第57話 人の大事なモノは燃やしてはいけない
前回のお話、大事な事を書き忘れていました。
それは『1578年にキリシタンになるまで宗麟は寺社を焼いていないし、むしろ保護していた』という事。
1572年には次男を仏僧にするため京都大徳寺に瑞峯院という寺まで立てています。
さらにいえば、改宗後も宣教師に心酔していたと言うより貿易外交の一環として付き合っていたので、自分の純粋な持ち分である領内でしか寺は焼いてません。
社長から『仏教はウチの会社では禁止するから、仏壇は全て破壊しなさい』と業務命令が来ても普通従うわけがないし下手したら反逆ルート来ますからね。
つまり1578年以前に『邪宗を信じた宗麟は寺社仏閣を焼いた』などと書いている本は嘘っぱちです。
佐賀でも大友の軍が神社仏閣を焼いて狼藉を働いたといった。と1570年の事として書いている本がありますが、本当に焼いたのかを置いても宗教的な意味合いと言うより敵の拠点を焼き払ったと見るべきでしょう。(戦国の肥前と龍造寺隆信 P172)
宗麟の悪評払拭小説という自覚が最近欠けて、中小企業の管理職のブラックさ展示会になっていたので、改めて書いておきます。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
「どんなに言葉が立派でも行いが伴っていないのであれば、それは民衆には受け入れられないだろう。そして、相手への敬意がなければ日本の統治者は眉をひそめてしまうぞ」
俺はザビエルさんに言った。
史実の宗麟は1578年に改宗した後、司祭の上司兼監視役となる巡察師バリニャーノへ「教会側の態度には甚だ不満を抱き(略)日本人を改宗させようと言うのなら日本語を学び、日本の礼法に合うように生活せねばならぬと語った」と述べており(日本巡察記P305~306)排他的な当時の宣教師の態度に不満を漏らし、もっと日本の文化への敬意と受け入れをするように告げている。
史実の宗麟は某戦国BASA○Aのように、宣教師の言うことを盲目的に信仰していたわけではなく悪い部分は悪いとたしなめてもいたのだ。
なので今回の宗麟である俺も「何の罪もないインディアス(アメリカ人)を殺しておきながら、見て見ぬ振りをする。そんな神を強制するのはどうかと思うのだよ」
と当時の日本人が知らないキリスト教徒の蛮行を非難した。
『仁義なきキリスト教』という本によるとキリスト教の神は『妬む神』。自分以外の神を信じる相手にはDV夫のように暴力をふるい、天罰を与え、仕舞には洪水を起こしてリセットまでしようとする神様らしい。
自分以外は絶対に認めない超俺様系神様であり、異教徒は見下す傾向がある。それが新大陸原住民を人間扱いしない素地になっていると思われる。
それでは日本のように宗教感がゆるい地域では受け入れられないだろう。
「…それも、あなたの言う天使様のおっしゃられることなのですか?」
しばし沈黙した後、ザビエルさんは聞く。
「善悪については語られてないが、そのような行為をする者がいる。と心を痛めておられた」
嘘だけど。
まあ「異教徒なんて殺されて当然です」などと言う意見には賛同できるはずもない。続けて俺は
「だが、なんの罪もない赤子まで娯楽のために殺すような行いが正しいというのなら…」
そういって、視線を外に向ける。
「日本には蹴鞠という遊びがある」
そう言いながら庭で鞠を蹴る遊びに興じている武士をちらりと横目で見ながら
「なんだったら、君の体を使って娯楽に興じてみようか?あちらの新大陸でインディアンがされているように」
まるでサッカーボールでも見るような目でザビエルさんを見る。
これは詐欺師やヤクザの交渉手法で、初めにトンデモない要求をして本来の要求に『譲歩してあげる』のと、初め怖く接してて交渉が難しい相手だと思わせてから『急に優しくする事で信頼感を勝ち取る手法』である。
