第65話 戦国日本に本当に必要なモノ
というわけで仏教さんサイドと話がつき、薩摩仏教の邪魔者にして豊後にとって喉から手が出るほどの逸材、アンジロウさんの国外追放作業は4日後に完了した。
なお手順を要約すると
①寺とは無関係な熱心な仏教徒が『邪教徒は出ていけ』『●ね!』などの悪口を戸板に書く。
②嫌がらせの投石などをする。(動物の死骸を投げ込むのは衛生上の問題から止めさせました)
③殺気立った場面にザビエルさんの書簡を持った使者が「師が貴方をお呼びです。家族連れでおいで下さい。豊後には貴方の住処も用意しています」と、薩摩兵を連れて仲裁がてら船の旅にご招待する。
④完了
「これ誘拐犯とか拉致の手法ですよね…」と酷い言いがかり付けられたが、寺は邪教に勝利したと思うし、アンジロウさんは『助かったのは神のおかげ!』と信仰心を強くし、家族も安全に移住できる。
島津は国内の不穏分子を問題なく排除できる。
何て平和的な解決策だろう。
まさに3方ヨシ!
自分ながら、その才能にほれぼれする位である。
アンジロウさんは半月ほど豊後でザビエルさんと面会してもらった後で、インドに渡航してもらい、水夫にポルトガル語を教えてもらおう。
家族も一緒に船上生活できるように、グレードを一つ上げた中型船を製造中だから、それに乗ってもらえば不自由は無いはずである。
「で、給料は小領主レベルの土地を与えて、インドへの正式な使節の代表として書簡を届けさせれば家族への面目も立つだろうし、収入を守るために働いてくれると思う」
彼と同じくらい外国語を操れれば同様の待遇を与えれば、必死に覚えるだろう。
いつの時代も通訳は特殊な技術であり相応の報酬は必要だ。
決して自給900円で雇えるような才能ではないのである。なあ●●法人●●●●●●。
(※●●はテキトーな文字数なので決して検索で探そうとしないでください。
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「しかし、この時期の薩摩は本当に貧しいようだな」
「なに急に鹿児島ディスってんですか?」
「いや、奥さんたちにお土産を買って帰ろうと思ったんだが、丁度良いものが無いんだよ」
今まで書いてはいなかったが、下準備のために外遊で飛び回ってる宗麟はお土産に珍しいものを持って帰っているのである。
山口だと中国からの服や絹
長崎だと中国からの服や絹
能島だと海賊行為で略奪した中国からの服や絹や大阪辺りの生活用品などである。
だが半國時代の薩摩だと丁度良い品が思いつかない
「中国周辺を倭寇が荒らし回っているから略奪品がありそうですけどね」
とさねえもんが「ヴァイキングにとって欧州は畑」と言わんばかりの説を言う。
「だったら白粉(おしろい)とかどうでしょう」と同行した豊後商人が言う。
「え?火山灰を体に塗るの?」
「いえいえ明国から略d…輸入した良い品があるんですよ」
倭寇の成果物か。
「南蛮貿易の一部かもしれませんよ?」とさねえもんが言う。
え?それ、どういうこと?
そういえば南蛮貿易って、日本に来た外国人の話ばかりで、彼らがどこからどのように来たのかは知らないな。
「えーと『マカオの歴史 南蛮の光と影』という本によると、まず1511年にポルトガル人がマラッカを武力で侵略し、1513年に中国に到着。ジョルジ=アルバレスという人物が広東に近い所に上陸し、マカオには彼の像がたっているそうです。(P36)」
これ以降ポルトガル商人が中国人と交渉をもつようになるが、1517年にマラッカを攻略した武人のアンドラーデの艦隊による使節を派遣した所、海禁政策の中国明朝は朝貢形式の船団以外とは交渉を認めていなかった。
また領地を奪われたマラッカの王が中国にその非を訴えたり、他のポルトガル船が中国の屯門に要塞を作って暴挙を行ったので、北京を訪れたトメ・ピレスたちは謁見を許されず広東に戻ると官憲に捕まって投獄されたという。
「なので当初の貿易は中国の私商との秘密裏に行われたそうです」
「…ということは、南蛮貿易って不法滞在した南蛮人との密貿易ってこと?」
「言葉を飾らなければそういうことになりますね」
どんなに飾っても違法行為の集大成じゃねえか。
「ちなみに、専門書によると『1548年に中国はポルトガル人を海賊の一味と見なして当時の根拠地を壊滅させたので上川島などに渡って密貿易を続けることにした(要約)』と言ってますね」
専門家お墨付きの違法行為じゃん!
