第27話 鎮西最強の祖父 吉弘鑑理。

 本作は大友宗麟のあまりの知名度の低さを嘆いた筆者が、少しでも宗麟たちの事跡をおもしろおかしく知って貰おうと思い書き始めたものです。

 なのに27話にして、やっと大友四天王ともいうべき宗麟黄金時代を築いた武将が全員登場しました。

 あと、前回登場した包丁汁は宗麟が発案したという説もあるのですが軽く流してて、筆者の宗麟アピールへのやる気のなさが感じられます。

 これを挽回するため吉弘さんは濃いめのキャラ付けにしました。

お会いしたことはないですが子孫の方ごめんなさい。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「五郎様!お久しぶりでございます」


 口ひげをたくわえたダンディなお兄さんが来た。

 一昔前の日本だと喫茶店のマスターでもやってそうなナイスガイだ。

 彼の名を吉弘左近大夫鑑理よしひろあきなおと言う。(あきただ、とも言う)

「吉弘氏は元々国東の東、武蔵町の領主でした。ですが今は西側の屋山に引っ越している大友家分家、田原の親戚です」とさねえもんがいう。

 彼の息子は福岡の名家、高橋家に養子に行った。

 その名を高橋紹運たかはしじょううんという。岩屋城で大友家のために玉砕した鬼神の如き猛将である。

「ちなみに、その息子、吉弘さんにとってはお孫さんは、戸次道雪さんの養子となり立花宗茂むねしげといいます」

 戦国B●SARAに出てきた鎮西最強な人か。チェーンソー持ってた。

「ええ、秀吉から東の本多忠勝と並んで称された人物ですね」

 すげー。

 この人というか、息子さん達が優秀だなぁ。この人は裏切らないよね?

「裏切るわけないでしょう。それどころか、私は大友家でこの人を一番評価してるんですよ」

え?ベッキーや長増の爺様よりも?

「はい」

 大友家マニアのさねえもんがそこまで言うのなら余程の人間なのだろう。


 なお吉弘の旧領武蔵町には吉弘楽という無形文化財の踊りが存在する。

毎年神社で踊られ、吉弘氏の子孫の方が顔を見せていたらしい。2年ほど前に当主の方が亡くなられたそうで、ご冥福をお祈りします。

 また神社の付近には飯屋がないので武蔵町で弁当を購入していたほうが良い。とさねえもんが言う。


 吉弘さんは俺にとっては初対面だが、もともとの宗麟は何度も顔を合わせているだろう。なので気軽に呼びかけてみた。

「左近。よく来てくれた」

 そういった瞬間、吉弘さんは顔を真っ青にしてひざから崩れ落ちた。


 え?なんかまずいこと言った?


 極めてフレンドリーに、親しみを込めて呼んだのだが…


「そ…そうですね。五郎様は当主とナられたのだかラ、もうワタシのこトを「義兄上」トハ呼んでくれないのデスね…」

 と、この世の終わりのような絶望した表情で言われた。


 え?宗麟って大友家の長男だったよね。さねえもん?

「えーと、目の前の吉弘鑑理さんは大友宗麟のお姉さんの夫、つまり義理のお兄さんにあたります。ついでに言えば吉弘さんは実弟もいたと系図には記録があります」

 なるほど、なのに何で宗麟から兄と呼ばれなかっただけでここまで落ち込むのだろう。

「去年までは義兄上、義兄上と慕ってくれてたのに…そうだ、これは夢だ、私は今夢を見ているのだ…」


 この人怖い。


 とはいえ、食糧輸送には欠かせない人物らしいので、とりあえず刺激しないようにフォーローしておくか。

「すいません、義兄上。ですが、私も大友家の当主となった身。肉親とはいえ公私を混同してはよくない噂をたてられるかもしれないではないですか」と言ってみる。

 すると「立派になられましたなぁ!」とおもいっきり抱きつかれた。子犬か?この人にとって俺は子犬かなんかなのか?