これ職場のパワハラ上司とかで呼吸でもするように無意識に使っている奴がいるが、絶対に労基署に報告して追放した方が良い類の人間である。
なお、ザビエルさんに言った事は半分演技だが半分は本気だ。
『異教徒に人権はない』と言って、それらの蛮行の誤りを認めないなら、その身で味わってもらおう。非っっっっっ常にやりたくはないんだけど、テロリスト養成者から奥さんや部下、国を守るにはやむを得ないだろう。
長い沈黙が続いた。
幸いザビエルさんは後に聖人扱いされるだけあって虐殺には否定的だったようだ。
そろそろ、いいだろうか。
俺は表情を和らげて、相手の立場を理解するようにこう言った。
「…まあ、新大陸にわたった者たちの一部が原住民に殺されて、その報復が行き過ぎているという事情も科学様からは聞いている」
実はコロンブスの第一回目の航海で3隻あった船のうち1隻(サンタマリア号)が1492年12月24日にイスパニョーラ島で座礁して航行不能になり、39名の水夫が船に乗れず、現地に残ったという。
一年後にその場所に戻ると水夫たちは全滅していた。おそらく現地人とトラブルになり殺されたのだという。
ただでさえ困難な旅の果てで仲間が殺されたのである。
『殺される前に殺せ』と言う自衛と、スペインを侵略していた異教徒を狩っていた頃を思い出したのは想像に難くない。
おまけに新大陸では期待したほどの金や資源が取れず、食糧も不足して乗組員の不満が高まっていた。コロンブスと弟にはそれを収める力が無く反乱が起こり、その状態は本国にも知らされ、国王は1499年に現地調査官を派遣しコロンブスを逮捕。コロンブス兄弟は鎖に繋がれて1500年に本国に送り返された。
代わりにスペイン人が総督となり、部下たちの不満を解消するために侵略と搾取を始めたという。
それでも危険に対しての対価は無く、新大陸のスペイン人は現地人への敬意を忘れ、殺すことに罪悪感がなくなり、神父までもがそれを認めだした。
「報復と自衛。はじめはそうだったのが次第にタガが外れ、それを君たちの主である国王は止めることができないのだろうな」
死ぬような思いをして働いたのに給料が未払いなどになったら、俺でも部下を止める自信はない。ましてや一介の神父には不可能だろう。
それが仕方ないとまでは思わない。ただ、ここから一つの矛盾が見つかる。
「つまり宗教のお題目は、政治や経済状態の影響を非常に受け、時には目をつぶる事も辞さないわけだ」
と前置きをして
「だからな、日本ではすこーしだけ教義を緩くして、仏像拝むのはオッケーということにならないかなぁ」
とお願いをしてみた。
「緩く…ですか」
「そう、ほら、あの仏壇とか仏像とか宗教と言うフィルターをどかせば、金色で綺麗だし技術的にも美しくないか?だから、日本ではどこのご家庭にも常備されているインテリアみたいなもんだと思えば腹も立たないんじゃないだろうか?」
そんなインテリアがあるか。と言ってる自分でも思うが、人様の家の趣味に文句を言う筋合いはないはずだ。
はるばる海を越えて布教にきた人には悪いが、雑多な宗教があふれる日本を治める俺にとって、宗教とは『快適に日常を過ごすための最低限の決まり事』と『おなかが痛くなったときに助けを求める相手』でしかないのである。
そこらへんの感覚では、現代の日本に来たゆるいイスラム系の人たちは非常に好感が持てる。
戦国時代の宣教師の話をさねえもんから聞いていると『人が大事にしているものは焼いてはいけない』とつくづく思う。
例えば『実子を指し置いて、勢力の強い有馬家から養子として大村家を継いだ大村純忠さんが、キリシタンになった証明として血のつながらない前代の位牌を燃やした話』とか見ると、『そりゃ、家老全員から総スカン喰らって、後藤家に養子に行った実子も戦争起こしにくるよな』と思った。
最近、オタク系のポスターや女性のポスターを炎上させる自称フェミニストもこれに近い事をやっているのだが、500年前から進歩がないのは如何なものか?
