第47話 瀬戸内海を根城にしていただけなのに…

 大分にはふぇりーさんふらわあ こばると という大型客船が大阪や神戸に向けて就航している。

 これだと大きすぎるので臼杵と四国を行き来している国道9四フェリーよりも少し小さい規模の船を造らせたのだ。

「そんなローカルネタ。誰も分かりませんって」

 えーと、さんふらわあは全長153m。9四フェリーのすずかぜは86m。今回の船は50m程度です。

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 別府湾に浮かぶ鉄の城、もとい中型の鉄甲船。

『そんなもんできるわけないだろ』と言っていた不可能な物体を前にして驚愕の表情を浮かべる大友の重鎮3人。

 はっはっは。愉快愉快。

 そう満足していると横からさねえもんが

「本当にあれ、どうやって作ったんですか?」

 と聞いてきた。ふむ、では説明しようか。


 アーク溶接技術の無い時代。鉄板を接合するにはどうしたら良いかが最大のポイントだったが、完全な一枚板にすれば溶接の必要が無いことに気がついたのだ。

 賢明なる読者諸兄なら奈良の大仏の作り方をご存じだろう。

 中と外に鋳型を作り、段々に銅を流し込んで、固まったらはずしていく方法である。


 これを利用し、船の形に掘り出したセメント山に粘土で形を整えて5段に分けて鋳造したのである。

 完成後は片方の地面を掘り下げて少しずつひっくり返し、海水を流し込めば勝手に浮いてくれるというわけだ。内部は軽量鉄骨を使用して、重要な部分には鋳溶かした鉄を注ぐ事で溶接する。

 うん、今が何時代か分からなくなってきたが、持てる技術を使った結果だし出来る物はできてしまうんだから仕様が無い。

 ついでに膠を塗ってコーティングし3ヶ月点検で錆を防止しているどこまで効果が有るかはわからないが、何事も実験である。

「無月さんが都から仏師を呼んで来てくれたから、試作する必要が無くて助かったよ」

 そう、大仏を作る技術は廃れていたが寺の鐘などの大型鋳物の技術は細々と残っていたのでコネを使って呼び寄せたのである。

 全員、技術はあってもそれを振るうだけの財力を持った御大尽がいなくて宝の持ち腐れになっていたので『好きにやってくれ』という条件で読んだら喜んで飛んできた。

 古風な建築物で杉板を編みこんで造る天井板というのが予算と手間の関係で20年以上も造られた事が無く、勉強のため大工が集まった時なんて報酬が牛丼一杯でも集まったくらいらしいので特殊技術の継承というのは職人にとって有りがたい機会らしい。

 そのため所々に螺髪(仏様のパンチパーマっぽい髪)とか仏像とか、仏教にちなんだ飾りが見える気がするが黒く塗りつぶされているのでよくわからない。

「あの卍の模様とか菩薩様とか金箔がはられてますけど…」とツッコミが入った気もするが聞こえなーい。

 折角やる気になっている職人さんのモチベを下げるなんて現場監督的には出来ないのである。

 まあ、仕事が忙しくて放任してたら好き勝手されてただけなんだけど、カッコいいからヨシ!である。誰ですか?霊柩車とかいった人は。


 というわけで、三ヶ月で80人乗りの大型鉄鋼船の完成である。

 動力は水蒸気。櫓による人力の時代にスクリューを使っている。速度は平均28ノット(時速50km)。

 戦国時代の船は追い風などの特殊な条件がそろって最高で20ノット(37km)くらいだろうから追いつくのは不可能だ。

 分かり易く言えば自転車と原バイク位の速度差がある。

「はっきりいって、ここまで戦力差があると相手がかわいそうになりますね…」とさねえもんが東に向かって合掌する。

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 村上水軍は焙烙玉(ほうろくだま)という手榴弾みたいな高性能爆弾を持っていた。

