は伊東家の本拠地にすら行けてないよね?』と思いつたらこうなりました。

明日はどっちだ?

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