なお1552年にザビエル神父が死亡したのはこの上川島だという。
「ということは、今(1551年)の中国で貿易拠点を持っていたわけじゃないんだな」
「ポルトガルの文献だと1553年にレオネールという艦隊司令官が、中国官憲と交渉した結果、税金を納めることで交易できるようになり、1557年にマカオに行くよう命じられたので町を作ったそうです(P40)」
「中国側の資料は?」
「ないそうです」
交渉()の詳細が気になるが将来的には合法となるらしい。
「このマカオでトラブルがあるとポルトガル人への食力供給を止めて兵糧攻めにしたそうなので、食糧調達の代価として島津と取引していた可能性もあるんですよ」
なるほど。盗品か密輸品かの違いか。…どっちも犯罪関係じゃねえか。
「ちなみに何でマカオに拠点を移したかについては『決定的な資料がなく、断定できないのが実状である』としてますが(P37)一六二九年作成資料にマカオ租借料として銀500タエル(両)を支払っている。とか一五四〇年代末から海賊討伐に手を貸しているので(P41)利害関係が一致してはいたようです。
中国のキリスト教は早い時期から入っているものの、定着せず何度も廃れているので、中国当局はキリスト教を問題視していなかったのかもしれません。」
「へー」
ザビエルさんの道は苦難続きだったようだ。
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ちなみに『日欧文化比較』という1585年に書かれた本では『ヨーロッパでは
とあり、日本における中国産の白粉需要が高かった事がわかる。
化粧品ねぇ。
個人的に白く塗りたくったりするのは好きではない。さらに言えば日焼け止めクリーム以外塗った事すらない。
皮膚に悪いとか以前に俺の美的センスが世間とズレているのは自覚しているし、半分だけ化粧した写真を見て「化ける」事の凄さを知っているが、あの白塗りはどうも好きではないしお歯黒は純粋に気持ち悪いと感じる。
ただまあ、本人が喜ぶなら買っとくか。
そう思っていると、さねえもんがなにやら難しい顔をして考えこんでいる。
どしたの?さねえもん。
「五郎様、我々はもしかして凄く大事な事を忘れていたのかもしれません」
「何が?」
「昔、白粉に鉛が入っていたのはご存知ですか?」
「ああ、そういえば『薬●のひとりごと』って本で宮廷に蔓延してて子供が死んだって話があったね」
「今流通してる白粉の半分があれです」
駄目じゃん!!
なんでも鉛入りの化粧品は長時間化粧が落ちず、発色も良い高品質な品として宮廷でも根強く使われたそうだ。
「でもそれって昔の話でしょ」
「いえ、明治時代になってやっと知られました」
遅すぎぃぃぃぃ!!!!
『1887年、白粉を多用していたある歌舞伎役者が、演技中に足の震えが止まらなくなりました。
後に、それは“鉛中毒”による症状だったことが判明。この「慢性鉛中毒事件」をきっかけに、鉛の有毒性が知られ、白粉の使用をめぐる社会問題にもなりました。
この事件以降、安全性の高い「無鉛タイプの白粉」が登場したのです。さらに輸入品に影響を受けて、「色つき白粉」など西洋的美意識を取り入れた素肌の色に近い新タイプの白粉が登場するようになりました。鉛入りの白粉の製造が正式に禁止されるようになったのは、1934年のことです』
(資生堂様のHP ttps://www.shiseido.co.jp/foundation100/answer/q32.html より)
「さらに言えば、もう半分は伊勢産品で水銀が材料に使われてます」
もっと駄目じゃん!!!
今すぐ白粉の使用禁止ー!!!
商人と海賊と忍者ネットワークを駆使して鉛中毒と水銀中毒の情報を日本中に出してー!!!!