 しばらくして満足したのか、こほん、と咳払いすると襟を正して

「なるほど。確かにその通りです。立派になられましたな(そいつらを皆殺しにしましょう)」と言った。

 …なんか恐ろしい声が聞こえた気がするが聞こえなかった事にしよう。


 というわけで、吉弘さん、それにベッキーも交えて進軍の計画を練る。

「ふむ。道はこれで問題ないでしょう。兵糧も余裕を見て用意出来ておられる」

 昔は一日2食が基本だったそうなので、3食分用意していたのは予備とみられたようだ。

 ナイス怪我の功名。

「ここまで、細かく緻密に決められるとは、さすがは吉岡様。十年以上戦から離れていても、その知謀は健在ですな」と吉弘さんが言う。

 こうしてみると非常にまともだ。

「吉弘家は国東西部のまとめ役でもあり、一族は神社の神官もしているので生まれながらにして頭領の素養を要求されますからね」

 南北朝時代には兄が神職となって弟が家を継いだ例もあるそうだ。立派な家に生まれるってのも大変なんだな。

 そう感心していたが、長増のじいさんの「いや、この計画を立てたのはお屋形様じゃよ」という言葉でそれも、ふっとんだ。あ、嫌な予感がする。

 まじまじと地図を見ていた吉弘さんは、驚愕しながらこちらを見つめると


「神童じゃぁぁぁぁ!!!!」

と叫びながら、また頭をなでだした。

「よくぞここまでしっかりとした計画を立てられました!この左近、義兄として、義兄として鼻が高こうございまするぞぉぉぉ!!!!」という鳴き声つきで。

 この時代の宗麟さんは数え年で21歳なのだが、この人の頭では何歳になっているのだろう。というかこの人本当に大丈夫なのだろうか?

「よし!この吉弘、過労死してでもこの計画を完璧に遂行できるように粉骨して頑張りましょう!!!」

 冗談でもやめろください。ブラック現場で過労自殺した若手監督を思いだしたよ。

 本当に大丈夫なのだろうか?この人。

「まあ冗談はさておき計画を立ててみましょう」

 そういうと、吉弘さんは懐から一冊の冊子を取り出した。

「何ですか?それ」


「これは各家の系図や交友関係をまとめたものです」


 戦国時代の領主は近くの領主と結婚関係にある家が多い。

 なので、その地方の一つの家を味方にすれば、その縁で芋蔓式に味方を増やせる場合があるのだという。

 有名な例として真田幸村と父親が徳川家康に逆らったので、処刑しようとしたら幸村さんの兄が家康の家臣の娘婿だった。なので、その家臣(本田忠勝)が自分も腹を切ると言い出したという。すると「ならば自分も」と徳川四天王の一人も便乗し「彼が腹を切るなら自分も」と連座の範囲が広がりすぎて処刑を取りやめた。という話がマンガうっかり戦国4コマ かいこ という本に書かれていた。


 で、吉弘さんはこうした人脈を統制するのが非常に上手かったらしい。


 長増の爺様が管理していた大分県玖珠郡の人脈を吉弘さんが受け継いだようで、玖珠の一地方の神社で落成式を行った際に、参加者が奉納した品に玖珠の住人たちの筆頭として吉弘さんの名前が挙がっている。(豊後国荘園史料集 玖珠より)