 テレビで火薬の量を1/10にして再現したら木の箱が吹っ飛んでいたので木造船などひとたまりも無いだろう。


 だから信長と同じく鉄製の船を用意したのである。 

 なお船主にはという人物を抜擢しておいた。

「かれの親戚が後に毛利水軍を圧倒する若林鎮興という人間に成長しますので、早いうちに水軍を育てた方が良いでしょう」というさねえもんの進言からだ。

「進言したのに姿を見ないと思ったら、そんな所にいたんですか…」

 ちなみに若林鎮興は1561年に福岡の門司合戦で大友家が毛利に負けた後、急遽編成された水軍と推定されるらしいのだが、1569年には毛利の本拠地付近、秋穂浦(あいおうら)を襲うほどの実力を持つ水軍に成長し、退路を断たれそうになった毛利軍は九州から完全撤退する。ざまあ。

 また1580年の田原氏の反乱応援でやってきた毛利水軍も撃退され、九州を再征服することはできなかったという。

 いわば大友家影の功労者というわけだ。

「ゲーム、太閤立●伝5や赤神諒先生の小説では登場するけど、まだまだ知名度が低いんですよね」とはさねえもんの感想である。

 若林家は海辺に領地を持っていたが、元々が武士の家で陸戦での功績をたびたびあげていた。なので武士的戦い方ができる水軍として急成長したという。

 とはいえ、まだまだ新兵器の扱いにはなれてない新兵同然である。

 なので船の制作から関わらせて特別訓練で近代兵器の使い方を一から説明した。

 あとはどれくらいの訓練で上手くなるかの問題である。


 というわけで

「では練習も兼ねて村上水軍を攻めに行こうか」と提案した。


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 瀬戸内海は大阪湾と日向浦、関門海峡の3か所から水が流れ込む川の様な海である。

 特に能島の周辺は、干満時には激しい潮流になり最大10ノット(時速18km)の潮流が発生し渦を巻くことから、敵が船に乗って能島城へ接近することが難しい、天然の要害とも言える。

 なので村上水軍も潮の満潮干潮時には城に入れず、独自の潮見表を見ながら入島していたらしい。

 そんな島も毛利の小早川隆景が強風の日に麦藁をたくさん積んだ舟を何百と潮流に乗せて火を放ったため、建物に燃え広がり、島全体が火に包まれて落城したと言う。

 だが、そんな物量作戦に出るような大名がいない時代、能島は平和に海賊行為で生計を立てていた。

 そんな平和な能島に洋上に浮かぶ不気味な船の報告が挙がったのは昼過ぎだった。

「でっかい船が来ているだと?」

 褐色の肌に無骨なる腕。顔には隈のごときヒゲ。いかにも海の男らしいいでたちの村上武吉は、珍しい報告に海を見た。

 黒煙を上げてまっ黒な船が来ているのである。

 所々に金メッキが光っているのが非常に不気味だが

「まあこの島には近寄れんよ。万が一近寄るなら3時間も守り切れば勝手に座礁するだろうて」

 と村上武吉は事態を甘く見ていた。

 瀬戸内に無数にある小島の一つ、能島に根拠持つ彼にとって海は遊び場であり素人を自由に翻弄できる職場でもあった。

 金を払う船は通すが、そうでない船は襲って金品を巻き上げる。

 船に慣れない武士では彼らを襲うことは難しかったらしく1560年代の宣教師が船に乗って九州から大阪へ行こうとしたら海賊に襲われてひどい目にあった話が3回ほどかかれている。