こうして、日本のために全ての研究ラインを化粧品研究のために急きょ変更する事にした。
日本の未来のために、次回から化粧品開発をすることにしよう。
なお、お土産は大島紬という染料を使った服にした。
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(余談というか おまけ)
「冗談はさておき、島津貴久さんが見送りに来ていますよ」
その言葉に振り替えると4人ほど子供を連れて来ていた。
「初めまして」
と小さな男の子が挨拶する。ああ、これが島津4兄弟と名高い息子さんたちか。
長男の義久くんはさねえもんの話だと言うことを聞かない家臣や弟たちの暴走に常に悩まされ『虫気』という内臓疾患や腹痛に悩まされたと言う。
ああ、かわいそうに。と将来の中間管理職に憐みの目を向ける。
「?どうされましたか?」
「将来の島津を背負うだけあって大人びた御子息様だと思いまして」
「いえいえ、悪知恵者とやんちゃ者ばかりで困っております」
と貴久さんが言う。
その中でひときわ目を引く低身長の子供がいた。
「ああ、君が4男の又七郎くん(島津家久の幼名らしい)か」
「お坊様は私を御存じなのですか?」
と、言われた。ああ、良く知っているとも。
鬼島津と恐れられた次男の義弘くんも怖いが、豊後と佐賀にとって島津家久くんは死神に等しい。
「島津殿には優秀な子どもたちがおられると聞いているのだが、いやあ、君は実に良い目をしているな」
と、あたりさわりのない賛辞を述べた。
「そんなに誉めるんなら、もらって帰ればよいんじゃ」
ぶすっとしたように義弘くんが言う。
実は4兄弟の中で家久くんだけは母親が側室。
なので義弘くんとは不仲という描写がマンガとかでされているそうだけど、この世界でもそうらしい。
「いやぁ。大事な弟をもらって帰れなんていったら、おじさん、本当に連れて帰っちゃうぞー」
と笑いながら言ったが、本心では本当にお持ち帰りしたかった。
いや、本当に。マジで。
彼は味方にならなくても、いないだけで島津家の戦力はだいぶ削れるからである。
島津家久。
希代の戦略家でユーモアあふれたアンサイクロペディアでは一流の釣り師と称されている。
興味がある人は日向高城や戸次川合戦、沖田畷でググってみると良い。
絶対に勝てると思われた戦いを逆転勝利に導く戦国時代のジャイアントキリング(番狂わせ」を意味する英単語)を、そこで君は見るだろう。
『釣り野伏』と言われる油断して突出してきた敵を討ち取る戦法の名人と言えばどんなものか分かるだろうか?
1584年の龍造寺との戦いや1586年の大友・仙石連合軍と戦った際にこの戦法で芸術的な勝利を重ねている。
この戦法が凶悪なのは討ち取る相手の中に大将が多く含まれる点である。
ふつうの戦いで1000人死んでも、そこまで大名の基盤が揺るぐことはない。
それは死者の多くが一般兵で、ひどい言い方をすれば換えが効くからだ。
だが、家久君の場合はひと味違う。
1578年に日向で戦った大友家は大将クラスの領主が最低7人。他国の領主も討たれて戦力が大幅に弱体化した。
1584年の龍造寺の戦いでは、敵の大名である龍造寺隆信本人を討ち取るという桶狭間クラスの大殊勲をあげている。
1586年も大将の十河、長宗我部信親が討たれている。
まさに一射絶命。
ふつうならありえない勝利を3度も重ねた殺人マシーン。
九州の戦国時代、絶対に相手にしたくない男ナンバーワンに成長する男なのだ。
「本当に、君が豊後に来るのなら御屋形様は猶子として跡継ぎに据えたいと言われるだろう」と大絶賛する。
家 命 が か か っ て い る か ら ね 。
そんなこちらの気もしれず義弘くんはおもしろくなさそうにこちらを見ると
「豊後の大将は見る目がねえ」と言った。
この子はこの子で『鬼島津』と呼ばれる勇猛果敢さを発揮するのだが、それは宗麟とは無関係の木崎原の戦いとか1592年以降の話。宗麟とは無関係だから仕方ない。
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今回、以下の展開を考えていましたが『マカオの歴史 南蛮の光と影』という本を読んでたらおしろいの話が書いていたので封印します。
『以上、1年でできる戦国時代RTA(リアルタイムアタック)が終了した。
農業に建築・商業。この3点を重視したのだが結果はどうなるか…
次回
『踏まれて育つ麦となれ』
「…タイトルみると失敗したようにしか見えないんだけど…」
正直、ここらの下準備はさっさと切り捨てて行こうかと思いましたが
予想外に閲覧していただいているので大分ファンタジー(職場のフィクション)と共に好き勝手書かせて頂きました。
次回から少しずつまいた種が成長(物理)してきます。』
筆者は化粧品は分野外ですが、ここらを扱った転移ものを読んだ事がないので、アプローチをかえてみようかと思います。
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