「一方でムスリムさんとか『日本は神様がいる本国から遠く離れているから見ていない』と言いながら牛肉とか豚肉を食べてる人もいるし、カレー屋さんだって『ごめんなさい神様。でも、これ美味しい』と言ってビーフカレー提供しているんだし、それくらい融通を利かせないと、日本どころか唐国では布教ができないぞ」
と押しつけがましいアドバイスもする。
「唐国が…あの唐の国でもそうなのですか?」
ザビエルさんが反応する。さねえもんによると、史実のザビエルさんは中国で布教しようとしたが結局入国が許されず病死したらしい。なので中国事情には興味があるだろう。
「あそこは天帝とか神話が成立しているが、道教とか民間信仰が混ざった混乱の土地だからな。それに民衆の気性は日本人より激しい(※地域差があります)ので、日本である程度、習性を学んでおくのは悪くないと思うぞ」と告げる。
「そちらの神が自分に従わない者を許さない『妬む神』だとすれば、東洋の神は『許す神』受け入れる神だ。絶対の地位に次々と仲間が現れて相手の考えを受け入れる西洋にはなじみの薄い考え方だ。それを理解しないと根本思想が理解できないだろう」
と良く分かりもしない言葉がどんどん出てくる。
初めて入社した会社で強制的に参加させられた幹部養成講座の洗脳教育を受けた経験がこんな所で活かされるとは思わなかった(※これはフィry)
「それでは、この国でも争いが起こっているのはなぜですか?」
ザビエルさんからの鋭いツッコミが入る。
そう。仏教が正しく、その理想的が実現しているなら戦争など起こらないはずだ。だが、そんな説明をしてもややこしいので
「それは国が貧しいのと博愛の精神が足りないからだ」と答えた。
「貧困と博愛ですか?」
「この国では全ての民に食料が行き渡っていない。だから略奪し報復の連鎖が続き混乱している」
嘘は言っていない。
日本の幕府が滅ぶときは貧富の差が大きくなり、武士の多数が借金まみれとなって生活苦となるのがお決まりのパターンだからだ。
特に徳政令を出すと金貸しが借金をさせてくれなくなり、もっと生活に困るので政権交替の戦争で借金や収入をリセットしているのではないかと思うほどだ。
「なるほど。では博愛とは?」
「私は、キリシタンの博愛の精神、優しい心の教えはすばらしいと思っている」
『さっき人体で蹴鞠をしてやろうか?とか言ってませんでしたか?』とさねえもんが言っているが無視する。
この時代の日本人の殺人へのハードルは非常に低い。
比較的日本を好意的に書いている巡察師ヴァリニャーノさんでさえも嬰児殺しや簡単に殺人を実行する人間には目をしかめている。
当時の日本人は『性格は、はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すことである。(略)これを重大なこととは考えていない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には、不運にも出くわした人間を真っ二つに斬る者も多い。(日本巡察記P19) 』と書いているそうだ。
これは別に日本人をおとしめるために事実をねつ造した本ではない。
外国にわたった営業マンたちの報告が実際はどうなのか本社から実態調査に来た宣教師たちの上司にあたる人間の報告書なのである。
これに対して、キリシタンたちは信仰を共にする人間には非常に優しい。
1557年くらいから宣教師となった貿易商アルメイダさんは豊後で日本初の総合病院を開業し「布教よりも医療の方にかまけすぎている」と本部から注意され病院を廃業させられるくらい熱心だったため大分には『アルメイダ病院』という宣教師にあやかった名の病院がある。
それに宣教師は貧しい人には食事を与え保護もしている。
宣教師自身が『自分たちの宗教に来る層は限られていて、キリシタンとは病人か貧乏人の宗教だと陰口を叩かれている』と嘆いている。らしい(耶蘇教日本通信より)
しかも、この信者たち、窮地を逃れた後は信仰を捨てることも多かったらしい。
いわばフリーライド。いいとこ取りで用済みになれば信仰ポイ捨てという訳である。ひでえや日本人。
裏切られても裏切られても諦めずに信徒のために活動したという話を聞いたときはすばらしいと思った。
これで信仰の押しつけと破壊活動さえなければ、暴力と殺人上等な今の日本に必要な考え方だと思う。
堕落した仏教が多いなかで純粋に信じると言うことはどういうことか外国の人から教えてもらうというのは効果があるだろう。
だからこそ、豊臣秀吉も最初、宣教師に好意的で『重婚禁止でなければキリシタンになっていた』と言っという。長崎などのキリシタンによる破壊活動を聞いて手のひらがひっくり返ったけど。