「殿!矢文が届いております」

 そこには「村上海賊 御中」と書かれた文がついた矢が握られていた。

「このたび大友家では天下を鎮めるための事業を開始する事になりました。つきましては全ての船に5分の案内料を徴収する権利を認める代わり、一切の海賊行為を禁止します。

 従うのなら明日の昼までに砂浜に白い旗を立ててください。そうでないなら島ごと吹き飛ばします」というさわやかな脅迫を含んだビジネス文書形式の大ボラがかかれていた。

「今度の大友家当主は気でも違ったのか…」とあきれながら武吉は言った。

 それはそうだろう。

 島一つふきとばすなど神でもなければ無理な話だ。こんな幼稚な脅しなど今まで見たことがない。

「鎌倉からの名門 大友家も末裔はずいぶんと出来が悪いようだな」と村上は嘆息する。

 海賊行為はやっているが村上は元々武士の家臣であり、立派な水軍である。教養もあるし、水運の情報網で下手な領主より世の中に明るかった。

 種子島に鉄砲が来たときは驚いたが、目下の所それ以上の兵器は聞いたことがない。

 自分たちも船を焼く焙烙玉という兵器を使っていたが島を吹き飛ばすほどの威力などとは絶対にいえない。


「大言壮語もここまでくれば立派なものだ」

 そう言うと、部下たちに

「今日は寅の刻(4時)ころが潮が治まる時間じゃ。夜明けとともに瀬戸内に沈めておけ」と指示した。

 水中で櫓を切ってしまえば船など木の葉も同然である。この能島を攻めてきた愚か者は潜水の上手な者によって何度も海の藻屑と変えられたのである。

『岩礁に乗り上げるなら中身を奪い、海に沈んだら縁が無かったと思おう』

 人力ではかなわない大自然とつきあう武吉はそう割り切っていた。 

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 翌日。


「だめです!お頭!あいつ等の船は壊せません!」

 ほうほうの体で部下たちが帰ってきた。


 サンダーもドリルも無い時代、木造船を壊す程度の装備で厚めの鉄板製の船を壊すのはさすがに無理だったようだ。

「なんだと!てめえらなにやってんだ!」

「ですがお頭!あの船、櫓が付いてないんです!」

「単に船に引っ張っただけだろうよ!だったら船底に穴をあけんかい!このダボが!」

「あの船、鉄でできてましたぜ!無理です!」

 その言い訳を聞いて武吉は

「鉄が海に浮くか!嘘をつくにしても、もっとましな嘘をつきやがれ!」と反射的に部下の顔面をけ飛ばす。

 信長の鉄甲船ができたと言われるのは20年以上後の話である。

 そんな事を話していると、4町(約400m)離れた船から矢が飛んできた。

 後ろには文がついている。

「………あの船には源為朝でも載っているのか…?」

 武吉は目を丸くした。

 一般的な武士が放つ大弓の射程は120m位である。物語だと800mとか1kmも射程に入っているが、それは『人間は誰もがウサインボルトと同等の短距離記録を持てない』というのと同じく、例外中の例外である。

 なお大分の百合若大臣は大分市街から高崎山まで8km離れた裏切り者を射抜いたという伝説がある。(謎の大分アピール)

 まさかバリスタという機会仕掛けの弓を使っているなど思いもしない武吉は「もしかして俺は神か鬼でも敵にしてしまったのではなかろうか?」と背筋に冷たいモノを感じた。

「頭!文です!」

「お、おう。いったい何て書いてあるんだ」

 震える声で促す。


「ええと、「よくも、うちの船にいたずらしてくれたな。期限を先倒しする」です」

「え、ちょっと待って…」

 次の瞬間、島の北側にある崖の中腹が轟音とともに吹っ飛んだ。


「……気が短すぎねえか、大友家の殿さまは…」

 あわれ武吉は弁解の機会すら与えられずマフィアに手を出したチンピラの様な気分を味わう事になった。


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 臼杵の黒島から北にある白木という地名に若林水軍はいたと謂われています。

 一時期100通ある書状をまとめた先行研究を整理したり末裔の方に問い合わせたので、若林家の人物に関しては日本で10番以内に入るくらいには詳しい自信があります。何の自慢にも成りませんでしたが。


 なお能島には行った事が無いので動画で潮流を確認しましたが、非常に危険でした。あれは盾と言うより入り方を知らない人間を滅ぼす大自然のトラップのような感じがしました。海賊も何人か海の藻屑になってそう…

 

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