 こうした内々の行事に管理者が名を出すのは豊後では珍しい。

よほど地元民と仲が良かったのだろう。


「それに吉弘さんは後で筑前と肥前の管理も担当するようになったらしいんですよ」

 1570年あたりまで2国の経営を監督していたらしい。

ベッキーでも筑前一国なのにその倍。

それだけでも吉弘さんがどれだけすごいかがよくわかる。


「ふむ、北里氏を拠点にして、こことここに玖珠の関係者が嫁いでますな、それに阿蘇氏の娘婿の妹が豊後に嫁いでいるから、ここも親族つながりでいけますね」

 そういうと将棋の駒の上に白い碁石を置きだした。

「彼らが大友寄りになれば、ここの当主の性格からして襲ってくる可能性は低くなるでしょうし、こちらは菊池の情報を横流ししてくれるでしょうなぁ」と言い出した。

「さすがは左近。なかなかの見立てじゃな」と長増の爺さんが感心する。

 臼杵さんたちが大友家という看板で利害を説いたのだとすれば、吉弘さんは人脈と顔の広さで裏側から手を回すのが得意らしい。

 どっちつかずな領主の半分を大友側に鞍替えさせると宣言した。

 これで戦う前に勝利が確定したようなレベルにまで戦況が固まりそうである。

 ここまでくれば源義経とかナポレオンなどの反則レベルの用兵家でも来ない限り負けない程の戦力差になっている。

勝負は戦う前についているという言葉があるが、それを実感できる布陣だ。

立場が逆ならストレスで眠れなくなっているほどのエグイ戦力差である。


 さらに吉弘さんは大まかな進軍計画を実務レベルにまで落とし込んだ。


 文書にすれば一行だが、不足しそうな兵糧の数を計算して、その米を運ぶための人員、馬、荷車をどこで調達するかを日程計画までたてて書いて見せた。

 現代社会で言えば30以上の支店がある大企業で自社の社用車がどこにどれだけあって、扱える人間がちゃんといるかネットも電話も使わずに書き出したのだ。


 記憶力が化け物すぎる。


 単なる変人かと思ったが化け物レベルで仕事ができる変人だったらしい。

「変人という所はゆずらないんですね」

「元服が終わった男を神童なんていう人はまともじゃないよな」

 現代企業でも仕事ができる経営者ってどこか変わった所があったけど、吉弘さんはそれらを軽く天元突破してるからなぁ…というか最終的に担当した肥前筑前って、福岡の1/4と佐賀、長崎だろ知事3人分の仕事ができるってまともな人間じゃないだろ。さねえもん。

「そうですね。ただ、さすがに重労働だったみたいで1570年に吉弘さんは病気になるんですよね」

 あらら、っていうかやっぱり体を壊すよなぁ。

「それでも無理して働いたので、4月に死亡したようです」

宗麟は息子さんにお悔やみの手紙を出したという。

「で、長増さんが1573年ころ死亡、つぎに臼杵さんが1575年位に相次いで死亡しているのですが、これ吉弘さんの仕事を肩代わりして過労死したんじゃないかと思います」

 …ちょっとまて。

 4天王のうち3人が一気に死ぬとか困るんだけど。

「そうなんですよね。連鎖的に主力が死んだから8年後に大友家は島津氏にボロ負けするんですけど、吉弘さんが生きてたら未来は変わったんじゃないかなーと思うんですよね」


 縁の下の力持ち。という言葉をご存じだろうか?

 戦国時代だと米五郎左と言われた信長の筆頭家臣 丹羽長秀や秀吉の部下である石田三成や大谷刑部あたりが有名だろう。

戦場で目立った活躍はないが戦争に必要な物資を集めて味方が当たり前に戦える環境を整える役目を担当する人などがこれに当たる。

風雲児たちというマンガでは、この後方支援を「実際に戦場にでて戦うよりも大変な仕事」と評価している。現地で実際に戦うのも大変だが、現地には行かずに遠方で現地を想像し、食糧不足を起こさないように数日後の行動までを想定して、多くの部下に指示を出すのだ。

もしも読みがはずれても大丈夫なように、複数の事態を想定して最悪の事態への予防線を張る。責任感があればあるほどストレスで疲弊して早死にするブラック職だ。

 三国志の軍師が軒並み早死にしているのを見ればその大変さがわかるだろう。


「労働基準法つくろうかな…」

「みんな破りますよ。人権のない戦国時代ですから」

無意識のつぶやきにさねえもんがつっこむ。

 かけがえのない命をもっと大事にしようよ。


 そう思わずにはいられない。

 ともかく臼杵さんと吉弘さんには補佐役をつけてやることにした。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 筆者は吉弘さんに会ったことがないのでどんな人かは分かりませんが、能力的には織田信長にとっての丹羽長秀クラスの重要な人間だと思っております。

 下手をすると道雪や高橋紹運よりも評価が高いです。

 なのですが、地元だと孫の吉弘統幸の方が有名なのが残念。

吉岡長増といい、大友家全盛期よりも滅亡時の人物の方が評価されるから大分での大友家は盛り上がりに欠けるんじゃないかな?と思うことしきりです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る