「なので、我が国はキリスト教の布教は歓迎する。だが、私はこの国の住人の生活を豊かにしたい。だから『人の財産は燃やすな』これだけは守って欲しい。まもれないなら、燃やすよう指示した人間を燃やす」
これが最大限の譲歩だ。犯罪を推奨する宗教などどれだけ利点があっても受け入れられない。
日本で宣教師が受け入れられたのは主に3つの要素があると思う。
1番目は『珍しいもの見たさ』である。
日本人は自分の生活制度の変化には保守的だが娯楽に飢えているのか戦国時代でも宣教師から「日本人は珍奇なモノを好む」と書かれている。
2番目に『(表向きは)日本の仏教徒と違い平和的で優しい』という点だ。
現代日本でも脱税とかの生臭な話が多い宗教関係だが、戦国時代の坊主は武力集団である。僧兵を持ち、土地の管理者でスポンサーである大名が訪問しても出迎えもせずに呼び付けるような尊大な態度が許される程、権力を持った存在だった。
長崎の僧侶は「自分が徒歩なのに異国の宣教師が馬に乗っているのは生意気だ」という理由で宣教師を馬から引きずりおろし、刀で『殺すぞ』と脅したり、教会に死体の手を放り投げたり暴力団も真っ青な嫌がらせの逸話に事欠かない。
なので遠い異国から金銭も要求せず、素朴に神の教えを説きに来た宣教師と言う存在に深い感動を覚えた日本人は結構いたと思う。
まあ、全体的に見ると騙されていたわけだが。
そして1番強いのは『貿易の利益』である。
命の危険にさらされる西洋の船乗りは、陸に上がると無事を神に感謝し御祈りをささげるために宣教師がいる場所が必要だ。という事になっている。
ただまあ、これは単なる大使館みたいな場所が欲しいのだと思われる。誰も知り合いがいない場所で商売をすると騙されたり襲われる恐れもある。
同じ西洋人の神父がいると言う事は西洋文化を住民が理解しているので安心して寄港できる事になるだろう。だが
「ちなみに、ワシはカンボジアやフィリピンとの交易路はある程度開拓をしておるから、南蛮船が来なくても近海の交易なら十分できる」
とハッタリ混じりで告げた。
鉄の蒸気船を生みだした今、聖書以上のセールスポイントを潰せた事になるわけだ。
西洋の技術が入るのに時間がかかるのは不便だが、50年後に多くのキリシタンたちが殺される事を考えると仕方がないだろう。
別に宣教師が日本に来なくてもかまわない統治者と、異国での活動実績を残したい
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
フロイスやザビエルが『海外に新たな販路を切り開く営業マン』だとすればヴァリニャーノは現地へ実地調査に来た本部の監視役です。
その彼の報告では
(当時、布教の責任者だったカブラルに対し)『豊後王(大友宗麟)だけは、カブラルの執り成しによってポルトガル船による利益があったから、彼に対してある程度の愛情を示した』(日本巡察記P305~306)と貿易による利益のために差別的な宣教師と付き合っていたと本国に報告しています。
また有馬晴信や大村純忠などフロイス日本史では積極的に寺社を破壊したイメージがあるキリシタン大名も
「神社仏閣の破壊は司祭たちがキリスト教の教義に反するというから不本意に行ったにすぎない」と語っており(日本巡察記P306)実際に彼らと面会したヴァリニャーノは、日本人の改宗は『実際は、日本人は領主たちの命令によって行ったのである。そして領主たちはポルトガル船から期待される収益の為に彼らに(改宗を)命じたのである』(日本巡察記P308~309)と日本史とは違う報告をしています。
つまり宣教師が語るキリシタン大名の信仰心は『監視役がいない場所で、自分の営業成績を立派に見せるため、かなりの誇張と願望が加わった、言葉の魔術を駆使した報告書』である。と見ないといけません。
ほら、営業成績を達成できてなったり、予算に入って無くても『大丈夫です(大丈夫じゃない)』とその場限りの嘘をついて、めちゃくちゃな案件を現場に丸投げする人間のクズみたいな営業っているじゃないですか(※フィクションの話です)
フロイスのタチが悪いのは、事実はどうであれ本気で自分の書いている事は事実だと考えている点です。もう『遠い異国で神のために仕える自分』に酔っているのか、そう考えないとやってられないのか、自分の願望を事実のように書いており、その検証をしながら読まないと大きな認識違いをしてしまいます。
布教成果に関してだけは『ウソツキサラリーマンの報告書』をよむような気持ちで認識していただければ幸いです。
あ、ただお金に関する部分は非常に細かくかなり正確ではあります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます